美しい日本語の要素として鼻濁音があると信じている。もっとも鼻濁音ができない
あるいは知らない地域もあるということも承知の上で。
要するに、ガ行音は語頭にある場合を除いて、鼻濁音として発音すべきである。
主格の助詞”が”を初めとして言語ゲンゴ、権現ゴンゲン、銀河ギンガ、午後ゴゴ
などを発音してみればわかる筈だ。
そういう意味で並木道子のリンゴの歌は嫌いである。彼女はリンゴをローマ字で
RINGOと書いたものを読んだようにリン・ゴという。これが何度も何度も繰り返される。
小学校三年生のときの受け持ちの先生は新任のパリパリで、野球部の監督をしたりして
好きだったが、鼻濁音を無視し,釘をク・ギと発音したりするのが耳障りでいやだった。
若者の中には森永をモリナ・ギャと発音する人がいる。日本語を英語風に発音する
軽薄さが嫌みである。
ところが小学校時代,我が家の真向かいの八百屋の肝っ玉おばさんは蟹
のことをンガニといった。平家蟹ならまだしも単なるカニをである。
遙かな思い出である。
あるいは知らない地域もあるということも承知の上で。
要するに、ガ行音は語頭にある場合を除いて、鼻濁音として発音すべきである。
主格の助詞”が”を初めとして言語ゲンゴ、権現ゴンゲン、銀河ギンガ、午後ゴゴ
などを発音してみればわかる筈だ。
そういう意味で並木道子のリンゴの歌は嫌いである。彼女はリンゴをローマ字で
RINGOと書いたものを読んだようにリン・ゴという。これが何度も何度も繰り返される。
小学校三年生のときの受け持ちの先生は新任のパリパリで、野球部の監督をしたりして
好きだったが、鼻濁音を無視し,釘をク・ギと発音したりするのが耳障りでいやだった。
若者の中には森永をモリナ・ギャと発音する人がいる。日本語を英語風に発音する
軽薄さが嫌みである。
ところが小学校時代,我が家の真向かいの八百屋の肝っ玉おばさんは蟹
のことをンガニといった。平家蟹ならまだしも単なるカニをである。
遙かな思い出である。