よろず放談

日頃見聞きする種々の事柄に対しての独断と偏見による辛口批評

鼻濁音について

2005-05-08 10:35:11 | 言葉
美しい日本語の要素として鼻濁音があると信じている。もっとも鼻濁音ができない

あるいは知らない地域もあるということも承知の上で。

要するに、ガ行音は語頭にある場合を除いて、鼻濁音として発音すべきである。

主格の助詞”が”を初めとして言語ゲンゴ、権現ゴンゲン、銀河ギンガ、午後ゴゴ

などを発音してみればわかる筈だ。

そういう意味で並木道子のリンゴの歌は嫌いである。彼女はリンゴをローマ字で

RINGOと書いたものを読んだようにリン・ゴという。これが何度も何度も繰り返される。

小学校三年生のときの受け持ちの先生は新任のパリパリで、野球部の監督をしたりして

好きだったが、鼻濁音を無視し,釘をク・ギと発音したりするのが耳障りでいやだった。

若者の中には森永をモリナ・ギャと発音する人がいる。日本語を英語風に発音する

軽薄さが嫌みである。

ところが小学校時代,我が家の真向かいの八百屋の肝っ玉おばさんは蟹

のことをンガニといった。平家蟹ならまだしも単なるカニをである。

遙かな思い出である。

横文字遍歴(ローマ字,英語)

2005-05-07 12:59:13 | 外国語
生来横文字が好きである。それは物心がついた幼時から始まる。

父は岐阜県の農家の長男に生まれたが、農夫の生活にあきたらず

同郷の親戚で一宮市に出て織物商で成功した人を頼って丁稚奉公をつとめ、

一人前になって独立し自前の織物商店を開いた。小学校しか出ていないが

どこで覚えたのかいろんなことを知っていた。習字も得意で、巻紙片手に

毛筆ですらすら手紙を書いた。新しがり屋で今でいう七半のAceという

オートバイを乗り回していた。外国産のオートバイのカタログがあったらしく

ハーレーダビットソン、インディアン、エースなどという名前を何時とはなしに

聞き覚え、得意になってしゃべりまくったらしい。”毛唐だ毛唐だ”とからかわれて

真顔になって否定したそうだ。

昭和二年小学校に入学。一年生のときは石版に石筆で字を書いた。二年生から鉛筆

で紙に字を書いた。下敷きはこのごろのようなプラスチックではなくて、ブリキ

製で縁取りがしてあり、長方形の両面にはいろんなことが印刷してあった。

掛け算九九、割り算九九、各種の度量衡単位の変換、そしてヘボン式ローマ字。

割り算九九は算盤をやらない者にはチンプンカンプンでついに覚えなかった。

しかしローマ字は何の抵抗もなく頭に入った。高学年になると日本語の文章を

自由自在にローマ字で書くことができた。

中学校に入って初めて英語に接したが、ローマ字の下地のお陰で少しも違和感

がなかった。英語の時間は楽しくて、進度の遅さにいらいらした。

四年生のときだったか、副読本にジャガイモの話がのっていて、その中に

pomme de terre ポムドウテルというフランス語とErdapfelエルダッペル

というドイツ語が出てきて、その目新しい綴りと発音に興味をそそられ

早くいろいろな外国語を習いたいと思ったことを、しみじみ思い起こす。


棋士雑観

2005-05-06 11:13:11 | 将棋
テレビで将棋の対局を見るのが楽しみである。いろいろな棋士がいるがどの棋士

にも共通するのは、負けたときの態度の素晴らしさである。心の中は屈辱と

後悔の念で煮えくりかえっているに違いないが、それを少しも外に表さず,平然と

局後の研究を続けるあの抑制は見事である。以下は諸棋士の印象に残るスナップである。

桐山清澄九段:以前は燻し銀といわれたが、このごろはもっぱら激しい喧嘩将棋。

どうも年を取ると持久戦型から急戦型に移る人が多いようである。中原永世十段然り。

閑話休題:相手の強い駒を取るときの仕草が魅力的。舌なめずりをして、駒を何度も

撫でさすりながら取り上げて、愛おしむように駒台にのせる。よほどうれしいのだ。

羽生善治さん:この人は何段だか分からないし、しょっちゅうタイトルを取ったり

取られたりするから、なんと呼んでいいか分からない。とにかく強い。滅法強い。

駒を打つときの手つきが凄い。一旦横から大きく手を回して打ったり、ここぞという

とき相手の急所にねじ込むように打ち据える。そしてハブ睨み。相手にあたえる

ダメージ甚大。

森下卓九段:勝負師とは思えない端正謹厳の紳士。棋風は守り主体の堅実派。

相手の突いたり、打ったりする歩をことごとく取り---「取っても利かされ、

取らなくても利かされなら取れ」という格言の信奉者----気がつくと駒台

にはいつも歩がいっぱい。今度はそのありあまる歩を使って、ネチネチ攻める。

中川大輔七段:長身痩躯。口ひげをたくわえ、ジムで格闘技を鍛える。

精悍な風貌通りの目一杯の熱闘。この人の対局を見ていて期待を裏切られたことは

一度もない。筆者お気に入りの棋士。

畠山鎮六段:畠山成幸七段とは双子の兄弟。名前とは正反対の攻め将棋。

駒の置き方に特徴がある。駒を升目の底に並べるので有名なのは有吉九段、島八段。

この人はすべての駒が少し傾いている。しかも駒を打つときも斜めにもって

押すように静かに置く。内藤九段,田丸八段の華麗な手さばきとは対極的な地味な

手付き。

太った体にピンク色のスーツを着てテレビの司会者顔負けの手八丁口八丁

の神吉(カンキ)六段、テレビゲームのスーパマリオそっくりの武者野六段など

多士済々だが、今日はこの辺で。

将棋のつぶやきことば

2005-05-05 11:54:52 | 将棋
高島俊男さんが著書「百年のことば」の一節「ははアーの三年忌」で碁

を打つ人が対局中に無意識にあるいは意図をもって発するつぶやきことば

について述べておられる。そのお相伴をして将棋のつぶやきことばを紹介

する。以下は筆者が小学生時代に大人達が将棋を指すのを見ていたときの

記憶からの抜粋である。中には間違って覚えているのも無いとはいえない。

「お手は?」「駒台、駒台」(駒台付きの盤で差しているとき)

「手に?」「歩ばかり(柴刈り)山のほととぎす」

「手は?」「金銀財宝山の如し」

「手は?」「金鶏鳥(金桂香)は唐の鶏」,「金鶏銀鶏は唐の鶏」

「手は?」「三桂あって詰まんことなし」

「ははアー」「ははアー(母)の十三年」(高島さんの例と少し違う)

「王手!」「逢うてうれしや別れの辛さ」

「なるほど!」(そんなもの想定内だよ!)「成るほど千切る初茄子」

「そうか!」「草加煎餅練馬大根」(創作かもしれない?)

 (角を成りながら)「斯くなり果つるは世の定め」

 (相手の狙いを見抜いて)「その手は桑名の焼き蛤」

 (長考の相手に)「下手の考え休むに似たり」

 (連敗して)「また負け(渡辺)の綱」

(圧倒的に優勢の方が相手の無理攻めを受け流すのを見て、観戦者いわく)

  「金持ち喧嘩せず」

まだまだあるが思い出せないので、今日はこれ位で。


国語教育に「話し方」を課すべし!

2005-04-26 12:41:26 | 言葉
戦前の小学校の国語には、「読み方」(講読)、「綴り方」(作文)、「書き方」(習字)

の三教科があった。しかし「話し方」(口頭発表)という教科はなかった。そしてその

悪しき伝統は今日まで続いている。いや、習字だけは、どうもおろそかにされているようだ。

その証拠に若者の書いたカタカナの「シ」と「ツ」は一見どちらだか区別がつかない。

あれは習字で書き順を習わなかったためだと思う。閑話休題。

国会の大臣の答弁や演説、学会の学者の講演などを見ていると、迫力が無いことおびただしい。

演者は原稿や映写画面ばかり見ていて、少しも聴衆の方を見ない。果たして聴衆を

説得しようとする意欲があるのかと疑いたくなる。これは温暖湿潤な気候と

集団活動に頼る農耕民族の伝統に基づく、断定を避け、ことを荒立てず、韜晦と曖昧

を重んずる国民性の表れである。こういう気風は日常生活の情緒的な会話ではむしろ

望ましいかもしれない。しかし、利害と意見の異なる相手を説得したり、論理をもって

自説の正しさを主張しなければならない場面では全く無力である。断乎として

優柔を捨て去り、堂々と聴衆を見回して、腹の底から音吐朗々と発言すべきである.

この日本人の口頭発表の拙劣さをそのまま放置しているのが悲しい現状である。

打開する方策はただ一つ。小学校のときから「話し方」の教科を課して

徹底的に教育することを置いて他にはない。なにも難しいことではない。

要点は次の二三の項目に尽きる。

1.一人の相手と会話をするときには、相手の目を直視して話せ。

2.多人数に対して話すときには、人数と会場の広さに応じて

  声の大きさと、話の速度を調節せよ。勿論、人数と広さが大きくなれば

  声を大きくし、ゆっくり話さなければならない。ボクシングやプロレスの

  リングアナウンサーのアナウンスを聞け。「アーカーコーナー。ヘービー

  級チャンピーオーン。モーハーメッドーアーリー。。。。」狭い部屋で

  数人を相手にあんな派手な発言をしたら,それこそ狂人だが、広いスタジアムと

  喧噪と騒音の中では、あれでなくては隅々まで徹底しない。誠に理に叶っている。

3.聴衆を見渡せ。頷く人が数人見つかればそれは成功のしるしである。

4.常に聴衆を楽しませようと努力せよ。話の中に少なくとも一カ所、さわりを設けよ。

  読書にはげみ、見聞を広め、教養を深めて置け。

以上のような趣旨の教訓を旧制中学生の私に教えてくれたのは、国語の先生でも

漢文の先生でも英語の先生でもない。なんと軍事教練の担当で陸軍退役中尉の

尾関慶十郎先生だった。部下に号令をかけるときの心得として教えて貰った。

級長---今は学級委員というらしい---をしていた関係で特に目を掛けられていた

ので、先生の教えが身に沁みた。先生はいつも軍服軍帽に身を固め、いかつい

顔をして,ときどき面白いことをひょいひょいといった。

軍隊ではやたら難解な漢語を使い、あらゆることが決められていた。まじめな顔

をして「睾丸(コウガン)は袴下(コシタ,ズボン下)の左に入れろー」といった

のにはあきれた。

三年生になると銃をもたされた。有名な三八式歩兵銃である。部品の名前は全部

漢語だった。雨が降ると銘々が銃器庫から銃をとりだして雨天体操場で分解手入れをした。

撃鉄(引き金)を引くと留め金が外れて、発条(バネ)の力で飛び出して弾丸の底部

の信管を衝撃する細い棒のような部品がある。「これは撃茎(ゲッケイ)だ。

おもしろーいーかー」といってにやりと笑った。

姿勢の悪い者がいると必ず「ひかがみを延ばせー」といった。「ひかがみ」は

「ひきかがみ」のつづまった形で,美しいやまと言葉である.膝小僧の裏側の

のっぺりした,人体の中でも最も美しい部分をいう.現在では全くの死語で

これがわかる人は,百人中一人もいないであろう.漢字では膕と書く.

 誰も教えてくれなかった「話し方」を、ただ一人みっちり教えてくれた今は亡き

先生の面影を偲んで筆を置く.



名は体を表す?!

2005-04-25 13:03:13 | 言葉
つい先日バス停で市バスを待っていたら、目の前に洋菓子店があった。

店の名前は"Plaisir". このままにして置けばよかった。ところが

ご丁寧に間違ったふりがなを付けてしまった。”プレジュール”。この語が

英語のpleasureプレジュアと同根だと分かってのことか。勿論”プレズィール”

でなければならない。こういう例は時々見かける。ドイツ語Inselインゼル(島)を

”インジェル”と思っているパン屋さんもあったっけ。

商品のイメージ作りのために、関係のある外国の名前をつけるのは少しも構わない。

しかし、それならそれで、正しい発音を確かめるために、信用の置ける人に

相談する手間を惜しんではならない。そうでないと肝心の商品まで”訳あり”

ではないかと疑いたくなる。

 Plaisir ですぐ心に浮かぶのはクラシック歌謡の”Plaisir d'Amour"

(愛の歓び)である。”愛の歓びは束の間の歓び、愛の悲しみ永久(とわ)

の悲しみ”と歌うあの有名な歌。原歌詞はフランス語とイタリア語の両方があるが

フランス語の方がしっくりする。作者はGiovanni Martini というから

てっきりイタリア人かと思うと案に相違してフランス人のペンネーム。こういう例では

あの宝塚少女歌劇の名歌”すみれの花咲く頃”の本歌"Quand refleuriront les lilas

blancs" (白いリラの花が咲く頃)が作詞者Fritz Rotter、作曲者Frantz Dölle
 
というドイツの歌の替え歌であったり、シャンソンの”ラストダンスは私と”

がM.Schuman作曲のアメリカの曲であったりする。最後にデカイのをもう一つ。

フランク・シナトラの熱唱で有名な”My Way".ポール・アンカの作詞で

人生の終盤を迎えた男が”おれはやったんだ。とことんおれ流でな。”と

胸を張り、誇り高く聳え立ちながら雄叫びを挙げる。アメリカ気質の標本

のような歌がもとを正せば、シャンソンの”Comme d'habitude"(いつものように)

の替え歌で、しかもその歌詞は、しがない共稼ぎのサラリーマンの冴えない一日を

自虐的に歌ったもの。”目が覚めた。あいつはまだ眠っている。揺り起こすと

背中を向けて知らん顔。いつものように----いつものように----いつものように”

という調子。こんなうらぶれた歌が歌詞を変えると途端にあんなに勇ましい歌に

変身する。いやはや!





ポール牧自殺す

2005-04-23 11:01:57 | 日記
コメディアンのポール牧がマンションから飛び降り自殺した。

実は,彼についてはほとんど何も知らないし、彼の舞台も碌に

見た覚えがない。ただ一つだけ決して忘れることのない

記憶がある。何時だったか、おそらく5年ぐらい前だったろうか

何気なく見ていたテレビの画面に彼の一座の楽屋での様子が

写っていた。幕間の時間らしく、みんなが店屋物の弁当を

そそくさとつついていた。一人の座員がポールに向かって

いった。それは図星だった。だからこそ言ってはいけない言葉だった。

”侘びしいですね”

突然ポールは彼に飛びかかって、激しい平手打ちをかませ

”いやなら出て行け!”と怒鳴った。それからどうなったかは

あまり覚えていない。

それ以後のポールの動静についてはなにも知らない。彼の人生の軌跡

との第二の接点が昨日の自殺のニュースだった。売れなくて

仕事がないのを気にしていたという。きっと

あのときの自尊心の深い傷の痛みが通底音として、うずいて

いて、それが爆発したのだろう。他人事ながら同情に堪えない。

”ツーナウト”とは何事ぞ!

2005-04-12 12:09:54 | 言葉
 プロ野球のテレビ放送を見ているとアナウンサーの中に

 ”ツーナウト”という人がいる。one out を”ワンナウト”というからといって

 two の語尾にnの音がないのに、”ツーナウト”というのは、聞いているこちらが

 恥ずかしくなるほど、見苦しい、いや、聞き苦しい。美しい日本語の模範たるべき

 アナウンサーがこれでは情けない。自分で変だとは思わないのか?近くの同僚など

 がなぜ注意してやらないのか? 不思議である.(気を付けて聞いていると

 ”スリーナウト”というのもいる.いやはや.)

こういう無神経な輩(やから)に贈る格好の言葉がある。フランス語特有の

 リエゾン----普段は発音されない語尾の子音字が、つぎに母音が来ると復活して

発音される-----に関してpataquèsパタケースという語がある。大型書店へ
 
行ってロベールギランの大きな仏和辞典をヨッコラショと引くと、(Je ne sais)

pas à qu'est ce(ジュヌセ)パザケースという文章を読むとき、pas とà の間に

誤って t を入れて パタケースと読む愚を揶揄したものだという。この言葉の

響きは東京の「馬鹿」、大阪の「あほ」に相当する名古屋の「たわけ」そっくり。