人のために動ける人は確実に一定数存在はするが、その数と同じくらいの勢いで人にしてもらって当たり前と思ってしまうひともいる。そして、人のためにといいながら、「あの人はお礼も言わないのね」と不満を漏らすひともいる。結局、それは人のためにではなくて、誉めてもらいたい、見返りがほしい自分が本当にいて、そのために動いているのかもしれない。
それなら、いっそ。人の行動を期待する行動原理を捨てた方が楽になれる。「自分のため」に人に何かをするのだ。例えば、勉強を教えるというシチュエーション。テスト前に勉強を教えるというのを、見返りを求めてしまうとする。テスト前に「人のため」に時間を割いたのに、利用されるだけされて、お礼も何もないと損した気分になる。そればかりか、自分のテストの点数が悪かったのは、あのとき人のために時間を割いたからだと思うようにすらなってしまう。そうではなく、「自分のため」に考える。人に勉強を教えることによって自分の頭の整理をして、より定着化させ、結果自分のテストの点数アップを図る。そう考えれば、それはもはや自分のために自分の行動をしていることになる。他人がお礼を言おうが言うまいがこちらの気分に影響はしない。これが、行動原理を自分に絞るということである。
人のため、というのは一見いい人に見えるが、結果のよい悪いを人に託す、他人本意で生きている人なのかもしれない。なるべく自分のための人生を自分で決めるために、行動は自分の基準で決めるべきなのかもしれない。
他人の人生の部品になるか。自分の人生の主役を生きるか。答えはすぐ出せるはずだ。
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