好きな選手は誰ですか?
松下選手です。
…と私は直ぐに答えられると思います。
ただ、それが最近、また疑問に思う事もあります。
私自身が求めているプレイスタイルを100%に持っている選手が「松下年宏」であった筈なのに、昨シーズン、その「松下年宏」のプレイを観ていても、そのプレイスタイルが失われていると感じたからです。
調子が良い時のパフォーマンスと調子が悪い時のパフォーマンスという事ではなく、彼のパフォーマンスそのものに違和感を覚え、否定をしてばかりいました。
「もっと良いプレイが出来る筈なのに」
「自分の実力をもっと存分に発揮して、スタメンを奪える筈なのに」
もっと、もっと、と望むばかりに自分の理想をする「MF」像が「松下年宏」ではなくなってきたのかもしれません。
「松下年宏」のプレイは絶対に誰1人して真似は出来ない、と自信を持って考えていた筈なのに、この程度のプレイなら「松下年宏」以外の選手でも十分に出来るのだろうし、「松下年宏」以外の選手の方が更に上のレベルでのパフォーマンスを出来るのなのだと。
彼のプレイを観る度に、マイナス面だけが目に付くようになり、それを気にし過ぎてしまい、プラス面を考えられなくなってきていました。
自分の理想とする「MF」像は一体、何なのか。
自分の追い求めているプレイスタイルとは、あまりにもギャップがあり過ぎてしまい、何度も考えて、何度も否定をする事の繰り返し。
「自分の応援している選手が活躍してくれるのは、凄く嬉しい」
理想と現実で、自分が妥協をしてしまっている部分が無意識にあり、そういった考えを持つ自分にも段々とイヤになってきていました。
だったら、「松下年宏」が今以上にもっと活躍を出来るように、しっかりと応援をすればいいと頭の中で考えていても、1度、自分の中にある「その存在」を都合の良いように考え直す事が難しい状態になって来ています。
不完全なだからこそ、完全を求め、それに少しでも近付こうとする。
「松下年宏」に求めている事は、私自身の持つ「理想」を形として表してくれる選手でもあり、それがベースにあるからこそ彼自身にも興味が持てていました。
今、チームの中で私の理想となる「MF」像は「松下年宏」という形で原点にあるからこそ、彼以上のパフォーマンスをピッチで観る度に
「このプレイは松下に求められる事が出来るか」
「このポジションに松下が入る事で何が出来るのか」
…と常に考えるようになった。
そして、「何でここにいるのが、松下ではないのか」と悔しさがあった。
声を掛ける事も、話をしたりする事も、好きなのだと思う。
でも、ただそれが「それ以上」でもなく、「それ以下」でもない。そこにいるだけの存在になりつつある。
このままでいいのだろうか。
無形のものを追い求めるばかりで、段々と何か大切な事を失っていたのかもしれません。
「松下年宏」を自分の好きな選手であるという理由が欲しいのかもしれません。
ただ、自分の中に「余裕」がなくなっています。
このまま「松下年宏」のプレイをこの「アルビレックス新潟」というチームで見れるのかどうか。
このままでいいのだろうか。
何度も考えてみる。
その答えが自分自身に対して、納得出来る「答え」として、分かるまでは。
松下選手です。
…と私は直ぐに答えられると思います。
ただ、それが最近、また疑問に思う事もあります。
私自身が求めているプレイスタイルを100%に持っている選手が「松下年宏」であった筈なのに、昨シーズン、その「松下年宏」のプレイを観ていても、そのプレイスタイルが失われていると感じたからです。
調子が良い時のパフォーマンスと調子が悪い時のパフォーマンスという事ではなく、彼のパフォーマンスそのものに違和感を覚え、否定をしてばかりいました。
「もっと良いプレイが出来る筈なのに」
「自分の実力をもっと存分に発揮して、スタメンを奪える筈なのに」
もっと、もっと、と望むばかりに自分の理想をする「MF」像が「松下年宏」ではなくなってきたのかもしれません。
「松下年宏」のプレイは絶対に誰1人して真似は出来ない、と自信を持って考えていた筈なのに、この程度のプレイなら「松下年宏」以外の選手でも十分に出来るのだろうし、「松下年宏」以外の選手の方が更に上のレベルでのパフォーマンスを出来るのなのだと。
彼のプレイを観る度に、マイナス面だけが目に付くようになり、それを気にし過ぎてしまい、プラス面を考えられなくなってきていました。
自分の理想とする「MF」像は一体、何なのか。
自分の追い求めているプレイスタイルとは、あまりにもギャップがあり過ぎてしまい、何度も考えて、何度も否定をする事の繰り返し。
「自分の応援している選手が活躍してくれるのは、凄く嬉しい」
理想と現実で、自分が妥協をしてしまっている部分が無意識にあり、そういった考えを持つ自分にも段々とイヤになってきていました。
だったら、「松下年宏」が今以上にもっと活躍を出来るように、しっかりと応援をすればいいと頭の中で考えていても、1度、自分の中にある「その存在」を都合の良いように考え直す事が難しい状態になって来ています。
不完全なだからこそ、完全を求め、それに少しでも近付こうとする。
「松下年宏」に求めている事は、私自身の持つ「理想」を形として表してくれる選手でもあり、それがベースにあるからこそ彼自身にも興味が持てていました。
今、チームの中で私の理想となる「MF」像は「松下年宏」という形で原点にあるからこそ、彼以上のパフォーマンスをピッチで観る度に
「このプレイは松下に求められる事が出来るか」
「このポジションに松下が入る事で何が出来るのか」
…と常に考えるようになった。
そして、「何でここにいるのが、松下ではないのか」と悔しさがあった。
声を掛ける事も、話をしたりする事も、好きなのだと思う。
でも、ただそれが「それ以上」でもなく、「それ以下」でもない。そこにいるだけの存在になりつつある。
このままでいいのだろうか。
無形のものを追い求めるばかりで、段々と何か大切な事を失っていたのかもしれません。
「松下年宏」を自分の好きな選手であるという理由が欲しいのかもしれません。
ただ、自分の中に「余裕」がなくなっています。
このまま「松下年宏」のプレイをこの「アルビレックス新潟」というチームで見れるのかどうか。
このままでいいのだろうか。
何度も考えてみる。
その答えが自分自身に対して、納得出来る「答え」として、分かるまでは。