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【エッセイ第24回】「プレゼント(中身)」は「ラッピング(外)」されてしかるべきである

2006-03-23 22:50:38 | エッセイ
荘子と言えば「胡蝶の夢」が有名で私も大好きな故事成語であるが、とあるブログのエントリー(*なんで紹介・引用しないのかと言うと、そのブログがTBやコメントを受け付けていないのと、話の導入として使うだけなので)を読んでいたら、「忘筌(ぼうせん)」と言う句が引用されていた。

この句は、原文は、
『筌者所以在魚、得魚而忘筌、蹄者所以在兎、得兎而忘蹄』(筌は魚を在るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。)
というものだ。

筌(うえ)は魚を捕る道具、蹄は兎を捕る罠のことである。魚や兎を捕まえたら(目的を果たしたら)、その道具(過程で役に立ったもの)のことは忘れてしまうものだ、という意味のことわざである。

これには更に『言所以在意、得意而忘言』という続きがあり、意味は同様に、「言葉はその意味が分かってしまえば、その言葉は忘れ去られてしまうものだ」、すなわち、意味・内容が重要なんだから、言葉に捉われる必要はない、ということである。


確かに「そりゃそう」なんだが、言葉の内容やその意味、それらが伝わることが重要というところまではいいとして、"だから"言葉自体なんて別にどうでもいいじゃん、っていうニュアンスにまでなるのは宜しくない。

荘子は道教の大家であるが、この「忘筌」は禅とも親和性が高い。禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」の思想があるから、どうしても忘筌も「言葉に捉われちゃいかん」が強調されがちである。
禅における不立文字-「不立文字 以心伝心」というのは、仏の教えは、文字や言説(経典や教祖の著作など)で伝えられるものではなく、師から弟子へ心で伝えられるものである、平たく簡潔に言い換えれば、悟りは言葉で考えるようなものではない、というものだ。

しかし、注意しなくてはいけないのは(別に私は仏門に帰依している訳じゃないので誤った解釈をしているかもしれないが)、別に不立文字は、経典や教祖の著作などを全く読みさえする必要はない、無視していいと言っている訳でもないってことだ。
あくまで、文字言葉だけで"全て"を掴み取ろうなんてのは無茶ですよ、と言っているだけで、言葉も文字もなければ形として残るものがないから、仏の教えは次世代へ受け継いでいくことなど不可能で、筌という道具なしにただじっとしているだけでも魚は捕まえられない。


でもって、仏道どころか煩悩だらけの頭でっかちの私は、「忘筌」や「不立文字」などとは対極と言ってもいい位置にいて、その私から言わせれば、こと言葉においては、寧ろその表現手段(シニフィアン)こそが重要である。

確かに同一のシニフィアンからそれぞれ個々人が抱くシニフィエ(表現内容)は必ずしも同じものではない、異なることの方が多いかもしれないが、シニフィアンとシニフィエは基本的には一対のもので、筌と魚のように独立したものではない。

独立したものではないと言うより、シニフィアンとシニフィエがそれぞれ独立していたところでそれこそ何の意味もない、と言い換えた方がいいだろうか。オノマトペでさえ、動物の鳴き声のような単純な擬音語を除けば、その表現にはシニフィアンの音だけではない感性が込められ使い分けられている。

一つのシニフィアンの言葉から想起されるシニフィエが個人個人で一定していないからこそ「用法」や「用例」という基準がある訳だし、ただそれだけではカバーしきれないから、おのおのが相手との関係やTPOに応じて言葉を選び使い分ける=気を払うことが必要になる。


で、最低限それらが出来ていないことには、意味も何もあったものではない。言葉を恣意的に使っていては伝わるものも伝わらない。

例えば、私のこのブログの文章は、一応私自身は語・表現の選択は考えながら書いてはいるが、決していい文章でも模範的な文章でもない。仮にこれを書籍にして売り出すとなったら、校正の段階で真っ赤っ赤になることだろう。
ただ、個人で・趣味で・フリーで呑気に書いているブログという場だから、話し言葉と書き言葉が中途半端にミックスされているまだるっこしい駄文でもまだ許される余地はあるだけのことだ。(読んで頂いている方には多少の読み辛さを強いて申し訳ないのだが)

敬語にしても、そんな古臭いもの、「別にいいじゃん」と考える若者は最近多い(ようだ)。とんでもない。こうしてネットが当たり前の今だからこそ、敬語の果たす役割は大きいのだ。

敬語は、別に敬う気持ち・謙る気持ちを表す上品な言葉では"ない"。円滑なコミュニケーションのために、単に、その場その場のシチュエーションで、相対する人間同士の社会的関係(の上下)を明確にするだけの言葉である。

店員が客にオーダーを訊く際、大抵は「ご注文承ります」と言う。別にその店員がその客への敬意を表現している訳ではない。「店員-客」というその場の関係で、社会の中ではお客さんが上位にあたるからそういう表現が「決められている」だけである。

同様に、見ず知らずの相手に対して自分が何かを質問したい時は、社会の中では、まず自分から見て見ず知らずの人間は上位にあたり、更に教える・答える側が上位にあたる。だから、「ご存知でしょうか」「教えて頂けないでしょうか」と謙譲語を使うのが決まりで、それはネットの中でも同じことである。
そういうことが分かっていない人間がネット上でも気ままに言葉を吐いて、余分なトラブルを引き起こす。敬語は内心の敬意なんか表してはいないんだから、ムカつく相手をやりこめたい・論破したい時にこそ(自分の主張を伝えたいのなら)、正確に使うべきである。


まぁ敬語のことはともかく、「忘筌」を敷衍すると「カタチよりココロ」なんて価値観にもなり易いが、私はこれも「違う」と思う。

心はどこまで行っても不可視であって、五感で認識できるものでなければ「伝える」媒介にはなり得ない。「以心伝心」でも、言葉を用いずとも、何らかの非言語的サインは必ず必要だ。
初めてのデートで、相手に自分の好意を伝えたい・自分に関心を持ってもらいたいなら、自分にファッションセンスやお金がなくても、少なくとも「精一杯のお洒落しました」を相手に感じさせる身だしなみをしなければならない。それが「カタチ」である。


無論、「カタチ」だけで中身が空疎、ではどうしようもない。表現やレトリックだけ立派で内容が伴わない言葉文章もどうしようもない。
要は、「適切さ」「バランス」である。小難しいことを真面目に語る際には、それなりに小難しい(専門的)言葉や堅い言い回しが必要になることもある、ってことだ。