新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代37「鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その1)」

●鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その1)

 昭和59年10月下旬の穏やかな秋の一日。冬に日本海の寒風が吹き付け、沿岸部でも時に大雪が降り積もる新潟市では、夏場は夏場で砂丘地のためなのか結構暑くなるので、梅雨前の春先とこの日のような秋の日は大変貴重なのだ。
 大学2年生だと就活はまだ先だし、1年次ほどの緊張感も無く、授業の出欠の仕方など勘所を得ていたので、当日の朝起きて気分の良い気候なら、愛車で遠乗りでもしてみるかということが直ぐにできる。その日にアパートの窓から遠く日本海を眺めた明るく穏やかな景色は疑いようも無くそんな気持ちにさせた。
 詳しい道路事情とか途中で何処に寄るかなどそんな細々したことを考えるのは無粋に思う、それが格好良さのように感じるような年頃だったので、大雑把な道筋のみを眺めておいた全日本道路地図を助手席におき、中古の愛車トヨタ・カリーナ1400DXで、ひと気の無いアパート前の砂利道を出発した。
 新潟大学五十嵐キャンパス周辺からできるだけ海沿い伝いに北へ向かおうと、国道402号から国道113号、国道345号を走る。新潟県北の村上市で全国的にも有名な瀬波温泉のあたりまでは砂丘地基調の平坦な沿岸道路なのであるが、その先、これも鮭漁で有名な三面川を越えると急に地形がゴツくなり、どこまでも続く断崖のか細い海沿いの路面を、左に直下の海、右に覆い被さりそうな岩壁を見ながらハンドルを持つ手にも力が入る。
 そんな緊張続きだったので、鼠ヶ関という県境の景勝地で車を停めて一息つく。新潟市五十嵐から120kmで2時間以上ノンストップであったが、二十歳前の私には何の疲れも無かったように記憶している。せっかく山形県に車で初めて来たのだから、少しは名所を見て回ることを考えそうだが、その時の私には秋田県の男鹿半島に何とか到達したいとの一心だった。経路近くの鶴岡市などには目もくれず、山形県を通過することにした。
 目的地一直線のつもりでも、やはり紅葉シーズンの貴重な晴れの日であり、秋田県近しというところで目前にそびえる美しい形の山と黄色や赤の山腹が見えてきたものだから、「これは見物しておこう」という気になってしまった。山登りの経験など皆無だった私は山岳の道路に関する知識は皆無であり、「鳥海ブルーライン」という標識を見て観光向けの有料道路だろうから快適に走り抜けられるのだろうと思い込んでしまったのだ。
 有利用道路入口のゲートで窓を開けて前払いの通行料金を払うと、管理員は「上は初雪みたいだから気をつけてね」と事もなさげに軽い声がけをして見送ってくれた。未だ10月の紅葉にちらつく季節先取りの初雪。それも"おつなもの"と決め込んで車を進めたのだが…。

(「新潟独り暮らし時代37「鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代38「鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その2)」」に続きます。)
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