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子供のやることは所詮子供のやることである

2006-10-22 22:23:13 | 社会
(このエントリーは11/2に書かれたものです)

世の中皮肉なもので、安倍政権が誕生し安倍首相が最も達成したい筈の教育改革・再生に動き出した途端、いじめによる子供の自殺者が相次いだり高校の必修科目未履修問題が"全国的に"噴出して自殺する校長も出たりと教育界はてんやわんやの状況になっている。
安倍首相の諮問機関である「教育再生会議」と、10/22に発足したばかりの「日本教育再生機構」(安倍氏のブレーンとされる高崎経済大教授・八木氏が理事長の民間シンクタンク)とが既にソリが合ってないとの話もあり(ただこれは左からの煽りとの見方もあるが)、少なくとも現段階では、教育界は政治家・官僚(教育委員会)・日教組らそれぞれの思惑の中で更に混迷を深める可能性が高いようにも思える。


で、教育の抱える問題は多過ぎる・複雑過ぎるので、ここでは「いじめ」の問題にしぼってちょっと考えてみようと思う。

と言ったものの、実はこの捉え方自体に問題があると私は考える。すなわち、"本当に"いじめの問題は、教育の問題なんだろうか?ってことだ。
いじめそのものは、別に学校の、子供の間だけに限って起きている現象ではない。いじめ≒嫌がらせとすれば、そんなものはどこにだって転がっている。家庭の中では姑が嫁に対して、壮年の子供が老年のアルツハイマーの親に対して、地域の中では古くからその土地に住んでいる者が新参者に対して、職場の中では上司が部下に対して、お局様がモテる後輩女子社員に対して・・・等々、所謂○○ハラスメントと呼ぶものも含めれば、上位の立場から下位の立場に対する、或いは多数派から少数派に対するいじめ・嫌がらせは寧ろ「普遍的に」存在するものだ。

大人の社会でもそこかしこに見受けられる嫌がらせが、何故子供の社会・学校において「いじめ」として特別視されてしまうかは、これは理由は単純で、「大人はまだ自分が被害者の立場になっても対処法を知っているor考えることができ実行する力も持ち合わせているが、子供にはそれが難しい・ない」というだけのことだ。

最近報道されていたいじめによる自殺の幾つかの事件も(もっともきちんと報道を見聞きしていた訳でもないし、していたとしても実際自殺した彼・彼女らの心情やいじめの実態のディテールが分かる筈もないが)、仮に、報道されている自殺の原因になったいじめ・それによる悩みの内容が正確なものだとするなら、大人からすれば「何でその程度のことで・・」と切なさを感じてしまうようなものだ。


根本的にいじめという「現象」は、いわば天気のようなもので、条件さえ満たされてしまえば発生してしまう、もしそういうものだとしたら、「いじめを減らしましょう・なくしましょう」と考えること自体が無茶で、少なくとも"公教育"が対処できるような問題ではない。
別に現場の教師や校長や教育委員会を擁護する気はないが、自分の子供が何を考えているのか、いや何をしているのかすら把握できていない親がいるのが珍しくない時代に、いじめに関して、生徒が自殺したからといって学校側の責任を追及するのにはどう考えても限度がある。

義務教育の学校は、子供達が今後生きていくために必要になる力の「基礎」になる知識や体験を満遍なくただ教え込む場所であって、社会の中での役割としてそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。

その「基礎になる知識や体験」というのは、知って・覚えてさえいれば教える側教えられる側の人格人となりに関係なく教えることが可能なもの、であり、その中には個人の人格形成に関わるような内面的なことは含まれないし含む必要もない。私が小学生の頃には道徳の時間もあったし、中学は宗教系私立だったので「宗教」なる時間も存在したが、眠かった記憶しかない。最低限マンツーマンで教える側と教えられる側に一定上の信頼関係がなければ、内面的なことなんて教えられる・学べる道理はないのだ。
つまり、「いじめ」に戻れば、文科省が教育委員会が現場の教師がいじめを未然に防ごう或いはやめさせようとどれだけ立派なお説教を打ったところで、学園ドラマや映画じゃないんだから、いじめがなくなる可能性は極めて低い。

だから、そもそも学校の出る幕じゃないにしても何かいじめに対して手を打つ必要があるというなら、それはせいぜいカウンセラーでも配置しておくぐらいしかない。で、今の学校は大抵それくらいいるところが多いから、それ以上対策を講じる必要はない。
ただ、学校での子供の行動を親が常に視ている訳にもいかないので、現場の教師がいじめの存在に気づいたら、そこでやめさせようと努力するんではなく親には確実に知らせる必要はあるし、そういう通達は行政としてトップダウンで徹底させる必要はあろう。子供がいじめによってどうしようもなく追い詰められていて孤独なら、後は一番身近な存在である筈の親が救ってやる以外に方法はない。

親がすべきことは、いじめられないような子供に育てることではなく、いじめのみならず子供が何か悩みを深く抱えていて思い詰めているような場合に出来る限り気づいてやること(そこで手を差し伸べるかどうかは子供の様子に応じて)と、『いじめごときに屈しないような』子供に育てること、である。
(今更ながら注意を喚起しておくが、ここでテーマにしているいじめは、暴力の入らないいじめのことである。金目当ての恐喝や集団暴行などは国(法・警察)が対処すべきことだ)


人間、アイデンティティを持って自分なりの個性を求めながらも、一方で「集団」の中では突出したりマイナーに属するのを嫌う。特に日本人の場合、狭い島国の中で民族的に同質性が高い歴史を背負っているせいだろうか、「横並び」が好きだ。

それゆえ、『みにくいアヒルの子』ではないが、外見上のちょっとした差異だけでなく障害、能力から本人とは直接関係のない家柄や親の職業出自に至るまで、どんなことでも差別-いじめの対象になり易い。
自分"達"と異なる部分を持つ者に対して生物としての本能的な警戒心が必ずあってそれがいじめにつながってしまうかどうかは分からないが、「集団」が一つの集団自我として少数の異分子を排除したがる傾向は普遍的なものだろう。その傾向が学校という子供達の社会ではいじめの形で表出し易いだけで、いじめる側の子供にも責任はない(取りようもない)。

「罪悪感を感じてやめさせまではしないまでもいじめに加わらない子供だっているじゃないか」=(だから学校としても何かできるんじゃないか)という意見はあろうが、それはまず、その子供の親の躾がマトモだってことがある。
で、その親全ての躾を教育行政が行うことなんて不可能だし、仮にできたところで、繰り返すが「(誰のせいでもない)ちょっとした差異」がいじめの原因になり得る以上、親の躾がマトモでもいじめを完璧に防ぐことはできない。換言すれば「罪悪感を感じていじめに加わらない子供」も、どんな状況でも決して誰かをいじめないなんてことはやっぱり言い切れない。「いじめてる者」と「いじめられている者」が既にいるから、集団としてのバランス上どっちにも加わらないだけかもしれない。実際に、罪悪感は感じながらも「自分もいじめられたくない」でいじめる側に回ってしまう子供もいる。これもその子供が無意識の内に、自分の属する集団内でのポジションを考えてそうしてしまっただけのケースが多いだろう。

いじめが「現象」で、条件が整えば発生する、状況が作り出すものであるなら、そんなものだとしか言えない。

実は、私も小・中は「いじめられた側」だった。小学校6年生の時には、担任の教師からも嫌がらせを受けたことがある。私はそりゃぁもう鼻っ柱の強いガキだったから、授業中クラスメイトの眼前であからさまな嫌がらせをその教師から受けた時には、次の授業から無断でボイコット(帰宅)したなんてこともあった。

私の場合は昔から「変・異質」で自分でもそれに気づいていたので、いじめも「その程度」のものにしか感じなかった。いじめられる皆が皆こうはいかないだろうが、ともかくもいじめられる側は、いい悪い落ち度云々は抜きにして、とりあえず何らかの原因・いじめられる材料を抱えてしまっているのは事実だ。
暴力を伴わないいじめなら生命の危険に晒される訳ではないから、極端に言えばいじめられる材料を「それしきのことw」と子供本人が冷笑できるくらいのサポートを親がしてやるべきである。

社会において地位や権力や利権が絡んだ嫌がらせなんてのは勿論そんな程度では済まないんだから、子供の頃のいじめに容易に負けない心を作らせるのも「今後生きていくために必要になる力」だろう。
過保護になるのはいい加減止した方がいい。