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猫のあしあと

*舞台・ミュージカル・ちょこっと宝塚、な気まぐれ日記*

帝劇エリザベート

2010年10月25日 23時31分17秒 | 瀬奈さん
作日、3度目の観劇&観納めしてきました。


作日は瀬奈エリザ&城田トートの組み合わせ。

1度目は8月某日、瀬奈エリザ&山口トートの組み合わせの公演を友人と二人で観劇したのが、私にとって帝劇エリザベート初体験でした
その時が言わば女優瀬奈サンの初見だったわけですが、3度目ともなるとドレス姿も見慣れてきて…(´∀`)

やはり8月の頃と比べると、女性化が進んでいますな。
作日とかも観てて、「瀬奈サンこんな声高かったっけΣ(゜Д゜)」と正直、思いました。
キーは変わってないだろうけど、台詞の声とかが高めになってた印象。


帝劇エリザベート、宝塚のエリザベートとは音楽はほぼ一緒だけど、歌詞が全然違ったり。所々宝塚にない曲が入ってたり、宝塚にない場面があったり。
表現方法に制限がある宝塚と違って、色々リアルだし、どぎつい感じもあるけど(マダムヴォルフの場面とか)
でも、それゆえ真実味が増して感じられる、というか。

宝塚はやはりストーリーより、美しさとか夢々しさや配役に重きを置いている感じで、まぁ、それが宝塚の売りな訳ですが。
宝塚でも再演が繰り返されてるので、見慣れてきちゃった感があって。そうなると正直、夢々しいだけじゃ物足りないって気持ちが観る側としては出てきてたり。

先日のトークショーで瀬奈サンも話してたけど、宝塚は“生徒ありきの配役重視”なんですよね。
だから、“○○さんが演じるトート”とか“○○さんが演じるエリザベート”というフィルター越しに『エリザベート』という作品を観てしまう傾向があるようです。

エリザベートは実在の人物で、史実の彼女の半生とハプスブルク家の歴史を描いたのが『エリザベート』てミュージカルな訳で。
その点、帝劇版はやはり史実に忠実に描かれているので見応えがありました

劇中、ルキーニの歌詞にある「聞きたいことと違うだろうが、真実なんてそんなもんさ」て言葉が正に相応しいというか。

生々しいし、綺麗事だけじゃない分、エリザベートという女性を“人間”として感じられる、そんな舞台でした。


あとは、宝塚版はトートが主役なのに対し、帝劇版はエリザベートが主役だからこその違いなのかな、と。
これも瀬奈サンもトークショーで同じようなこと話してたような…。


日記にも書いたけど、トークショーの時に瀬奈サンから“宝塚と帝劇エリザベートの違い”の話を聞いた時、自分の感想と全く一緒だったので本当に驚いたんです。Σ(゜□゜)

まるで私の心を代弁するかのように語って下さって、それを聞きながら私は一人、大きく頷くのみでした。
こんな風に、同じ感想をもつことって観客同士ならよくあることだけど、自分が演じてる舞台でここまで客観視出来るってかなりスゴイと思います


全体的に、宝塚版にはない場面が印象に残りました。
晩年のエリザベートが旅先のコルフ島で、父親の亡霊(魂)と対話する場面で「もう遅すぎる、パパみたいになれない」て嘆く場面。
ゾフィー皇太后がハプスブルク家と息子フランツの行く末を思ってのソロ。
皇帝フランツが見た悪夢の場面。
この三場面は、それぞれの役に感情移入して泣けました(:_;)


最初に挙げた、晩年のエリザベートの場面は、要はエリザベートの「パパみたいになりたかったのに、もう今から人生をやり直すことはできない」という本音を語っているんですが、この場面、メロディーは一幕始めの「パパみたいに」と同じなんだけども、伴奏がなんとも不協和音のような微妙な音色で
でもそれが、この場面のエリザベートの心境を映し出してる気がします。
考えてみると宝塚版では、晩年のエリザベートの心情を表現している場面て、“病院訪問”の所くらいしかないんですよね。
そのせいか、宝塚版の二幕のエリザベートは、心を閉ざしている印象しかなかったけど、帝劇版では病院の場面の歌詞も微妙に違って、エリザベートの本音に迫ってる感じです。
しかし、ジプシーのような気ままな生き方を望んでた少女が、正反対の皇室生活を送る羽目になるなんて、皮肉すぎますね…(´ー`)
まぁ“人生そんなもんだ”て気もしますが。


二つ目のゾフィーのソロ場面もかなり好きです
私が観たのはいずれも寿さんゾフィーだったんですが、もう存在感から雰囲気からピッタリでした
誰よりも帝国のこと、息子フランツのことを想ってた人だったのだということが歌詞から分かります。
宝塚版でも是非取り入れてほしいなぁ

そして最後に、エリザベートが暗殺される前夜()に、フランツが見た悪夢の場面。
ここは宝塚版では“トートとフランツの最終答弁”の場面てことになってるんですが、いきなり“皇帝と死神の対決”みたいな感じになってしまってて、ちょっと唐突だし、抽象的過ぎて違和感を感じる場面て印象だったんですが。
帝劇版では“ハプスブルク家一族に纏わる悲劇を紹介するオペラ”に見立てた場面になっていて、見応えがありました
事実、エリザベートやフランツの親族には、暗殺やら事故死やら、狂い死にやらで悲劇的な死を遂げた方が多くて。
それらは全て“トートの仕業”であり、更にトートはルキーニを遣いエリザベートまで死の世界に迎えようとしている、ということをこの場面で表現しているわけです。
“せめてエリザベートだけは!”と、それを必死に食い止めようと、なりふり構わずのたうちまわるフランツの姿が、もう泣けて泣けて仕方ありません。・゜・(´д`)・゜・。
母親を亡くし、息子にも先立たれ、妻まで亡くし(そうになっ)て、なおも独り生き続けなければならないフランツに、人間の哀しさを感じます…。