新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代12「比角小学校で始まる」

●比角小学校で始まる

 私が柏崎市立比角小学校に入学した昭和45年当時、児童の机は木製で二人が並んで使う横長タイプで、木製の上蓋を手前から持ち上げて勉強道具を収納する仕組みだった。年季が入っていた上に、木製ゆえの木目のみならず歴代の使用者が落書きしたり彫刻刀か何かで削ったりして机の表層は凸凹で、直接画用紙などを置いて書き物などに耐える平坦さはもはや無く、描けば木目や空いた穴をなぞるような模様が描かれてしまうのだ。
 それでも小学一年生くらいなので、簡単な教科書を見ながら発声したり、遊びに近いような工作といった程度であっただろうから、不便を感じた思いは無かった。ただ、一つの机を二人掛けで共用することで、組になる相手が落ち着きが無かったりすると少し煩わしかったなあと思い浮かばれる。
 古い校舎ならではといえば、冬場の朝の役割が印象深い。どの程度のスパンで当番が回ってきたか定かでないが、授業が始まる前に二人で組になり、カレールーを入れる器の形をバケツの大きさにしたような青色のブリキ製の容器をもって、教室の並ぶ木造校舎の隅に配された倉庫のような所へと赴く。
 扉を開けると五,六歳ほどの児童からみれば高くそびえた薄黒い小山が威圧してくるかのようにある。その裾野のあたりに手シャベル様の道具を滑らせ入れて、ボロボロとこぼしながらも不整形なおにぎり大の黒い塊をブリキの容器へと移していく。
 当時の小学校は石炭ストーブだったのだ。先生から予め教えられていた通りにせっせと教室まで石炭を運ぶというルーティーンが昭和の古い小学校にはあった。我々子供たちは教室内の指定の場所まで運び込むまでで、さすがにストーブにくべるのは大人である担任教師の役目になったわけだが、常に監視の目があるわけでは無い中で、ある程度危険を伴うことも児童に任されていたなあと思い返すことが多い。
 危険に加えて衛生面でリスクがあるという点では、便所の汲み取りまで生徒が手伝っていたということがあった。
 当時の古い木造の小学校舎は当然のことながら水洗便所ではなく、汲み取り式便所であり、定期的にバキュームカーが回収に来ていたと思うのだが、校庭内で教育用に設けられていたのか畑があって、そこの肥料として用いるために柄杓の大きいやつで専用の容器にくみ取り入れる高学年生の姿を何度か目撃したものだ。
 その作業は、私が見た限りでは、いつも全学年が知っているような大きな体つきでガキ大将風の有名な男子児童であったので、今から思えば当番制ということでは無かったようだ。何か悪さをしての罰なのかとも思いきや、本人は付き添いの教員と明るく談笑しながら作業していたので、そうでは無かったのだろう。将来農家になるとか何か理由があったのかも知れない。
 当時は”高学年になるとこんなことまでするのか”という思いで遠くから傍観していたのだが、それは”汚いし臭いから嫌だ”というよりも、”大人扱いされるのだなあ”という感覚であった。年度末ギリギリの早生まれで近所でも一番のチビ助だった小学1年生の私から見れば、6年生は大人びて見えてならなかったのだ。

(「柏崎こども時代12「比角小学校で始まる」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代13「ワンダーランド比角小学校(その1)」」に続きます。)
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