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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第30回】「レビュー」とは何だろうか~総表現社会とレビュー

2006-10-07 22:27:44 | エッセイ
(*相変わらず話の導入が長ったらしいので面倒な方は最初すっ飛ばして読んで下さい)

最近の私は定期的に某サイトで飲食店のレビューをしており、又、先日某SNSに登録した際に本のレビューをしようかどうかちょっと悩んだことがあった。

私は読むのも書くのも無論好きな行為なのだが、レビューを読む、或いは自分で書く行為は実はそう好きでもない・・というより余り積極的にはなれないことだ。

何故なら、私の性格も感性も変(マイナー)なため、レビューから導かれる行動(商品購入や鑑賞等)に対するモチベーションは、私の場合大抵自分の中にしかない、のだ。
換言すれば、自分の中にその行動を為さしめる「何か」が発見できなければ私は動けない。つまり、私は大雑把でも損得勘定はどうしてもしてしまうから、例えばどれだけ素晴らしい製品レビューを読んで購買意欲をそそられたとしても、その製品を買って使うことによる「自分にとってのプラス」が少ないと想像できてしまえば選択肢は「買わない」になる。逆に、プラスが大きいと思えば即買いに走るので事前に必要なのはレビューではなくその対象に対する正確な"情報"だけだ。

一方自分で書く方はと言うと、勿論私も少しは自分の好きなものは他者に知らしめたい欲求はある。あるが、前述したように私は変(マイナー)なので、楽しみ方やその対象を好きになるポイントも人とは異なる場合が多いのだ。
そんな私がレビューを書くとなると、自分自身の変(マイナー)を正当化しているだけのものになりかねない。仮に読む側にはそう受け取られなくても、どうもただの自慰行為に走っているようで書く自分が据わりが悪い。


という訳で私にとってレビューの存在は「大して縁のないもの」ではあるが、今やアフィリエイトなんて当たり前で大袈裟に言えば「国民総レビュー時代」になりつつあるくらいなので、レビューについてちょっと考えてみようと思う。

まず、レビューと一口に言ってもその対象の種類や内容によって幾つかに分類される。(というよりした方が論じ易いだろう)もっとも、分類は明確に線引きされるものではなく、それぞれの要素を複数またいでいるレビューも当然多数存在する。

(a)宣伝
正確に言えばレビューとは言えないのだが、特にネットではメディアの規模の大小を問わずレビューの形をして各地で頻繁に行われている(勿論レビュー対象の作り手売り手そのものが行っているものは除く)。今、ここのgooブログでも、企業やブランドからの最新の商品・イベント情報等を消費者がブログで紹介して掲載料を稼ぐというプレスブログなるものの宣伝がされているが、これも下手をすればただの「代理宣伝」だろう。(もっとも私はこのサービスを利用している訳ではないので別にこのサービスを批判する意図はない。ただ、性質からしてそうなり易いだろうってことだ)

(b)紹介・応援
宣伝と似ているが、宣伝は宣伝した者に現金や現金に準ずる金券が対価として支払われるのに対し、ネットでは個人がただ好きなものを純粋に紹介しているだけってケースも無論多数ある。
その場合、所謂提灯記事にはなりにくいものの、「別にクリックを積極的に促す気はないがその紹介対象のアフィリエイトのリンクをとりあえず張っている」なんてこともブログではしょっちゅうあるので、やはり宣伝との線引きは微妙である。

応援ってのは、例えば自分の好きなアーティストや好きな飲食店などを「積極的に」世間に知らしめる・高く評価するもので、金銭目的ではなくても結果的に宣伝と変わらなくなるパターンも多い。

(c)批評(評論)・分析
本来のレビューの定義にあたる。だが実際のレビューがこれだけに収まらないのは、レビューを書くモチベーションにはその対象に対する感情(主観的個人的な拘り)が含まれると同時に、「対価」もモチベーションになってしまうからだろう。

又、対象が書籍・映画・演劇・音楽・アニメ・ゲームなどの文化的な「作品」である場合、レビューがこの本来の定義に近ければ近いほど対象からは独立したものになる。(この点の詳細は後述する)

(d)感想
ネットの中では実際は一番数が多いかもしれない。無論、日記などで述べられる感想は別に書き手がレビューを書こうなどと意図してないだろうからそういうケースは除外されるが、また一方で、レビューを書こうとはしているが感想にしかなっていないものもやはり多い。

これも詳細は後述するが、レビューをレビューたらしめるためには最低限の条件があるからだ。

(e)誹謗中傷・罵詈雑言
(a)ではないが(b),(c),(d)の要素を含み(b)とはベクトルが逆のバージョンにあたる。(無論競争相手を貶める目的のものもあるが、これもレビュー対象の作り手売り手が行うのと同義なのでここでは含めない)

この行為は動機もモチベーションも様々である。(c)の根拠のある批判が、書き手の感情が高まってこうなってしまうパターンもあるし、期待してレビュー対象に触れてみたら自分の好みには合致しなかったというだけでこのようにキレるパターンもあるし、実は対象とは余り関係なくこの行為自体好きでやっているパターンもある。


まぁざっと挙げてみるとこんな感じになるだろうか。
一応レビューの性質・性格で分けてみたが、じゃぁレビューをレビューたらしめる条件は何か、或いは何がいいレビューと言えるのかってことになると、一括りに述べるのは難しく、レビュー対象によってそれは変わってくる。

基準は、その対象の「質」が客観的に示すことができるものかどうかである。
例えば自動車などの工業製品やPC・AV機器・白物家電などの電化製品といったものは、「スペック」としての性能も他社製品との性能・質の優劣もある程度客観的に示すことができる類のものだ。
だから、それに言及できていないレビューはいいレビュー、というよりレビューそのものとも言い辛い。少なくとも、それを書き手が十分知悉した理解したうえで書いているのが読み手にも分かるものでなければならない。

私がこのブログで書いている野球やサッカー評などもしかりである。スポーツも、プレーや選手のレベル・質は、ある程度客観的に示し得るものである。私の書いているものが「いい」かどうかはさておき、一応私も野球やサッカーについては相当な数を観て来て一定以上「分かる」から書いているってことだ。


一方で、(c)に書いたように対象が書籍・映画・演劇・音楽・アニメ・ゲームなどの文化的な「作品」である場合(料理・飲食店もこれに含めていいだろう)、ちょっと状況は変わってくる。
確かに、映画やアニメやゲームであれば技術的な質について言及可能だし、俳優・声優の演技の技量についてもそれなりに客観的な見方があるだろうし、料理であっても食材の質について優劣を述べることができる。音楽だって楽器の演奏テクや歌い方のテク、その良し悪しを言うことはできる。

けれども、結局こうしたものは殆どの場合鑑賞者の個人的な五感・感性に良し悪しの判断が収束されてしまう、と言うよりも「良し悪し」ではなく「好き嫌い」で真っ先に捉えられるものなので、客観的に捉えられる部分の良し悪しを突っ込み過ぎても余り意味がないのだ。
特に小説や評論エッセイ新書等の活字だけの書籍の場合、装丁や紙質以外に客観的に述べれる部分は殆どなくそれもレビューするうえで最優先の要素にはなり得ない。

つまり、文化的な「作品」のレビューなんてのは、最低限必要なのは書き手がその対象にちゃんと触れた上で書くことぐらいで、実は何だっていいのだ。受け止め方に正解も間違いもない。
せいぜい、政治経済科学歴史思想等の専門的な書籍のレビューでは当該分野に対する無理解は困る、ぐらいだ。

言い換えると、文化的な「作品」のレビューは、レビューそれ自体がまた一つの「作品」と捉えられてもいいもので、作者を謂れのない誹謗中傷で貶めるようなことを書かなければ、後はレビューの読み手が面白いと思えばそれでいい、のである。


無論、何だっていいからと言って、(d)の感想は余りいただけない。まぁ感想でも面白く読めるならそれでもいいのだが、感想の多くは書き手個人の感情がそのままあるだけで、その感情の原因となった自分の嗜好感性について触れていないから、レビューの面白いつまらないを言う以前に読み手が「分からない」。

レビューはそれ自体で独立していてもいいが、かと言ってレビューの対象の姿が透けて見えないレビューはもうレビューとは呼べない。すなわち、「面白い・つまらない」「素晴らしい・酷い」を前面に押し出すにしても、『どこ』が『どうして』そう感じられるのか(『どういう風に』まで表現できれば尚いいが)が説明されなければ宣伝や非難にすらなり得ず、レビューとして意味はないのだ。