『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 ダウンタウン が 【お笑い】 の主流に〜 戦後日本🇯🇵の抱えた歪み

2024-01-30 01:30:11 | いまの世相

__ 漫才の「ダウンタウン」の松ちゃんが、いま大変なことになっているが、

いま、「ダウンタウン」の笑いを論ずる、実に象徴的なニュースがふたつ並んであらわれた。

● ひとつは、Yahoo!ニュースにも取り上げられた『PRESIDENT』に掲載された

藤井セイラさんの記事で、現在「お笑い」の主流になっている「ダウンタウン」への批判について。

● いまひとつは、女子SPA!に掲載された

石黒隆之さんの記事で、今は亡き坂本龍一が「ダウンタウン」の笑いに投げかけていた批判について。

 

そして、このような感覚(ダウンタウンへの違和感)は私だけの個人的なものではないようだ。

今週の『週刊現代』(2024・2月3・10日号)に8頁にわたる、こんな記事が掲載された。

 

☝️【 大阪ぎらい 

〜ダウンタウン的お笑いも、

万博をごり押しする維新のやり方も、

なんだかちょっと時代とズレてしまった気がする〜

日本🇯🇵を支えた商都と文化都市のなれの果て】

 

>  昨年末、ダウンタウンの松本人志に関する週刊文春の報道が出て以降、少し懐かしい動画や画像が、SNS上でしばしば拡散された。

 '90年代の人気番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系列📺)の一部を切り出した動画や画像である。…… (中略)……  

今回出回った「切り抜き」でとくに注目を集めたのが、当時まだ駆け出しだった女優の篠原涼子が、松本にどつかれたり、股間を触られたりするシーンだ。

いまでは考えにくい演出に、批判的な反応が寄せられたのである。

 ところで、こうした「切り抜き」や松本問題に対するネットユーザーの反応にはこれまでになかった特徴が見られたという。

在京キー局のディレクターが言う。

「それは『大阪の笑いは乱暴なんじゃないか』といった反応です。

ダウンタウンのお二人は兵庫県尼崎市の出身ですし、もちろん大阪の芸人が全員乱暴だなんてこともない。

でも、今回の件で大阪の『イメージ』が悪くなっている感は否めません」

 

…… それでは、ひとつずつ、私の感想をまじえながら、引用してみよう。

(私は三年間大阪に住んでいたし、大お世話になったし、友だちもいっぱいいる。第二の故郷だと思っている。

ダウンタウンの荒っぽい尼崎弁と違って、昔の大阪の中心地・船場の「柔らかい大阪弁」である「船場ことば」も耳にしたことがある、大阪大好き人間である。

そんな大阪びいきの私の正直な感想である)

 

🔴 引用元リンク ▼  文・藤井セイラ

「松本人志がいなくても日本のお笑いは大丈夫」老若男女に支持されるウンナンとダウンタウンの決定的な違い(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

 

> 「ダウンタウンがいなくなってもウッチャンナンチャンいるから日本のお笑いは大丈夫。

ごっつええ感じでYOUと篠原涼子がセクハラされてた頃、

ポケビとブラビは綱渡りとか厳しいチャレンジさせつつも、ちゃんとビビアンと千秋の『自己実現を叶える装置』として機能しつつ、ミリオンヒット飛ばしてたよね」

 

…… 昨年末のNHK『紅白歌合戦』で、視聴者にすこぶる好評だった「ポケット・ビスケッツ」と「ブラック・ビスケッツ」の再結成。

1996年当時、ウッチャンナンチャンは、お笑い番組のなかで、夢実現企画を成し遂げた。

ふざけたような対決企画だったが…… 

台湾🇹🇼から出稼ぎに来ているビビアン・スーが、この勝負に勝たないと生き残られないと必死なのが、リアルで妙に心に突き刺さった。

ふざけた感じとは裏腹に、作曲家の陣容は超一流どころで、林田健司や中西圭三、パッパラー河合やら、ユーミンとデュエットもしていたなあ。

「スタミナ」「タイミング」「ミレニアム」は、CD💿買ったような覚えがあるな、車🚗中でヘビーローテーションしていた。

携帯電話が普及する5年前くらいだから、昭和の意識で生きていた最終ステージといえるんじゃないかな。

小室ファミリーばかりが、ヒットチャートを席巻した九十年代…… 

ポケビ・ブラビの練り込まれたヒット曲は、新鮮だった。

そんな当時を知る者はもちろん、いまの小学生から、高齢者にまで、訴えかけるものが大きかったようだ。

 

その頃、1989年に東京🗼進出を果たした「ダウンタウン」は、徐々に地歩をかため、1995年には浜田が「wow war tonight」でミリオンセラーを出したりしている。

このへんが分岐点であろう。

1989年は、「昭和」の最後の年である。

いろいろなものが、この年を境にクリティカルに変化し始める。(個人的には、プラトン大年の「アクアリアン・エイジ」は1989年から始まったのではないかと推測している)

 

ダウンタウンの「イジる笑い」はハラスメントを内包する

 1991年から97年まで続いた『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)などで、

ダウンタウンは日本中の若者、子どもたちに「イジり」という概念を植えつけた。

「イジってもらっているんだから、おいしい」というような、本来は芸人の楽屋だけで通用していればよい価値観を、テレビ放送という「表舞台」に提供し続けてきたのがダウンタウンだといえる。

天下を取るまではそれでよかったかもしれないが、天下を取ったあとのそれは、弱い者いじめとなる。

 

…… 実は、わたしは「ダウンタウン」のそれらの番組の洗礼はうけていない。まったく興味がなかったからである。

ダウンタウンを知っていたのは、音楽番組の『HEY!HEY!HEY!』ばかりは、好きな歌目当てで観ていたからである。

当時、ダウンタウンって毛色が変わった漫才をする印象だった。陽ではなく陰である、武士の戦い方ではなく、忍者めいた戦い方をしている感じがした。

通好みは、ハマるのかも知れないけど、私は一目みて遠慮したいと思ったものだ。

おそらく、ダウンタウンの漫才は通しで全部みたことはないだろう。

わたしが「お笑い」に求めるものから、かなりかけ離れていた印象があった。

 

> ■「ジャンクSPORTS」での浜田のアスリートイジリも危うい

 現に、同様に「イジる笑い」を貫いていたとんねるずは、2018年の「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジテレビ系)終了をもって冠番組がなくなっている。

 

…… 浜ちゃんの「ジャンクSPORTS」を観ていると、この番組から呼んでもらいたくて、がんばっているアスリートが実際いるのだから、面白いものだ。

アスリートの素の顔が映し出され、型にハマった祝福ではない、くだけた魅力が窺えるメリットもあったが…… 

もはや、テレビのコンプライアンスは、そうした「イジリ」をも倫理的にゆるさないレベルに入っているようだ。

この社会の雰囲気が、「ダウンタウン」の笑いを拒みはじめたのが、良いことなのかそうでないのか…… 

この現象は、社会の「揺り戻し」なのであろうか?

 

リベラルの在り方が、あまりにも多岐に細分化して、いちいち逐えないところまで来ていて…… 

保守 VS リベラルの「二元構造」で片付ける論理は通らなくなってしまった。

 

> 1980年代終わりから1990年代初頭にかけて、ウッチャンナンチャンは「東のウンナン、西のダウンタウン」といわれ、ダウンタウンと並び称されていた。

 

…… ダウンタウンが落ち目になった今、ウンナンが地道にやり続けてきた「腕みがき」が脚光を浴びようとしている。

ウンナンは、開拓しつづけている。ダウンタウンが、同年代を中心とする中年サラリーマンのカリスマとして君臨していたときも、ウンナンは歩みを止めなかった。

ナンチャンの『ヒルナンデス』出演も長い。ウッチャンはNHKでも新しい笑いに挑戦しているし、現場の漫才師として、ネタも作り続けている。

わたしは、松ちゃんの「笑い」は『すべらない話』を観るまでは分からなかった。あー、なるほど、こんなに作り込まれた「笑い」も違った風味があって面白いものだなと思ったのは、比較的最近のことである。

もはや、審査員であり評論家に成り果せている感じが拭えない。

もはや大御所になっちまったのか、なにか強烈な違和感を覚える。

松ちゃんの流派が面白いのは認めるが……  松ちゃんが「お笑い」の質を決める裁判官では決してない。

 

 

🔴 引用元リンク ▼  文・石黒隆之

松本人志に坂本龍一さんが生前投げかけていた疑問。90年代にはCDプロデュースしたが/2023人気記事top5 | 女子SPA!

 

坂本龍一氏が2001年刊行の対談本で語っていた「ダウンタウン理論」

『永遠の仔』のベストセラーで知られる作家の天童荒太氏との対談本

『少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』(文藝春秋刊  2001年  

での、2000年代前半の殺伐としていた日本社会の空気に関するやり取りです。

 

 まず天童氏が、電車内で少し肩がぶつかっただけで暴力沙汰に発展しそうな 秩序の崩壊を指摘。この感覚を共有していた坂本氏が、理由のひとつとして挙げたのがダウンタウンなのです。

 

「僕には、ダウンタウン理論というのがあるんですよ。(中略)ダウンタウン前とダウンタウン後で日本人の心は大きく変わった。」(『少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』p.117より。)

 

…… わたしが実感する、1989年の境界線。

ダウンタウンを進んで受け入れた日本🇯🇵が始まった、ダウンタウン後の日本は、それまでの良き日本人と完全に一線を画すものだったことは、間違いないだろう。

 

松本人志がすごい才能で示した日本社会のあり方とは

 では、日本社会を様変(さまが)わりさせてしまったダウンタウンの異質さとは何なのでしょうか?坂本氏はこう続けます。

「挑発すべきものがなにもないところでやってるから、パフォーマンスとしての反抗にならざるを得ない

ここ二、三年のダウンタウンの芸って、年下の芸人をいたぶってるだけで、一言で言うと、『どんくさいやつをいじめてなにが悪いの』ってことでしょ。」(p.118

 

…… お笑いのスタイルとしての「反抗」、文句つけるのがカッコイイ風に受け止められている。

この時代、逆らうべき権威は明確には存在しない。

弱者を守るために、強者に「反抗する」正義が存在しないのに、「反抗するスタイル」をとり続ける。

いわゆる「不良」のもつカッコよさ、ロックで生きる感じであろうか。

ダウンタウンは、決して真面目に学校🏫に通う優等生ではなかった。いつも、主流から外れたアウト・サイダーであることに、彼らのアイデンティティがあるのである。

「不良」の魅力とは、真面目に学校🏫に通って勉強して「学校制度」を守っている「まじめな学級委員長」はじめ大勢の生徒さんがいて、初めて生まれる異端の魅力なのである。

「不良」は、学校🏫の主流にはなれない。

 

> 「結局、子どもたちはみんなダウンタウンをやっている。

だって、いまのいじめとか少年犯罪のパターンって、ほんとダウンタウンそのままじゃない?

松本人志はあのすごい才能で、そういう社会を啓示したんだよ。」(p.119

 

…… 坂本龍一は、こういった客観的な視点が尋常ではない鋭さをもっているんだよね。村上龍との対談も、まったく新しい見方(文脈)を見いだしていて驚かされたものだ。

 

> あざ笑うべき権威があったビートたけしらの時代とは異なり、権威がなくなり、

その結果、乱暴に悪態をつくことが形骸化(けいがいか。中身がなくなったこと)してしまった現代の負の側面としてダウンタウンの笑い。

 こうした価値観が刷り込まれると、

『いじめてなにが悪い』から『人を殺してなにが悪い』に行き着くのは早い。」(p.120)

と考えるから、坂本氏は危惧(きぐ)を抱いていたのです。

 

…… やはり、ダウンタウンは「陰」つまり日陰者の立場なんだよね。それなのに、間つなぎの遣り取りが斬新だからとか、いかにも新しい潮流のように歓迎されるから、若者の文化は幼く怖いところがある。

一部の好事家(物好き、ディレッタント)に愛されたり、一部のローカル文化としてなら許容できるが、

東京🗼のキー局は、視聴率(数字)が獲れるからといって、異端のダウンタウンに冠👑をかぶらせて、ダウンタウンの思い通りに番組を牛耳らせてしまったのである。

 

> 「権威に反発して、ルールがないことはいいことだと戦後最初に言ってたのは、僕らの世代なんだよね。

いわゆる全共闘世代。

いま僕らの世代が親になり、教師になって、そういう子どもを育ててしまってる。」(p.120

 

…… 坂本龍一は、1952年(昭和27年)生まれ、

1947〜49年の「団塊の世代」のすぐ後で、シラケ世代といわれた年代である。坂本龍一は、東京育ちの最先端ボーイだったから、年少にして「全共闘」に参加することができたのだった。

既存のすべてをブチ壊して、親を泣かせた坂本さんたちの世代が、親になり学校🏫の教師になるなんて、おそろしいことです。

好き放題、親や先生に逆らった人びとが、どうやって「人としてあるべき道」を教えられるだろう。

学校の教師は、坂本さんらが親になった70〜80年代には、もはや「聖職」と呼ばれなくなった。

人生の先輩として、学校教師はみずから健全な大人のモデルとして振舞えなくなってしまったのです。

 

>  坂本氏はダウンタウンそのものを批判しているのではなく、彼らが生み出されるに至った歴史の過程に、日本の問題点を見ているのです。

> 「やっぱり、親なんだよ。

教えられるのは親であり、地域のコミュニティーであり、社会だもん、それが機能していないってことだよね。」(p.84

 

…… そうした旧態依然としたコミュニティや集まり、近所付き合いや義理人情を、ぶっ壊してきたのが「団塊の世代」をはじめとする、戦後の「アメリカ🇺🇸かぶれ」世代であった。

昔の江戸っ子は、近所の子どもでも遠慮なく叱って、人としての道を教えてきたが…… 

自由と権利を主張して、わがまま一杯に甘やかされた坂本さん達の世代が、後進に「あるべき見本(モデル)」を示せようはずがなかったのである。

 

 本来ならばアウトサイダーとして輝くはずだったダウンタウン

メインストリームに躍り出てしまった社会の歪(ゆが)み。

 

…… そうした、地縁のコミュニティが希薄化するにつれて、子どもや若者たちは自らの裁量で生きていかなければならなくなった。

地域の守りが、セイフティネットがほつれて来たのをどうすることもできなかった。

もはや、伝統的な「古き良き日本」は、跡形もなく消滅してしまっていたから、

ダウンタウンのようなアウト・サイダーは、昔からのコミュニティの自浄作用をうけずに、世間の大道を闊歩し始めたわけである。

丁度、バブルが崩壊して、いままでの既成の価値観が大きく揺さぶられている時だったから、時宜にかなった東京🗼進出だったのだと思う。

 

 

 

__ 大阪の芸人は、おのれの武器である「大阪弁」を、東京の地でも手放さなかった。

松ちゃん浜ちゃんも、柄のわるい尼崎の流儀を、東京に来てもそのままやり通した。

それができる時代、できるどころか歓迎される時代に、たまたま巡り合ってしまった。

 

社会の景気はとてつもなく悪いし、その最も苛酷なしわ寄せな自分たちの世代に襲いかかった、当時の若者たちは、なにもかもすべてに、半ば絶望しかけていたことだろう。

先の見込みもなく、とりたててなにも良いことのない日本社会で、せめて「お笑い」くらいは、自分たちのわがままを発散させたいと思うのも無理からぬ処なのかも知れない。

 

そして、「イジる」ことで「ウケる」コミュニケーションの中に活路を見いだしたのであろうか。

いまだに、ダウンタウンを目指して漫才師になる若者が後を絶たない。

それほど、強烈なインパクトを残した理由は、不良に通ずる「反社会性」であろう。

 

それが今や、不倫や暴力・暴言が完全に許されない社会に移行している。

誰が首魁なのか、皆目わからぬながらも、世界中がその「外圧」に振り回されている。

庶民は、見えない権力の分析なぞしない。

しかたなく長いものに巻かれるだけ。

たんに、ひとつの時代が終わったのを眺めるだけである。

 

ダウンタウンが「お笑い」の主流である時代、わたしは好きではない。

願わくば、謙虚に傍流の「大物芸人」として、ちょっと社会にスパイスを振り撒く程度に活躍してもらいたい。

「団塊の世代」(75才位)の子ども世代である、「ポスト団塊ジュニア」(50才位)…… 

「団塊の世代」の孫世代である、「ミレニアム世代」(25才位)…… 

 

ダウンタウンの笑いは、ほぼ30年続いた。

もう、次の「ミレニアム世代」にお譲りする時期なんじゃないかな。

ダウンタウンのようにクセのある、偏った志向は、長続きはしないものだと思う。(特化するとは、成長を止めることである、普通さとは万全な生き方なのである)

マイナーなのに、花咲いて天下奪ったのだから良しとしたらいいんじゃない。YouTube には向いているのじゃあるまいか。

       _________玉の海草

 

 


 禁煙🚭がもたらす意識の変容〜 『禁煙の愉しみ』

2024-01-23 16:06:08 | 小覚

__ ひとことでゆーたら、

禁煙者というのは、特別な権利をもっているんですよ。

それは、喫煙者も持っていないし、非喫煙者(タバコを吸わない人)も持っていないものです。

 

この、禁煙者ならではの微妙な境地を探ってみると、まるで秘密教団の秘儀参入のような「意識変容」が見られるのです。

わたしは、これから紹介する『禁煙の愉しみ』という逆説的なタイトルの本📕を読みながら…… 

グルジェフの、ストップ・エクササイズを思い出していました。マハリシやニサルガ親爺の、自我と真我の、意識の裂け目を思い出していました。

ソワソワしている統一のとれない今の自分は、本当の自分なのだろーか?

この私が感じている渇きは、本当に自分が欲しているのだろーか?

タバコは深くわたしの心奥に浸み入って、わたしの心を支配する。それに任せていてもよいのだろーか?

 

 

__ 結果、わたしはタバコを止めたわけだが、この本📕は「まさにその時」に役立つだろーことが予感できた。

 

なにげなく、タバコを止めた状態を続けていたら、一日が三日となり、一週間二週間となり、いつの間に一ヶ月が経っていた。

一年とか三年とか、ふと誘われる節目があるそうだ。

また喫煙🚬するタイミングに見舞われる。

わたしは、一・二度その波に乗ってみたこともあった。

しかし、もとの禁煙🚭にもどって、いまもその状態に在る。

 

タバコを止めたら、酒を呑まなくなった。あまっさえ、音楽に耽溺することが出来なくなった。

わたしにとって、タバコ・アルコール・ミュージックは三位一体の快楽なのに、今更ながら気がついた。

この三角形が満たされたとき、わたしの幸福ホルモンは全開するのである♪

それは、果して厳しい仕事に堪えるためであったのだろーか?

大人びて、通や粋を気取るためだったろーか?

女性(にょしょう)に対する、アプローチだったのであろーか?

ハッキリとは分からないが、わたしの幸福は常にこのトライアングルと供にあったのは事実である。

 

喫煙のはじまりは、好きだった子が「(煙を)肺🫁まで吸いこむと気持ちいいよ♪」と教えてくれたのがキッカケだった。

仕事がキツかったのか、わたしはその快感を試すことにしたのだった。もちろん、初回はムセたし、頭が痛くなった。

うちの親父も喫煙者だったが、村の青年団で、初心者🔰にタバコを吸わせたときは、気つけの意味なのか、味噌を舐めさせたそうだ。

 

その一番最初の、身体が正直に抵抗したのを乗りこえて、はじめて喫煙生活が始まるわけである。

あれから、三十年、ほぼ三十万本のタバコを喫んだ計算になる。そろそろ一区切りつけてもいいんじゃないかと。新型コロナに襲われる三年前くらいであろーか?

たいした仕事もこなしていなかった私は、ふとこんなに高級なタバコを服んでいられないな(亡父は、一番安い「エコー」を嗜んでいた、おまけに肺まで吸わないで喉でプカプカするに留めた)と…… 

何のまえぶれも、準備(覚悟)もなく、それは唐突にはじまった。そして、いまもそうである。

 

 

それでは、稀代の名著であろう『禁煙の愉しみ』を紐解くことにするか。

【 私の愛蔵本📕は、この文庫本。

『禁煙の愉しみ』(1998)煙草🚬をやめることは「苦行」ではない

思いがけない快楽の発見者 山村修(1950〜2006)】

 

 

著者の山村修は、書評家「狐🦊」としても著名な御方である。特にむずかしい言葉は使わないが、博覧強記な教養人であること、風流な御仁であることが、平易で研ぎ澄まされた文章から窺うことができる。

名文家といっても間違いではない。

読みやすい文体とリズム、字面にも品がある。いたく滋味ふかい、明確な輪郭の文章をものする御方である。

わたしは、そのことにいたく満足した。

そこに、大先達の匂いを嗅ぎ取ったからである。

 

そんな心地よい文章を引用しよう。

これまで二十七年間、毎日、煙草🚬を吸いつづけてきた。

一日に紙巻きを三十本。多過ぎはしないと思うが、計算すればざっと三十万本の煙草に火をつけ、灰にしてきたことになる。そう考えると少ない分量ではない。

 思うところがあって一年前に禁煙🚭した。いや、そんな一言で済ませられるほど簡単ではなかったが、ともかく禁煙した。

「健康のため」ではない。

煙草が「不健康」なものだと考えて禁煙できる者は、もともと喫煙者ではない。

いまどき、煙草が身体にまったく無害であると思っている幸福者が、喫煙者の中にいるわけがない。切迫した理由でもないかぎり、害はあると知っていながら吸うのである。

…… 正直な著者の独白から入ろう。山村さんは、「健康のために」禁煙したのではないのである。

そこは、頭に留めておいて頂きたい。

 

さんざん喫煙していながら、吸うことが心底楽しいと思ったことはない。本当にうまいと感じたことはない。たしかに煙草に火をつけたとき、快楽に似た感覚が走ることはある。

そうした生理現象があるかぎり、楽しいともいえるし、美味ともいえる。

しかし楽しいと思っているのは果たして私だろうか

煙草を吸いたいと思う、その欲求は本当に私自身から発しているといえるのだろうか

 煙草を静かに深々と吸った時、ほっと安堵するものがある。

安堵するのは果たして私だろうか

ある状況によって許されず、長時間、煙草が吸えないと分かったとき、ほとんど恐れに近い感情をもつことがある。

恐怖しているのは私だろうか

喫煙が許可され、救われたと思う。救われたのは私だろうか

 楽しんだり、安堵したり、恐れたり、救われたりするのは、

私ではなくて、煙草産業である、などという話ではない。

答えは__ あまりにも真っ当すぎて、つまらないにせよ__ 明らかである。

体内に残存しているニコチンである。

ニコチンという依存性の薬物そのものが、体内で効果を失うにつれ、新鮮なニコチンの補給を欲しているのである。

喫煙は、つまるところ薬物依存なのである。

…… これは「私だろうか」というアプローチは、

ヒンドゥー🛕のヴェーダーンタ系統の聖者ラマナ・マハリシの「二十世紀最大の問い」である、

「私は誰か?」

「私は何か?」

「それは本当の私なのか?」

という内的な自問と、奇しくもおんなじである。

「もうひとりの自分」がアタフタする自分を俯瞰している。あるいは、能楽の「離見の見」といってもよいだろう。離れた処から自分を見つめるもう一人の自分となる。

当代の市川右團次は、具体的に次のように云フ。離見の見はいきすぎてはならない。半々のバランスを取ることが肝要と。なるほど、生き霊のような「離見の見」に傾きすぎると、本体に支障をきたすものなのだろう。

 

喫煙は一方で、それが暮らしに沿い、融けこんでいるときは美しくさえある。

他方、喫煙はあくまでも薬物依存である。私たちもまた、レバーを押しつづけているのである。煙草について、この両面をともに見すえたい、その程度には批評的な目をもちたいと私は思う。

 では、私は薬物依存であることがいやで、つまり自分がレバーを押すサルと同じであることがいやで、それで禁煙したのか。そうではない。

 

 

私が禁煙したのは__ どうか笑わないでほしい__ 、禁煙というものが喫煙者である私にとって、まさしく想像を絶する状態であり、私はその想像外の境地に立ってみたくなったのだ。

じっさい、一本も煙草を吸わなくなる、そんな自分をイメージすることは喫煙者には不可能なのである。

 

 朝起きて、煙草を吸わない

職場で、むずかしい仕事に直面しながら煙草を吸わない

知人と酒を飲みつつ、話の接ぎ穂を考えながら煙草を吸わない

夏のさかんな日盛りのなか、涼しい喫茶店に入って息をついたとき、煙草を吸わない

書かねばならぬ書類や手紙などがあるとき、文章にあれこれ苦しみながら煙草を吸わない

うれしいことがあって胸が弾んだ時、煙草を吸わない

悲しみをまぎらせたいとき、煙草を吸わない

 もちろん三度の食事のあとに煙草を吸わない

就寝🛌儀式としての一服もやめてしまう。

春夏秋冬いかなる日にも、どんなときにも吸わない。

これから生涯、ただの一本も吸わない。

 

 そのような事態を考えようと試みるだけで、茫然とするのが喫煙者なのだ。

喫煙者にとっては煙草は人生そのものである。それくらいに日常の節目ごとに、いや、一挙手一投足のすみずみにまで、煙草が入り込んでいるのである。

 つまり私は茫然としてみたかったのだ。煙草をやめれば、まず間違いなく、思いの外の心的状態に陥る事だろう。それがどんなものか知りたかったのだ。

私は四十歳代の半ばをすぎていた。人生の残り時間をカウントしはじめて遅くない年齢である。

だからこそ現在を一つの画期としてみたいという欲望が高まった。

 もちろん恐れもつのった。何しろ煙草のない生活というのが想像できないのだから、まるで未到の界域へ足を踏み出すようなものなのである。不安を感じて当然だろう。

禁煙は事件なのだ。すなわち私は自分自身に事件を起こしてみたかったのだ。

…… 実に正直な、かつ自然な心情の吐露であると思う。この、ちょっと好奇心あふるる天邪鬼のような志向が、著者を独特な風合いに仕上げている。

 

禁煙とは、おそらくそれ以前と以後とで人生を非連続にするものである。

それを境に、これまでと異なる時間⌚️を生きることである。

私など、その先にどんな景色が広がっているのか予想もかなわない暗い穴に転がり込む気分で禁煙した。果たしてそこに、ただごとでない心的状況が待っていた。

……「煙草は暮らしの句読点」

禁煙することで「句読点」は失せる。

しかし、時間の抑揚は身体がおのずと刻みはじめると著者は言う。

 

少年の日の青空をまた見たくなって

禁煙した男がいる

…… ある詩人の一節なのだが、妙に心をくすぐる。思えば、喫煙前は写真型の記憶力があったなあと、テストの時などそれをなぞることが出来たものだ。どんな感覚で青空を見上げたことだろう。

 

 

 

吉野秀雄『禁煙』(昭和三十ニ年)

禁煙の心得より

◉ けんか腰でとりかかつては、かへつてことを誤まる。

柔軟心といふヤツで、すうつと入つていくに限る。

◉(禁煙は)ヂタバタする自分をみてゐる別個の自分をもつことのできる人なら、むしろおもしろいくらいのものではないか。

…… 「柔軟心(にゅうなんしん)」、道元禅師が帰朝なされたときのコメントに、「空手で還郷したが吾れ柔軟心を得たり」とあった。意識が変容したのである。身構えない、すぅーっと入ってゆく。まるで武道の極意である。柳生新陰の「勇」の一事であり、鹿島の「一つの太刀」における入り身の秘事であろう。

 

禁煙は自己批評である。自己反省である。

 

(禁煙に)成功したことを書く人たちもいないではない。

しかし成功した人が、どうしてはじめのニコチン離脱症状に耐えられたのか、それを書いた文章に私は出会ったことがない。

あえていえば、それは耐えなかったからなのだ。逆説でも何でもない、耐えようとすれば失敗する。耐えようとしなかったからこそ、禁煙できたのではないか。

 ニコチン欲求の波と闘わず、耐えもせず、その波に乗ってしまうとはどういうことか。

そうした欲求が我が身を突き上げているという常ならざる感じを、全身で味わってみることである。

欲求の強さに身がねじれ、うねるような気がするならば、心持ちもいっしょになってねじれ、うねってみることである。

 波になるのだ。自分がニコチン渇望の波そのものになってしまうのだ。

…… 「タバコを吸えない」渇きを恐れるのではなく、その状況に全身を任せてみることである。身体の濃やかな変化やバイオリズムの波をひたすら感じてみるのもよい。

いままでに気づかなかった自分の隠れた一面を垣間見ることができるかも知れない。内的な沈黙(心の内なるお喋りを止める)の下で、ひたすら自分を静観することとなる。内側へ、内側へと意識を向ける。

 

> 耐えたのではない。煙草に手を出さずにいることを愉しんだのである。

 

禁煙は非日常である。思い切っていえば、身体感覚にとってのハレのときがはじまるのである。

私の場合は二十七年の間、煙草を吸いつづけ、身体にはいつもニコチンが充ちているのが当たり前であった。煙草を断ち、ニコチンの補充を止めてしまうと、体内のニコチンが肌からふつふつと滲み出るような気がする。

腕に鼻を当ててみると、煙草の匂いがする。気分はほとんど茫然としている。それはもう異様なことといってよい。

 そうした異様な感覚を、抑えようとするのではなく、忘れようとするのでもなく、むしろ自分から進んで味わおうとすること、そのことがなければ、禁煙はできないと私は思う。

…… 禁煙をマイナス要素(欠損)として捉えずに、新たなチャンスとして試してみる挑んでみる。

このまま行くとどうなるのか、ミステリーに足を突っ込んでみる。つまり、本来の自分(人間としての自然)を見つめる機会でもある。とにかく、みずからの内側に目を向けてみることであろう。

 

 

禁煙とは、最後の一本を灰皿ににじり消した瞬間から、どこかは分からない、こことは別のところへ移ることである。禁煙は越境である。

これまで知らなかった場所で、知らなかった日々をはじめることだ。ある地点にたどりつくまでは耐え抜くといったレースなどではない。

…… すくなくとも、いままで知らなかった生き方をすることになる。それは日常生活からのジャンプ、非日常の旅人となることである。

みずからの意識の裂け目を静観すれば、それは神秘体験ともなろう。禁断症状により引き起こされた意識トリップが、偽自我に気づき、アートマン(真我)にみちびかれるかも知れない。

 

もしも陸上競技に例えるならば、禁煙は長距離走(マラソン🏃)ではなく、ハイジャンプである。

走るのではなくて跳ぶのである。跳んで、見知らぬところに落ちるのである。

…… 禁煙とは、マラソンのように42㎞先にゴールが設定されているようなものではない。そう思っていると、必ず躓く。

禁煙という意識変容は、いわばカスタネダの「イクストランへの旅」である。飛翔するわたしが、そこにはいる。落下して粉々に砕かれるか、はたまた次の次元へと跳ぶ自分がいるだろうか。

 

 

よく「もしも生まれ変わったら__ 」という質問がある。

「もしも生まれ変わったら、煙草を吸いますか」。

そう問われたならば、反喫煙をとなえる彼らはきっぱり「吸わない」と答えるだろう。

 私はどうか。分からない。迷う。優柔不断なのである。

しかし質問が「もし生まれ変わって、また煙草を吸う暮らしをつづけたら、禁煙しますか」というものであったなら、私は即座に答えるだろう、「禁煙する」と。

 なぜなら、禁煙は味わうに足る人生の快楽であるからだ。

…… 禁煙とは、特別な体験である。体験できる資格のある者は、喫煙者だけである。脳🧠を薬物にゆだねた人が、本来の脳に帰ろうとしている。聖書の「放蕩息子」にも似ている。

 

 

 

> 禁煙者は、喫煙者も非喫煙者も知らないことを知っている。

 

禁煙は華やぎである。罰せられざる快楽である。苦行でもなければ克己でもない。

 

 

__ ざっと、引用しただけでも、これだけ豊饒な言い回しに目が眩む思いである。

たかがタバコ、されどタバコ…… なのである。

 

山村さんは「禁煙🚭には三つの手がある」と纏めておられるので紹介しよう。

(1) 禁煙をはじめてからの一日を、三日を、一週間を、一月を、湧きおこるニコチン離脱症状をむしろ利用して、思いがけない感覚を刈り入れる日々とすること。愉しみの日々とすること。

…… 「収穫の一月」とするようにとの事。

(2) 何度も失敗してみること。あっさり禁煙できる人がえらいわけではない。さらにいえば、失敗して恥をかいてみること。それがあとになって効く。

 禁煙とは、恥をかくことである。

…… 少し書きにくいがと言いつつ、山村さんは隠れて喫っていた自分が見つけられた屈辱を縷々書いておられる。何よりも恥ずかしかったのは、愛犬に「見られた」ときだったそうだ。

(3) 何しろ不可能だと思っていた禁煙を、驚いたことに、いまつづけているのである。これはたいしたことではないか。誰もほめてくれるわけではないし、〜(略)〜 せめて自分で自分を讃えようではないか。

禁煙をよろこび、祝おうではないか。

…… 「祝祭の月🎉」を設けるのである。一月でなくても、一日でも二日でもよい。カレンダー📅に「禁煙祭」を設けるのである。

 

ちなみに、山村さんは「吉野に花見」に出かけたそうだ。禁煙を「果たした」そのお祝い旅行である。

その時点で、禁煙を愉しんでいる。喫煙欲求そのものを身体の内的リズムのように感じて一緒に生きることができる。それが「禁煙を果たした」というサインである。

「禁煙にはおそらくずっとゴールはない」と諦観した上で、自分の禁煙を、そして喫煙者であったことを祝福するのである。

 

 

__ わたしは、タバコが猛烈に美味いと思ったことが二度ばかりある。最初は、缶ピースを喫んだとき。

そして、これはいまでも憶えているが、爺さまの形見のキセルと煙草入れ(木製、印籠型)が遺品としてあった。

煙草入れには、亡くなった当時じいさんが嗜んでいた、刻み莨「敷島」(いや、「みのり」かも知れないが)が詰められていた。実に艶やかな繊維の束であった。

何の気なしに、キセルに丸めて入れて火🔥をつけ燻らしてみたら…… 

なんとも芳しい香気に、ガツンとくる味のキツさ、そしてその後にひろがる晴れやかな解放感に、しばし陶然と酔いしれた。

「キセル煙草が、こんなにうまいなんて!!」

その時まで思いも寄らなかった。(じいさんの形見に感謝を捧げた)

わたしは、即座に刻み煙草の入手方法を考えた。

調べると、もはや製造中止となっていたが…… 

ひとつふたつの銘柄は、いまでも製造しており、それらが東北圏では仙台の「藤崎デパート」🏬でのみ扱っていることを知れた。

さっそく、赴いてみましたよ、はるばる仙台まで。(車で4時間半くらいかかる)

 

そしたら、残念なことに名品「敷島」は、製造中止となっていた。しかたなく、そこにある刻み煙草「小粋」を仕入れたが、喫んでみたら「敷島」の足元にも及ばない。

まだ、形見の刻み煙草はそのまま煙草入れにはいっているが、最期の「しきしま」である。

うちの爺さまは、腕のいい大工(棟梁)で、無教会派のクリスチャンでもあったので、タバコは吸っていなかったのだが…… 

なんの因果か、戦時中の配給でもらってから喫煙を始めたらしい。

じいさま、ありがとうよ、「敷島」をおれに遺してくれて、ご馳走になりましたよ♪

【こんな時代もありました♪ 日本専売公社ポスター(昭和32年)】

 

ニコチンの薬物反応は、「覚醒」に似た症状も引き出してくれる。仕事中には、よくタバコで覚醒していたものだ。

断煙してニコチン離脱すると、覚醒と反対に「眠気」がやってくる。そして渇きが押し寄せてくる。

この渇きは、精神の亢進状態をも引き起こしてくる。

そこに、意識の裂け目に侵入する得難い機会が生まれる。

 

 

 

__ 最後に、この本の中で取り上げられている、禁煙と苦闘した(ジタバタして失敗した)作家たちを紹介しておこう。

 

・ポール・オースター

・南方熊楠

・西田幾多郎

・吉野秀雄

・小沼丹

・斎藤茂吉の「簡単唯一の方法」というのが「絶対に火のついた烟草は口にしない」というシンプルなものであったが、これが実に含蓄のあるものだった。

・チャールズ・ラム

・別役実

・安田操一

・ズヴェーヴォ

 

 

…… 著者の実体験(神秘体験)もてんこ盛りである。

禁煙一日目の能楽堂でのロビーにおける幸せな眠気の描写などは秀逸である。

さすが何回となく禁煙🚭に失敗した山村さんだから、

禁煙による渇きを埋めるというか、逸らすレパートリーの多彩さには笑いを誘われた。(第Ⅲ章 「禁煙の現場」に詳しい)

逆立ちだの腹式呼吸の横隔膜だのは、わたしも参考になった。

 

あー、私自身の体験を書き忘れていたね。

> 決めることじゃない。恋愛って決めることじゃない。

いつの間にか始まっているものでしょ。

決めさせたボクが言うことじゃないけど。

[※  ドラマ 『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』最終回より]

 

…… この台詞の、恋愛→禁煙🚭に変換したら、まるでわたしの禁煙体験そのものであろう。

それは、いつの間にか始まっていた。

請負仕事が少なくなってきた頃合いだった。

わたしの場合、仕事を成し遂げた一服のために仕事をしているという実感があった。

ぽつぽつ休業日が増えてきた頃、わたしは家🏠で漫然とタバコをふかして無聊をかこっていたわけである。

仕事の後の、達成感ある一服ではないから、当然不味い。精神も萎えてくる。

そんなとき、せめて仕事していないときくらいは、タバコを服むのはよそうと、思いだした。

知らぬ間に、禁煙がはじまり、その期間は徐々に伸びていった。

その頃、口👄淋しくて、よく「エアー喫煙」というものをしていたなあ。

坐禅のときのような深い長息で、タバコの味を思い出しながらゆっくり肺をふくらませて吸気すると、意外と追体験に似た思いが味わえるのですよ。

深い呼吸は、心を落ち着かせるのに卓効がある。

ある程度は、喫わなくとも平静をたもてることを、このとき初めて知った。新鮮な身体感覚だった。

そして、仕事にいっては、お世話になっている会社の専務さんや、同業の年配者がタバコを手離せない、無様な依存ぶり(カッコ付けもあろう)をつぶさに冷徹に観察して…… 

「この人らと一緒でいいのか?」と自問したら、即座にこころが定まった。心奥で禁煙を全肯定した。(私から嫌われた方々よ、本当にありがとう、あなた方のお陰でタバコを止めました)

 

とはゆーものの、三週間目と三ヶ月目くらいだったか、後戻りしてみたこともあったのだ。

もはや、昔ほどおいしくなかった。(頭がクラクラ痛んだ)

なにか、忘れたまま生きているような心地がしたが、禁煙していることを忘れるまでは2年くらいかかったのかな。

心にすっぽり抜けた快楽の穴はおおきかったのだろう。

 

タバコをやめると、不思議なもので、酒も音楽にも溺れることがなくなった。

わたしのスタイルだったのだ、タバコ・酒・音楽の相互に増幅する快楽。

カッコイイ男はそうだと思い込んでいたのだ。(それが舞台でありシチュエーションだと信じていた)

でも、静かに自分をかえりみると、わたしの真から望むものはそんなものではないようだ。

そんなものは、子どもの頃しきりに思った「コーヒー牛乳を腹一杯飲みたい」というのと、さして変わらぬことに思い至った。

過剰さが豊かさではない。

狂った自分は、無理している。

ごまかさなければならないものなど、何もなかったのだ。

たんたんと見上げれば、そこに太陽がかがやいている。

手元に一杯の水がある。

飲めば満たされるものが、そこにある。

そんな程度で、ひとはしあわせを感じることもある。

「放てば手に満てり」(道元)

 

禁煙って、けっして失うことばかりではないのですよ。

戒律というか、自分律というのも「喪失」がテーマではない。

「〇〇しない」というのは、士道覚悟に近い。

しないことによって、調えているところがおおきい。

わたしは、寅年生まれなので虚空蔵菩薩の加護をうけているそうだ。

そのご縁で、眷属である「鰻」は食わないことに決めた。

そうすることで、食わないことで、鰻重の有り難みがいや増すのである。

ひとつ、そういうものをおのれに設えているのがよい。

それが自分の全体を引き締める、失って返って活きるものであろう。

      _________玉の海草

 

 


 釈尊が沈黙 (無記) した意味 〜 「我」 でも 「無我」 でも 「非我」 でもない

2024-01-12 04:22:40 | 小覚

__ いまから2600年前に、釈尊が打ち立てた「仏道」は、さまざまな宗派(セクト)に分かれ、その教えがとんでもない拡がりをみせて、世界宗教になってしまった。

最近では、フランス🇫🇷のように、禅を宗教として扱わないで、ひとつの精神メソッドとしてなじむことによって、宗教としての垣根が低くなっている。

また、仏教を哲理として捉えたり、科学として捉えたりする傾向もよく見られる。

 

次に上げる科学系動画(約22分)を見ていただければ、容易に納得できるであろう。仏教が、わが邦古来の神道と共存できた理由にも深淵なものがあるのだろう。釈尊は、太陽☀️信仰の釈迦族のご出身であらせられるから。

 

 

広く観れば、仏教・ジャイナ教・シク教はヒンドゥー教🛕の分派ということになっている。(インド憲法🇮🇳による)

仏陀(釈尊)は、ヒンドゥー🛕のヴィシュヌ神の化身の扱いである。

いってみれば、釈尊はヒンドゥー🛕における革新派(新興宗教みたいな)であった。イエズスがユダヤ教の革新的なラビで、ムハンマドがキリスト教の革新派であることと相似であろう。

 

ゴータマ・ブッダという過去に実在した一個人が成し遂げたことは……

悟って(コノ世を生きやすくして)、

解脱する(輪廻転生のくびきから脱出する)

というシンプルなものである。

そして、人間ブッダはその方法論を確立して、フォロワー(弟子)にそれを伝えて、自分と同様の境涯に至るまで教え導いた。

 

釈尊(ブッダ)は、「輪廻転生からの解脱」というバックグラウンドでは、ヒンドゥー教🛕(バラモン教)の世界観を踏襲している。

それを真理と認めていたのだろう。

しかし、ヒンドゥーが認めた「真我」という実体我(常住しており不変である「我」)に対して、釈尊はそんなものはありませんよ、「無我」なんですよと提唱した。

【横山大観の『無我』】

 

 

 

__ 仮想現実という観点からは、

そもそも古きヒンドゥー🛕(旧バラモン教)でも、コノ世は「幻影(マーヤー)」であるという世界観であった。

迷える自我は、強制的な輪廻転生によって、「終わりのない不満足(不如意)」を永遠に繰り返さなければならない。

だから、「真我(本当の自分)」に目覚めよというわけである。

 

かたや、仏教はすべての現象は縁生(原因・条件があって生じたもの)であって、

常住であり不変である「我」を認めない。

ゆえに「無我」である。

とはいえ、釈尊も説法するときは、「私が‥‥ 」と自分の自我を口にしたし、「縁生の五蘊の仮和合」としての「経験我」のようなものは認めていた。

「無我」でもいいけど…… 

じゃあ、仏教では「何が輪廻するのか?」

 

このへんは、私の仏教知識では打ち漏らすオソレがあるので、新進気鋭の賢人にお出まし願いましょう。

お堅い分野なのに、意外なヒット作となった…… 

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か〜』から、叡智✅を拝借して来ましょう。

 

◾️輪廻する主体とは何か

現代日本🇯🇵で一般に「輪廻」と言う場合、

私たちは主観的には明晰判明に存在している「この心」が、何かしら「魂」のような実体として様々な存在に生まれ変わっていくといった、物語のことを想定しがちである。

死ねば眼・耳・鼻・舌・身の五感を伴った身体が消滅するのは経験的に知っているから、輪廻があるとすれば、存続していくのは意識、即ち「この思い」だろうというわけだ。

しかし、同様に考えて「識」が輪廻の主体であると主張したサーティ比丘が、ゴータマ・ブッダから激しく叱責された。

サーティ比丘に対してゴータマ・ブッダは、

私は「縁がなければ識の生起はない」と説いたではないかと言っている

現象の世界において認知できるものは全て縁生のものであり、したがって無常・苦・無我である。

それは「主観」を構成する識(意識)であっても、例外ではない。

 

行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、

仏教で言うところの「輪廻」の実態

 

存在しているのは業による現象の継起だけ

そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体我は含まれていない

 

「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の物語ばかりを考えてしまいがちだが、

実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。

 

……仏教学者の桂紹隆は、

『アーナンダ経』におけるゴータマ・ブッダの取った立場、つまり「厳格な無我」でも「非我」でもない態度について

> 「アートマンの有無の問題に関して『沈黙』を守った『無記』の立場、

したがって有と無の二辺を離れた『中道』という理解こそ、

初期経典に記録されるブッダのこの問題に対する最終的な答えであったのではないかと思う」

と述べている。

「無我説」でも「非我説」でもなく「無記説」こそがブッダの真意だったのではないかと推測している。

 

…… ここが、ひときわ目を瞠る卓説なのだが、

魚川さんもこの【中道】に同意しておられる処をみると、釈尊が「無記説」に隠した大いなる意図が窺えそうな気がする。

《参考》

東京大学教授 斎藤明氏の「空とは何でしょう? 〜中観派の教えを学ぶ〜 」より

縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に

「無我」(心身の諸法は我をもたないこと)」

「非我」(心身の諸法は我でないこと)」

を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。

 

つまり、こうである。

ヒンドゥー🛕が、ウパニシャッドの伝統から「自我(self)、真我(Self)」を打ち出しているのに対して、

釈尊は、ヒンドゥーの伝統をふまえて、尚のこと「無ー我(an–attan)」を打ち上げた。

これは、いわばヒンドゥー教🛕を利用した対機説法だったのではあるまいか。

ヒンドゥーのヴェーダーンタの精緻な「不二一元論」(これは、釈尊の再来みたいに騒がれた龍樹菩薩の哲学をシャンカラが借用して確立したものだったが)に、意識の裂け目を生じさせる技だったのではないか。

「真我」にも「無我」にも偏らず、釈尊の遺言にある「有無の二辺を去って中道を歩む」姿勢の現実的な露われとして、

我(アートマン)」でもなく、

無我(アナートマン)説」でも

非我(アナートマン)説」でもなく、

無記 説」となったということなんじゃないか。

 

「アートマンでもアナートマンでもないんですよ」と示すために、沈黙した(「無記」)と。

将来のヒンドゥー🛕勢力の繁栄をも利用して、常見でも断見でもないぞと、

量子力学的に、「波」でも「粒子」でもないぞと。

量子コンピュータの演算処理の仕方で、釈尊も説法していたのかと、やおら感動を覚えずにはいられない。

まー、「コノ世は仮想現実」という観点からすれば、

ヒンドゥーの「自我」も仏教の「無我」も、さして変わりはない。

実体をもっていないそれは、「存在」とはいえないものである。安心とは普遍(常なるもの)から来たる。

釈尊は「無我」を打ち上げることによって、二辺を際立たせた。それは仏説の「無我」にも囚われるなという冗談のような「自己否定」を含む遊戯三昧でもあったのであろう。

 

龍樹の「中観」も唯識の「阿頼耶識の薫習」も、釈尊の言うに言えない「無記説」を敷衍するような役割があったのかも知れない。

宇宙人👽だったという説もあるから、この量子論の現代に繋がる手助けをしてくれたものかも知らない。

 

桂は、龍樹と世親という大乗仏教を代表する論師たちも「無記説」を採用していたと述べている。

[※  桂紹隆『インド🇮🇳仏教思想史における大乗仏教〜無と有との対論』(春秋社、2011年)より]

 

 

 

◾️「無我」とは…… 

無我は、単純に「我が無い」状態だと決めつけてはならない。

「色は無常である。

無常なるものは苦である。

苦であるものは無我である」

無常・苦・無我の三相が、基本的には同じ事態の異なった表現

無常・苦・無我が シノニムとしてセットで語られる

…… 無常と苦と無我が、入れ替え可能であるだなんて。

この仏教の方程式が、仏教理解を複雑なものにしていると思うな。

 

「苦であるものは無我である」

…… つまり、

「コントロールできない」ということを「無我」と呼んでいる。(「苦」のサンスクリット語は「不如意」つまり思い通りにならないという意味)

 

欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。

即ち、それは私の支配下にある所有物ではないという意味で、「無我」である。

 

「無我」と言う時にゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」の「実体我」である。

仏教の基本的な立場は 全ての現象は縁生である

※  縁生 = 原因・条件があって生じたもの

 

仏教に対するよくある誤解の一つとして、

「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。

だが、実際にはそんなことは起こらない。

 

 

>「無我なのに輪廻する」のではなくて、無我だからこそ輪廻する」

…… この場合、輪廻の主体は「縁生の五蘊の仮和合」であり、別の言葉でいえば

「認知のまとまり」もしくは「経験我」である。

転生するとはそれだけのことであり、そこに固定的な実体我が介在する必要はない。

そうであるならば、かえって…… 

「常一主宰」の実体我が 輪廻転生の過程を通じて存在し続けているとするならば、

それが無常であり苦である無始無終の縁生の現象の連続に巻き込まれてているというのは、

どうにも説明のつけにくいことになる。

…… ヒンドゥー🛕はアートマン(自我)が輪廻すると言っているのに、同じく輪廻を世界観としている仏教では転生する「実体我」が見当たらない。

この齟齬はどうなっているのよ、という批判をまったく逆手にとった、みごとな返しである。

味わい尽くすべき言葉であろう。

 

 

◾️釈尊が透視した「世界」の実相

ゴータマ・ブッダは、自分の証得した法が「世の流れにさからうもの」だと考えて、当初はそれを他者に語らないつもりであった

彼の教説は、労働と生殖を放棄し、現象を観察して執着の対象から厭離し離貪して、

それで渇愛を滅尽すれば、「寂滅為楽」の境地に至れるという、きわめてシンプルなものである。

ゴータマ・ブッダの教説は、その本質として「非人間的」な性質を有するものだ

…… それゆえに、大悟した後に釈尊は隠遁しようとなさった。それを三度も訪ねて懇切に説得したのがブラフマー神であった。(「梵天勧請」)

梵天によって翻意した釈尊は、この時点では一切衆生済度を思っていたわけではない。機根のよい純粋な一部の者たちは、釈尊の悟りを受容できるかも知れないという希望を抱いたに過ぎなかった。

しかし、最初に説法(初転法輪)した修行仲間の五人は、聞いただけでたちどころに覚ったのである。

35才で大悟、80才で入滅された。その45年間に釈尊が見性(仏性を見る=悟る)に道引いた者は、なんと500人にも上る。阿羅漢となった五百羅漢によって、釈尊歿後すぐに第一結集(仏弟子による仏説の確認会議)が開催されたのである。

 

◾️自分勝手に意味をもたせる、「物語の世界」

なぜ私たちは、「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。

> すべての物語が、愛執が形成するもの

「善と悪」という区分は、基本的には物語の世界に属する

 

>「意味」からも「無意味」からもともに離れることによって、はじめて「物語の世界」を終わらせることができる

仏教の本質は、「世界に」を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある。

 

仏教の第一目的

世界(loka)を説明することではなくて、世界を超越すること

……そこでは「世界」が立ち上がっていない。仏道は思考(哲学)ではなく、あくまでも実践道である。

欲望に基づいて織り上げられた様々なイメージが、我という仮象を焦点として「全体」という像をむすんだのが、

「世界」という物語である。

 

感覚入力によって生じる認知は、それを[ありのまま」にしておくならば、

無常の現象がただ継起しているだけのことで、

そこに実体や概念は存在せず、

したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、

だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては「滅尽」している。

つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。

それは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。

 

 

◾️仏教コトバへの誤解

智慧は、思考の結果ではない

…… 禅定は智慧の前提である。

ある種の、「意」を整えるための身体操作は必要なのであろう。仏道は、実践道に他ならないのだから。

深い腹式呼吸で横隔膜を意識して動かすことによって、不随意筋を連動させたりする。

禅定力は、正しくすべてを受容する為に不可欠なものなのかも知れない。

 

> 「慈悲」の四つの要素

…… 仏教でいう「慈悲(=慈悲喜捨)」といわゆる「優しさ」とは異なる

・慈(衆生に楽を与えたいと願う心)、

・悲(衆生の苦を抜きたいと願う心)、

・喜(衆生の喜びをともに喜ぶ心)

「捨」(平静さ)

 

「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心である

「捨」というのは そうした心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言う。

…… つまり、慈悲には「悟った覚者」のもつ、「大自然と同位に立つ」(J.アダムスキーの言葉)客観的な眼差しが求められるのである。

 

 

__ 上記の引用は総て、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か』より

 

素晴しく光る言葉が、ふんだんに盛り込まれている名著である。

著者の魚川さんは、東大で「西洋哲学」専攻され、東大大学院で「インド哲学」を修めた後に、さらに進んでミャンマー🇲🇲に渡航して、テーラワーダ仏教の実践(修行)に身を任せて、徹底なされた御人である。

まずもって、さすがは東大卒🎓の人材には傑物がおられる。

哲学者の先崎彰容が言っておられたが、いまどきの大学生は「8月15日の終戦記念日」を知っている者が、わずかに二割しかおらず、それが昭和20年の出来事であると知っている者にいたっては皆無である惨状であるそうだ。

わたしは大学に行けなかったので、ネットで発言すると「学歴コンプ」とか揶揄されることもよくあるが、

伊勢白山道のコメント欄📝を見るかぎりでは、まったく劣等感を覚えることがなかった。

あまりにも、知らないのでかえって此方が愕然とするほどである。

やはり学問の本筋は、独学にあるようだ。

なんの疑問もいだかず、外から学ばず、自分に問わない者が多すぎる。学問を愉しむことを知らない。

 

世間の数多ある「バカ田大学」は置いといて…… 

さすがは東大である。

仏教関連でも、20代で既に芭蕉や禅の境地について、卓抜な一家言をお持ちでいらした竹村牧男とか、

永平道元を徹見されたひろさちや、鈴木大拙を世間に広く知らしめた秋月龍珉

三島の龍沢寺で、山本玄峰の法を継いだ中川宗淵老師とか、文武両道と申しますか、頭脳🧠も修行🧘もフルスロットルな才幹が目白押しで心強い。

大学生はそうでなければ生けません。

ちょっとやそっとの独学では追いつかないような、総合的な識見が養われないようでは最高学府の名が泣こうというもの。

もちっと、勉強してほしいものだ。

 

この魚川祐司さんは、ミャンマー🇲🇲に行って、子供時代から長年抱えてきた[違和感]から解放されたから、文筆家や翻訳家としての執筆活動からは、早や引退されたそうです。

[違和感]とは、ハイデッガーの云う「違和感( Unheimlichkeit )」のことで、

「当たり前のことが当たり前でなくなる感じ」

「家🏠にいる時のようにくつろいでいられない感じ」

であり、「不気味さ」と呼ばれることもあります。

岡本太郎の「何だ、これは!」のように、意識に裂け目ができるような、違う次元を垣間見た驚きであり、純粋な感動のようでもあるが、魚川さんの場合、それは随分と苦しかったもののようだ。

周囲の人々の「普通」や「自然」を必死に学習し、そこにある暗黙のルールを表面上はトレースできるようになったとしても、私はそれを本当に心から「当たり前」だと思えるようになったわけではありません。

形の上ではそれっぽく振る舞いながらも、私の心の中には、ずっと「これは何だ!?」と叫び続けるものがあった。

[※『フリースタイルな僧侶たち vol.47』

「特集 仏教が私にくれたもの(魚川祐司)」より

 

…… 彼の半生で、いろいろな苦境は経験しているが、子供時代のその[違和感]に比べれば、何でもないと感じられるほどに憂鬱に覆われた期間が長かったようだ。

子供時代は、その日常のすべてが、この[違和感]とともにあったと云ふ。

そして、その[違和感]を共有し、解決してくれるものを仏教のなかに予感したのが、彼を仏道修行に駆り立てたわけであるようだ。

 

何かのきっかけで、

その「当たり前な感じ」=自明性が剥がれ落ちる瞬間というのが起こり得るそうです。彼は仏教によって、それを成し遂げた。

【魚川祐司さんは、こんな御仁。1979年生まれ】

 

もったいないことだが、ちょうどカソリックの岩下壮一神父が神学の完成よりも、ライ病患者の世話にキリスト者の生きがいを見出されたように、

魚川さんも、もう公的なアウトプットは完了された御方なのであろう。ひっかかりが無くなったというか罣礙(けいげ)無しというのは、そこから心置きなく離れる良き機会なのかも知れぬ。

個人的には、いままで曖昧にしていた仏教学の根本疑問❓を解決することができて、大変感謝している。

津田真一『反密教学』以来の、面白い本筋の仏教書であり、この邂逅に深く感謝するものである。

伊勢白山道の言葉「宗教は無くなります」に啓示をうけて、おそらく最後まで命脈を保つのは仏教だろうと確信してきただけに、

仏教を捨てる前に、根本疑問を晴らしておきたかった。

いまはもう、何のこだわりもない。

かえって、いままで馬鹿にしていた仏教(ただしくは釈尊の仏道の名を冠したセクト宗教)が、初めて愛おしくなってきた処である。

釈尊は、その名に違わぬ、大賢中の大賢である。

かれの叡智を、わずかばかりでも堪能できた仕合わせを喜びたい。まったく、たいしたものだ、子どもの頃に懐いた直観は間違いではなかった。

特撮『レインボーマン🌈』で初めて触れた仏教が、わたしの内で、いまにして成熟しているようだ。

探求の終わりに出発点に到達し…… その場所を知る。

T.S.エリオット、🎞️『あなたを抱きしめる日まで』より)

さだまさしの、50年後に再結成された『グレープ』のコンサートで自然と浮かんだ「なつかしい未来」というものだったかも知れません。

なんら気負うことなく、「宗教は無くなります、必要ありません」と言える自分になれそうだ。

宗教は無くなっても、信仰というものは無くなることはないだろうけれど。

      _________玉の海草