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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第29回】それでも「何か書く」を辞めない根底にあるもの

2006-10-04 22:31:27 | エッセイ
(諸事情により更新が相当に遅れております。申し訳ありません。又、このエントリーは10/11に書いたものです)

・・と、又苦し紛れの言い訳エントリーになりそうではあるが、実際に最近は私の「現実逃避」の悪癖が顔を頻繁に覗かせている時期ではある。

「現実逃避」の「現実」には、自分自身の目の前の(私的な)現実は当然含まれているのだが、寧ろ「世の中・社会の出来事」の意味合いの方が強い。すなわち、全段の「現実逃避の悪癖」は「ニュース見てもつまらない・関心が湧かない(場合が多い)」である。
(北朝鮮の核実験については流石にこの後書く予定だが)


「つまらない・関心が湧かない」の内実は対象によって様々だ。つまらない『から』関心も低下するというパターンもあり、つまらないか『或いは』関心が湧かないかどちらかというパターンもあり、つまらない『うえに』関心もないというパターンもある。「つまらない」と「関心がない・湧かない」は、対象から遠ざかるという点では同じだが、その内容や根っこは大きく異なるものだ。

「つまらない」は、面白いの対義語にあたるもので言い換えれば「面白くない」だ。面白い面白くないを感じるためには、ある程度以上その対象に関する知識や経験があるのが前提になる。最初っから無関心でその対象について何も知らない触れていない状態であれば面白いかどうかという感情自体が発生しない。
最低限の関心は自発的にしろ強制的にしろ一応持ってはいるのだが、その先の好奇心・対象に向けての自発的行動が広がっていかない状態が「つまらない」であり、その広がりを抑えてしまう「何か」がある。「広がらない」状態が持続してしまえば最低限の関心すら失われていくことにもなり(=つまらない『から』関心も低下)、限度を超えればその対象が自分にとってどうでもよくなり、つまらない『うえに』『もう』関心もない、ってことにもなる。

そんな、対象と関わった後に起こる無関心の一方で、当然独立して存在する無関心もある。まず、単純にその対象の存在自体を知らないから無関心、がある。井の中の蛙は大海の存在を知らないんだから関心が起こる筈もない。(単純なもののもう一つに脳の部分的欠損だとかアパシー・シンドロームだとか生体的な原因が関係しているものもあるが、そこまで含めると話がややこしくなるのでここでは度外視する)
次に、存在自体は知っている・聞いたことがあるが、自分の関心がそれ以外の対象によって充足してしまっているために当該対象には関心がないパターンもある。例えばヲタクは世の中の出来事なんか知ったこっちゃありませんよ、ってヤツだ。子供だって狭い範囲の刺激を処理するので精一杯なんだからオトナが頭を悩ますような問題なんか知りませんよ、とか。

或いは、それまでの自分の経験知識などから、当該対象そのものや、その対象と自分との距離・対象から受ける刺激を推定推測して関心を半ば意識的に持たないというケースもある。所謂「食わず嫌い」がこれに当たる。

で、前2つのケースはとりあえず自発的に無関心を選択しているが、そう選択せざるを得ないってパターンもある。例えば映画好き、音楽好きだって全世界に存在・現存する全てのものを鑑賞できる訳ではないから、必然で無関心の領域もできてしまう。対象が人であればこれは尚当たり前で、自分にとって面白そうな・有益そうな人且つ実際人間関係を持てそうな人をどれだけ発見したとしても、キャパからしても物理的な時間空間の点からしても全て片っ端から関係を作ることは不可能だ。


・・と、脇道に逸れまくった訳ではない。私の今の「ニュース見てもつまらない・関心がない湧かない」には、そういった様々な種類の内実が殆ど含まれているのだ。
例えば、単純に他の趣味で忙しくてニュースの情報を処理する分の気力・脳味噌のパワーがなかった=一時的に関心がなかったという、上に書いたヲタクと似たようなパターンだ。私の場合特にインドアで目と頭を使う趣味が多いために、CPUがオーバーヒート気味になることは珍しくない(苦笑)

ただ、それでもいつものようにニュース番組はHDDレコーダーに録画はしっかりされていて流しては見ていたから、大半は「対象と関わった後に起こる無関心」でもある(前段で「似たような」と書いたのはそういう意味だ)。
『その先の好奇心』は、限りなく小さくなってはいるがゼロにはなってはいない。でもゼロでもいいやぐらいの衝動も同時にある。

勿論、最近になって突如として逃避モードになった訳でも又なく、私の場合は、世の中・社会の出来事に対しての「つまらない・関心がない湧かない」は"常にある"。
何故なら、言うまでもなく、私は全知全能の神ではないうえに首相でも議員でも文化人でもなく、寧ろ社会に対する影響力の点では底辺にいる人間だから、何を考えようが書こうが喚こうが何も変わらない、からだ。(無論その努力だって十分にしてないし才覚もないのだが)

一言で言ってしまえば要は「下手の横好き」なのだが、ちょっと通常の下手の横好きと違うのは、私は世の中を変えたい欲求はあっても権力欲はまるでないのだ。言論で社会を変えようなんてのはただのガキの夢想でしかないかもしれないが、その浅慮無謀にちょっとチャレンジしたい欲求だけが私にブログを書かせていると言っても過言ではない。


言葉というものは、確かにそう易々と「届く」ものではない。皆が皆生きている環境は千差万別ゆえに、国や社会といったとてつもなく大きな「全体」をどうしましょうかなんて話は、本来は完全無欠な独裁・統制国家でも作らない限りは無茶なことだ。何故なら、たった一つの言葉を取っても(仮に構成員全員がその言葉を知っているとしても)その定義やイメージや理解そのものにはブレがある-モノによってはあり過ぎる-からだ。

しかも困ったことに、今の日本はとりあえず民主的でそれなりに金持ち国で十分な情報通信環境が整っていて個の自由が公共の福祉に反しない限りは一定に認められているだけに、「ブレ」は一人一人が想像している以上にある。
想像以上にあって、その千差万別さが一つの国や社会といった大きな枠組みの中に無数のコミュニティを増殖させ、増殖して細分化されたコミュニティが更に「ブレ」を拡大させるという状態にもなっている。

つまり、いいか悪いかは別にして、「全体」のことなんか知ったこっちゃないですよでも何一つ問題が(当人にとっては)ない環境状況が増え過ぎていて、私にとっては実際は絶望するしかないような状態なのだが、まぁ、情報通信環境が整っている・将来的に今以下に戻される可能性が極めて低い点だけが救いではある。

私のレベルが上がってマトモなことを言えるようになれれば、それが何かの拍子で"現実に力を持っている人間"に対して「届く」可能性は残されているから、だ。無論、こういう発想は、一歩間違うと前時代的な官僚と同じになってしまうが、現実問題、「皆が皆均等に(同じだけの知識経験や労力時間や精神性意識をもって)全体のことを考える」を実現させるのも空中楼閣のようなものだ。
(皮肉なことに、少しはそうさせる状況というのが北朝鮮の核実験によって出てきてしまっているが)


言葉はそう簡単には届かない。しかし文章は「残される」余地の選択肢が非常に多いものだ。何の記録装置も置かずに話された言葉は聞き手の脳の奥底から再生されなくなって残らないのと同義になる可能性が高いが、書いて残されたものは、読み手の意識次第で読み手自身に書き手の言葉が憑いて伝播していくことも有り得るのだ。

伝播の間に起こる言葉の意味内容の変化劣化は避けられないが、まず届く手段が担保されることが重要だし、変化劣化は、話の内容にも依るが書き手にも幾らかは防ぐ手段はある。単純に、自分の主張したいことを、主張の核をできるだけコンパクトにしたうえで(表現や例などを)手を変え品を変え何回でも繰り返し書くだけでも随分違う。


もっとも、言葉というのはやっぱり受け手の問題なので、私の喫緊の課題は、まず「自分の知識レベルも表現力レベルも上げる努力をすること」、そして「自分のつまらないテーマのつまらない話を如何にして面白くして少しでも多くの人間を読む気にさせるか考えること」である(苦笑)