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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第31回】「好き」=「幸せ」?~好きと嫌いを考える(1)

2006-11-06 22:17:16 | エッセイ
海馬の先端にある扁桃核があるからかどうかはともかく、人間、モノに対しても人に対しても概念に対してすらも、好き嫌いってものはある。
だから、男女差はあるのだが(*注1)、コミュニケーションを図るうえでも(特にお互いの不透明性が高い場合など)おのおのの好き嫌いについての情報は一定以上必要で、ほぼ誰もが相手に話そう・相手から聞き出そうとする基本的な背景情報の一つでもある。

先日、私は知り合って間もない人と、そういうありふれた好き嫌いの話をする機会がたまたまあった。で、食べ物の好き嫌いの話になった際、私の殆どないという発言に対して、相手は色々あって直したいとは思ってると話した。

まぁ好き嫌いないならないでいっつも何食うか悩む時間が無駄にあるから困りますよとその時は冗談混じりで返したのだが(どうでもいいが私がいつも何食うか悩んでいるのは本当の話だ)、後で実際に考え込んでしまった。
-「好き嫌いって多い方がいいのか少ない方がいいのか」-について、だ。くだらねーと言ってしまえばそれまでだが、それなりに敷衍させてみようと思う。
(*ちなみに、ここでの「好き嫌いが少ない」は、「好きが多い」の意に限らせて頂く。消極的な好き嫌いの少なさ、すなわち「何でもいい」まで含めると話がややこしくなるので)


まず、この「好き嫌い」が色恋の話なら、話は単純で多過ぎても少な過ぎてもデメリットはある。性格人格にもよるが、あの人も好きこの人も好き・・で極端に惚れっぽければ、仮に身持ちが堅くても人間関係のトラブルを巻き起こす確率はどうしたって増えるだろう。余程容姿に恵まれていないか既に悪名を世間に轟かせでもしていない限り。
逆に、所謂「理想が高い」と表現されるように、種々の条件を全てクリアしていない人じゃなきゃ好きになれないってぐらいストライクゾーンが狭くても、今度は自分が困るだけだ。どのみちアタマでどれだけ条件を付けてみたところで、実際に接してみなければ分からない「合う合わない」は幾らでもある。でも別に、自分で分かってて高い理想を貫いている場合は社会的には何も問題がない。

では、色恋は度外視して純粋な人間関係としての人の好き嫌いはどうか。これは自分次第で割合どうにでもなる部分はある。
どんな性格人格の人とでも分け隔てなく好意的に接することができるのなら多くの人に慕われる、いや他人のあんな部分もこんな部分も自分は許せませんと公言して憚らなければ爪弾きにされる、それだけだ。で、人間割り切りさえすれば殆ど人間関係を絶って暮らすことは「不可能ではない」し、世間は世間でいちいちそういう人をかまうことはないから、特に問題はないと言えばないのだ。


今度は対象が「モノ(無論音楽や映像のように確固たる形のないものも含む)」の場合だ。
これは一見、好き嫌いが多かろうが少なかろうが別段困らないようにも思えるが、ごく普通に社会生活を営もうとするなら、多くても少なくても意外にデメリットはある。

多い場合は、当然周囲に合わせ辛くなる。本来モノや概念の好き嫌いを他者(マジョリティ)に「迎合」させなければならない理由はないが、好きや嫌いの様々な対象がマイナーなものばかりでは他愛もない世間話(とそこからのコミュニケーション)すらしにくくなるし、多い少ないというのとはややズレるかもしれないが、対象の内容によって性格人格すら誤解されかねないことだってある。
極端だが、例えばネクロフィリアなんてのはヨーロッパでは文学や音楽のテーマになることもあったぐらいだからそう稀有なものではないが、少なくも今の日本で大真面目に実は私ネクロフィリアでして・・なんて言ったら大抵「引かれる」のがオチだろう。(*注2)

少ない場合は、対人的にはメリットの方が大きいが、人間不老不死でも全知全能でもないので、当人としては些か面倒を背負うことにはなる。

例えば私は(プロ)スポーツを観るのが好きでサッカーや野球についてはヲタクに近いが、あらゆるスポーツ全部好きですなんてことになったら体がもたなくなるだけだ。野球とサッカーだけに限っても、国内で行われていて放送のあるものだけ全部観ようとしたら(プロ野球でもJでもCSで全試合放送しているのでアンテナとチューナーと録画機器複数台用意すれば全部観るのは不可能ではない)、膨大な時間が必要になる。
或いは、対象が実体のあるモノであれば、「蒐集家」になって収集に要する金銭・労力や保管スペースの確保などこれ又大変なことになる。女性は一般的に衣服装飾品などには「目がない=好き嫌いが少ない」が、だからこそ余裕のある金を持てば持つほど服もアクセも靴もバッグも大抵それに比例して数が増えていくってことになる。


人に対しては余り適用されないが、モノに対しては、どうも好きな対象が増えていく(種類自体でも特定の種類のものでも)と「好き」が自己増殖する傾向が多かれ少なかれあるように思われる。
そして、一度その傾向が出始めると、当人のその対象から受ける効用がなくなるまで、一言で言えば「飽きる」まで続いてしまう。

でも、これは「嫌い」でもある程度同じことは言えるだろう。
「坊主憎けりゃ袈裟まで」はちょっとニュアンスが違うが(嫌いと憎しみは全く同じではないので)、例えば一度数学の勉強で躓いて苦手→嫌いになって、それ以降の数学のみならず化学や物理まで嫌いになってしまうとか、鰻のニョロニョロが嫌いで穴子も泥鰌も食わず嫌いになってしまうとか、そういう卑近な例は幾つもある。


で、何なのかと言えば、好きや嫌いが自己増殖する傾向にあることは、つまり、好きや嫌いの感情は当人の『執着』を表しているってことだ。
「何でもいい」感情態度は執着のなさに他ならないからこれは当たり前のことなんだが、この再確認は一応次の展開にとって重要・・な筈である。

ということでまだちっとも話が元に戻ってないので、続きは又書く。


*注:
(1)
この「男女差」は、ジェンダーを考えるうえではなかなか興味深くて、例えばこうしたネットで自分のプロフィールを晒す場合、明らかに女性の方が、プロフィールに自分の好き嫌いを事細かに書いていることが多い。一方男性は履歴書チックになることが多い。

(2)
もっとも、ネクロフィリアが日本では大抵「引かれる」のは、この用語が欧州発ってことではなく、「現代」だからだろう。日本だって、江戸時代までは死体が街中にごろごろしているのは当たり前の風景だったのだから、日本にも昔はネクロフィリアの人間が実は結構いたとしても不思議なことではない。


1 コメント

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とりとめもなく (くがーと)
2006-11-29 12:50:53

昼休みに人目を忍んで(その割には堂々と)書いて
いますので、いつも以上に、とりとめもない文章に
なるのをお許しください。
好き嫌いというと、ヒラリー・パットナム氏というアメリカの哲学者(もう亡くなったかな、ついでにいうとヒラリーなんていうと女性のようですが、パットナム氏は男性です)が「理性・真理・歴史」という著書の中で(法政大学出版局?)好き嫌いについて、以下のようなことを述べています。

我々は誰かが「バニラアイスクリームの方がチョコレートアイスクリームよりも好きだ」と語ったとしても
「へえ、そうかい、どうぞお好きに、でも食い過ぎるなよ」という反応をするだけですが
「俺は子どもを愛するよりも、子どもを拷問にかける
方が好きだ」という見解には、目を剥いて驚きます。
この反応の違いはどこから来るのか?
それは、子どもを虐待するしないという選好は、そのひとの望ましい、あるいは望ましくない人間性の
反映だとみなされるのに対して、アイスクリームについての選好(AをBよりも好むこと)は、その人の
人間性の反映とは見做されないからです。
こういうような、人の言動を人間性の反映と理解して
他者に対しての非難や賞賛の根拠とする、という
態度は学問的に考えると難しい問題もありますし、
正義や倫理の根拠をどう考えるかという問題もあるのですが、私はそう捨てたものでもないと思います。
ただでは、望ましい・望ましくない人柄を判別する
基準は?こうなってくると、倫理的価値は客観的に
実在するのか、それとも、たとえば「人を殺すことは
悪い」と考える人の方が、そうは思わない人よりも
多いから。結果として多数決敵に「人を殺してはならない」というルールが確立しているだけなのか、という客観主義と主観主義の対立が生じます。
私は「人を殺すなかれ」というのは決して単なる
人々の主観の集合とは思いません。何故ならば
「俺は巨人は好きだが、長嶋監督は嫌いだ」というのはきわめて個人的な好みなのに対して、殺人や詐欺
についての見解は集団や社会によってある程度、規制され、共同的なものだからです。個人的な主観の
多い少ないだけで倫理が確立するというには、あまりにも倫理についての態度は社会的になっているわけです。自分の態度だけではどうにもならないものは
ある種の客観性を有するのだ(大庭健氏の主張)、
という考えにも(まったく問題がないわけではありませんが)一理があると思うのですが、如何でしょうか
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