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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第1回】 「わたし=わたしたち」達の中の「わたし」のエントロピー(1)

2005-04-16 22:17:05 | エッセイ
さて、これまではニュースをもとに時評めいたことを毎回綴っていたが、それだけだと内容もそのうち似たり寄ったりになってくるので、より抽象的で哲学的な(といっても既に学問として成立している「哲学」については私は語れないが)エッセイも折にふれて混ぜていこうと思う。



では早速本文。

最近、私は街中で内心イラっとする機会が当たり前のようにある。カルシウムの摂取が足りないとか自律神経のバランスが崩れていて交感神経優位で攻撃的になってるとか、そういう類の話ではない。

じゃ何かっていうと、例えば、
○3人以上の複数で道幅一杯にダラダラ歩いていて、且つ後ろから追い越そうとしているこちらの存在に気づきもしないような集団にしょっちゅう出くわす
○ファミレスとかカフェとか居酒屋ではなく、定食屋やラーメン屋のようなお店で、とっくに食べ終わっていて店もそれなりに混んでいるのにダラダラ長話に興じる連中によく出くわす
・・そんなようなことだ。


エゴイストが増えてんですねと言えば話は終わってしまうが、私はなんでこうもブリンカー(遮眼革)してて周囲が見事に見えていない人が多いのかサッパリ"分からなくて"日々悶々としているから、なら考えて(考えていることをまとめて)みようって訳だ。

まとめるつもりが更に収拾つかなくなるおそれがあるけど、それは読者の方も先にご了解頂きたい。


まず、ここで言う「周囲が見えていない」には2つの意味が考えられる。「本当に見えていない(視覚情報としては捉えられていても意識にまるで上がってこない)」、或いは「見えているけど何とも思わない」である。

前者は、平たく言えば「夢中・集中」状態ってことだ。
その状態自体は問題になるべきことではないから、問題にすべきなのは、TPO、客観性である。言うまでもなく、適切な時、適切な場所、適切な場合、どれが欠けても「適切な行為」には満たない。

そのTPOにかなった「適切な行為」は、社会・共同体の中では、それぞれの社会・共同体の性格に応じてある程度自然に定められていくもので、不文律や慣習・習俗といった形で「殆どの人間が自然に行っているもの」でもある。極端な例で申し訳ないが、例えば葬式に金ラメのジャケットで登場する人は普通はいない。


とすると、ここで一つ疑問が湧いてくる。
社会における「適切」が自然に定められていくもので、私がこれだけ頻繁に「私自身は適切じゃないと考えている行為」をする人間を目にするということは、むしろ、「複数で固まって自分達以外の周囲を見ない」のも今は「適切」になってしまっているかもしれないってことだ。

私は想像するだにちょっと怖いのだが、確かに、皆それぞれ複数で一つの群れを作り、それぞれの群れがお互いを無視し合って関わり合っていなければ、とりあえず「問題は起きない」のだ。
「わたし」は「わたし」の生活現実の中で、意思の疎通を図り得る他人とだけで「わたしたち」という一つの集団自我を作り上げ、「わたし=わたしたち」で"自己"完結している、それが時代の流れかもしれないということになる。

(この仮定でいけば、今私が書いていることに全くピンとこない、何言ってんだコイツはって思う人が沢山いるってことにもなる)


でも、よくよく考えてみれば、日本のかつての村落共同体だって、いや今の会社や行政機関の大部分だって、それぞれが一つの集団自我になっていて他の集団とつながりが薄い点では、同じようなものである。
「一つの集団自我」というのは、要はその集団の構成員おのおのが"独立した"意思・意志を持っては"いない"ってことであり、その集団の「わたしたち」でぼんやりと統一された意思・意志(コンセンサス)があるってことだ。

で、その「ある特定の集団内でのぼんやりとしたコンセンサス」ってのは、それこそ自然に出来上がってくる場合もあるし、集団がピラミッド型になっていれば一番上の強固な人間から上意下達で降りてくる場合もある。後者の「強固な人間」の例は、ワンマン社長とか、選挙区が地方のオールドタイプの代議士とか、殆どの官庁・行政法人のトップとか、カルト宗教の教祖とか、日本人が昔から馴染んでいる組織の形態に依っているから勿論枚挙にいとまがない。ホリエモンだって革命児的な扱いを受けたが実質は正にそうだ。


だから何なのか?
私は、ちょっと前の段で【・・「わたし=わたしたち」で"自己"完結している、それが時代の流れかもしれないということになる。】と書いておいて、「でもよく考えれば昔からそんなのあるじゃん」と否定した。

一見矛盾しているが、これにリクツを通すとすれば、結局「わたし=わたしたち」を成り立たせる集団が増えた、言い換えれば「わたし」の社会での「所属」が増えた、実はこの解釈だけでスッキリしてしまう。

まだ資本主義以前、家内制手工業が主要産業だった江戸時代初期などであれば、武家や公家を除いて大抵の庶民は「仕事場=家」であり(今はSOHOが流行っているとはいえ全体から言えばまだまだごく一部に過ぎない)、職場と家庭は分断されてはいなかった。
ムラ社会も機能しており、交通輸送手段も未発達ゆえ当然日常生活で活動できる範囲は限られていたから、商店や学校も一つの町の中で役割を果たし、町の機能は分化されていなかった。

現在はどうか?
例えばベッドタウンに一軒家を構えたお父さんは、電車でその地方の中心都市圏の会社に行き、付き合いで飲んで平日はいつも終電で帰ってくる。休日は釣り仲間と釣りに行ってしまう。実家にパラサイトしているOLの娘は、お父さんと同様電車で中心都市圏の会社まで行き、会社が終わればその都市のクラブに同僚と遊びに行ったり彼氏とご飯食べに行ったりしてやっぱり深夜にならないと帰ってこない。休日は仲のいい同僚とプチ旅行に行ってしまう。専業主婦のお母さんは昼間は近所の奥さんと会食などしてストレス発散し、夕刻に近づけば軽自動車で隣町の大規模スーパーに買い物に行き夜はTVを見て過ごす。ちょっとお勉強ができる中学生の息子はこれまた電車やバスでちょっと遠い私立の学校まで行ったりして、帰りは塾によって夜に近くなって漸く家に帰ってきて、帰ってきてご飯を済ませたら深夜までオンラインゲームにハマっている。休日には仲間と繁華街に行って遊んでいる・・・

ちっとも珍しくない家族風景だが、どう見たって「家族」というコミュニティはバラバラになっている。でも実はこの家族は仲が悪い訳でも互いに無関心な訳でもなくて、誰かの誕生日やクリスマスなどのイベントは盛大にやっていたりする、それも珍しい現実ではまるでない。

だから、悪いイメージでの「バラバラ」ではないこの例の「バラバラ」の家族は、「TPOに応じて家族という集団を"やって(演じて)"いる」と解釈できる。その「家族を演じる時間」が終われば、お父さんは父という家族の中での地位を離れ、会社では中間管理職という地位を演じたり趣味仲間の集団では同列の一員を演じたりするし、娘は娘の地位を離れOLや彼女や友達という別の役目を演じたりする。

【(2)に続く】