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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第2回】(加筆修正済み) 「わたし=わたしたち」達の中の「わたし」のエントロピー(2)

2005-04-17 17:22:18 | エッセイ
【前日分の(1)からお読み下さい】


さて、大本、すなわち、『周囲が見えなくなってしまう現象、その「見えない」が「意識下には認識されない」としたら、その原因は何だろう?』まで話は戻る。

これまでの論からすれば、それは『人一人が関わる他人の数が公的にも私的にも多くなったがために、所属の数も同時に増え、機能分化されたそれぞれの「わたし=わたしたち」が互いになかなか関わりを持てないから』ってことになる。

人一人のコミュニケーション能力には限界がある(時代が変わったからといってその能力が基本的に大幅に向上した訳でもない)から、関わる他人の数が増えれば増えるほど一つ一つの関係は"希薄"にならざるを得ないし、関わる集団の社会的機能が細分化されればされるほど、それぞれの集団で「わたし」が担う役割や立場ってのも"限定"される。

希薄であり限定されてもいるというのは、マイナスの印象を持ってしまいがちだが、逆に「わたし」からすれば「細かいこと難しいこと考えなくてもいい」から『やり易い』とも言えるのだ。
「会社員たるわたし」が、会社の中で同僚や上司や部下の細かいプライベートなことを無理に聞く・話す(知る・知らせる)必要はないし、同様に「趣味仲間の一員たるわたし」が、同じ構成員達に仕事のことを無理に聞く・話す必要はない。「わたし=わたしたち」は、会社では会社の利潤の最大化だけ、趣味の集まりではその趣味のことだけで"意思統一"していればよい。


そうやって集団が機能分化して個々の集団での意思統一がラクになったんだから、当然「わたし」一人一人はそれぞれの「わたしたち」の中で夢中になり易い、集中し易いってことになる。(だからこそ極端で分かり易いスローガンを掲げたデモ集団は容易に暴徒化するってのは、歴史を見ても最近の一連の反日運動見ても明らかだ)

一応、これで一区切りはついた。『周囲が見えていても意識されない「見えない」状態になってしまう理由は、「わたし」の「わたしたち」の中での役割・立場がはっきりしていて分かり易いゆえに、何も考えず夢中になれて「わたし=わたしたち」の一つの集団自我になってそこで止まっている(完結している)から』である。


世界は、場面場面によって構成が変わる「わたし=わたしたち」で、それぞれ"閉じて"いる。
しかし、本来の「わたし」という人格は『大小問わず幾つもの「わたしたち」の中にある「わたし」という"部分"を統合したもの』である筈なのに、個々の「わたしたち」がブツ切りになっているせいでなかなか統合できない。できないけれども、個々の「わたしたち」はそんな乖離は問題にしない。ただその特定の「わたしたち」に適合する部分的な「わたし」だけが求められ、本来の「わたし」はどんどん空洞化していって、ちょっとでも問題が起きると、本来の「わたし」も「わたしたち」もどこへ行ったらいいのか分からない。

今の(日本の)社会のあらゆる混乱・混迷は、それだけのものなのかもしれない。

で、又ここで最初に戻って、「周囲が見えていない」が「意識されているけれども何とも思わない」という後者のパターンである場合にも、「なぜ」の答えは出ている。

「わたしたち」の中にいる「わたし」は、その特定の「わたしたち」に適合する"だけ"の「わたし」なんだから、仮にその外にいる人間に気づいたとしても、個人的な、或いはフレキシブルな判断ができる訳がない。「わたし」がどう判断しどう発言・行動するかは、その「わたしたち」の中では「わたしたち」が答えを握っていて、「わたしたち」の縛りを超えた判断も発言も行動も『許されていない』んだから。

こうも言える。
「許されていないから、本当はしたいしできるけどできない」ではなく、空洞化して「部分」が無秩序に統合されている「わたし」は、一瞬「わたしたち」の縛りから解かれても既に『ただ一人の「わたし」』として判断も発言も行動もできない、ってことだってあるのだ。


これを読まれているあなたは、相変わらず私の話にはピンとこないかもしれない。
ピンとこない原因は、私の知識や文章力の未熟さからのものも間違いなくあるが、これを読まれているあなたの側にも多分ある。

ちょっと内省してみて頂きたい。
あなたには既に色々なロール(個々の集団での役割)が振られていると思うが、例えば「一会社員、一上司或いは一部下として」、「家族の一員として」、「同僚や友達の一員として」、「誰それの恋人や伴侶として」、「一社会人、或いは一学生として」、「一国民、一都道府県人として」、「一日本人、一地球人として」etc・・・
ありとあらゆる立場の中で、それら全てを自ら"考え合わせた"うえで、それぞれの立場で適切な判断・発言・行動ができ適切な位置を確保できている、それができていて「自分自身の」欲求・欲望も満たせていると自信を持って公言できるだろうか?

ロールが少な目の私でさえ、それができているなんて絶対言えない。「考え合わせる」だけでも相当な労力だし、「一国民として」「一社会人として」「一日本人として」適切な判断・発言・行動をとろうとすれば知って理解しておかなければいけないことだって幾らでもある。

「そんなこと言い出したらフツーに生きるだけで滅茶苦茶大変じゃねぇか」って思われる方は多いだろう。でも残念ながらそうなのだ。「そんな面倒なこと考えなくても誰かが代わりにやってくれるでしょ」って発想はいい加減止めた方がいい。そういう無自覚や無責任は、今の世の中ではただ理不尽な形で災いとなってわが身に降りかかってくるだけだ。

面倒だからって放っておいて問題が噴出して最悪を避けるためだけに場当たり的な自転車操業状態になって根本原因がちっとも除去できない、ってのが今の日本の社会の現状だ。実際に皆一人一人がそうやって考えて適切な判断や行動をとることができなくても、少なくともおのおのの立場と状態を「自覚」して面倒なことを少しずつでも考えようという姿勢にならない限り、「みんながいて、みんなの中であなたもわたしもみんなが生き易い社会」なんて実現できっこない。


『ただ一人の「わたし」』が、それぞれの「わたしたち」の中で「適切」を選び保つには、そういう面倒を一つ一つやっていくしか有効な方法は、ないんだろう。