__も〜3年にもなりますか、『初耳学』の中で、林先生が実に含蓄に富むことを言っておられた
> 「僕の莫大な経験では、『孤独は嫌だ』という人の共通点として、本をあんまり読まない」
> 「考えるという作業は絶対一人じゃなきゃできないんですよ」
>人間は、考えると一人になるんです。そして一人になって自分を見つめ直す。その中で他人との繋がり方を見出していく。それを唯一可能にしてくれる孤独が、寂しいんですか?」
>「本を読まない人は寂しがり屋で友達を欲しがる」
>「本を読む人は友達がいらない」
‥‥ 誰もが知ってる曲「新一年生になったら、友だち100人出来るかな」は、「ともだちが多いのは、良いことだ」とゆー価値観を社会に浸透させたと云ふ
[※ 童謡『一年生になったら』まど・みちお作詞1番〜3番/山本直純作曲、1966年]
【画像:絵本のおもちゃばこ(単行本)ポプラ社、2011年】
林先生は、「友だちは少なくてよい」が持論で…… 下重暁子『極上の孤独』(幻冬舎新書)のなかの「友だちや知人は少ないにこしたことはないと思います」の条りや、ドイツ哲学のニーチェの言った「愛せない場合は通り過ぎよ」を挙げて、ドライな人間関係もわるくないと提言した
とゆーのも、SNSの普及によって、簡単に他者と繋がれることで生じる深刻な弊害もあると示唆している
なにをもって「ともだち」と呼ぶかは、おのおの思う処はあろーが…… 幕末の志士たちの思い描く「友」とゆーものも垣間見てみよー
“ 士は己を知るものの為に死す ” とゆー言葉があります
>司馬遷『史記』刺客列伝 にある有名な句。
紀元前5世紀の中国・晋の人、豫譲(よじょう)の言葉。
‥‥ 現在のC国とは違い、古代中国には目を瞠るよーな清冽な御仁がおられた様です
>豫讓、山中に遁逃して曰く、
「嗟乎、士は己を知る者のために死し、女は己を説ぶ(悦ぶ)者のために容(かたちづく)る。
今、智伯われを知る。…… 」
(訳):「ああ、志ある人士はおのれを知ってくれる者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために顔かたちを飾るのだ。智伯はわたしを知ってくれた。…… 」
…… この句が、「知己」の語源 なのだそーだが、
「知己」とは、知人だの知友だのとは、一線を画する特別な言葉なのね
「知己を後世に待つ」とか「天下の知己」とかには、深い意味合いがある
> 「天下後世まで信仰悦服せらるゝものは、只是れ一箇の眞誠なり。 …… (略) ……
誠篤ければ、縦令(たとひ)當時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし。」 ( 『 西郷南洲翁遺訓 』より )
「 知己を百年の後に待つ は大丈夫のことじゃ。
一時は暗雲に閉ざされても、人の真心から為した仕事は必ず光明を放つ時が来るものじゃ。
近頃では、こんな血誠男子はまことに少なくなった。」
[※ 頭山立雲(満)翁による『南洲翁遺訓』の解説 ••• 口述筆記された]
‥‥ 右翼の首領・頭山満翁も、遅く生まれすぎた志士であり、西南戦争に従軍しよーとしたが入獄されていた為に果たせなかった御仁である
勝海舟の言葉にも、「知己を千載(千歳=1000年)の下に待つ」とある
武士としての矜持を支える価値観として、「士はおのれを知る者のために死す」とは志士の心映えをあらわす言葉として、共有されていたものかも知れない
縷縷のべてきた「知己」と、SNSでの「フォロワー」とでは、同列に論ずることは出来なさそーだが……
林先生の「少なくていい」とは、「知己」に近い所謂「親友」みたいな者を指すのだろーか
しかし、自分の培ってきた素養から導かれる「自己」とゆーものがない者にあっては、「己れ」を知る者は永久にあらわれない、「自己」あっての「知己」である
「己れ」の確立のために、読書とゆー孤独な時間、自分に向かい合う時間が必要だと言わんとしているのではないか
以前に述べた、タモリさんの述懐と同じ消息を語っているよーに思えてならない、モーレツ社員(回りと同じよーに仕事に打ち込む=繋がっていたい) にならざるを得なかった当時の日本人は、「自分との対話」(自分と向き合う=孤独・読書)がこわかった と言えそーです
《以下、当該記事へリンク》
> 五輪が終わり、「自分の夢中」を喪ってから現れるものは…… - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
‥‥ その「自分との対話」、生まの自分に直面する手段として、極めて有効なのが「読書」である
これもまた、以前の記事に書いたが……
> 「本を読むという行為は決して情報を得たいというためにやるわけではなくて、むしろ自分の中からどの位引き出せるかという営みなのです。」(酒井邦嘉教授)
《以下、当該記事へリンク》
《ちょい言》 日本人の半分は 、習慣的に “ 読書ゼロ ” - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
‥‥ 最後に、林先生の「読書による孤独のうちに己れを知る」とゆーことが、「自立」「ひとり立つ(独立)」の為にいかに重要なものか、いや必要不可欠なものか、自分の体験から見てみよー
私は、いわゆる読書家のほうで、3000冊位の読書量はある
若い時分、東大英文科系統の中野好夫の「知識人の定義」を目にして、30才でほぼ2000冊に到達した
一週間に一冊読むとして、1年で50冊、それを40年続ければ2000冊になる、その位読んでいれば「知識人」と呼んでも差し支えないのではないかと、
日本の文壇をリードした東大英文科(小泉八雲・夏目漱石・上田敏・斎藤勇等の教授陣や東大出身翻訳家・評論家、坪内逍遥・谷崎潤一郎・芥川龍之介・川端康成・三島由紀夫等の東大出身作家による東大派閥の影響力)を代表していた長老・中野氏が提言していたのである
まー、わたしの読書は「生きてゆく」ために不可欠なもので、追い詰められて仕方なく本からの知識を打開策にしたのが真相で、純粋に教養を身につける為の向上心とは無縁だったとは思う
サラリーマン生活が生きづらかった私(普通や人並みが大キライ)は、本の中に処世術を探ったし、勿論現実逃避(夢想)もしていたと思う
私の中では、秘伝書やオカルト文献・剣豪小説(職人物語みたいな受け止め方)なども、広義の実用書であったわけである、書物の中の世界は現実と結びつけられた
そんな真剣な読書を四半世紀もコツコツ続けて、3000冊に達する頃には、もはや読書欲もたいがい無くなってきていた、目次を読んで内容に予想がつくよーになって仕舞ったからだ
そーしたときに、巡り逢ったのが「伊勢白山道」である、あやしげだが紛う方なく光るものが厳然とあり、前代未聞の世界観を伝えていた
一年くらいかけて、コメント欄で反論したり、質問の形で試してみたりして、自分なりに納得のゆく検証を試みた
その結果ほぼ、私の長年蓄えたオカルト知識からみても、破綻が見つからなかったし、認識については私の遙か上を行っていた、そこで、一度信用して自らの指針として採用してみると、統一性がとれていて、どっぷりと彼のブログに浸ったことだった
霊的な真理に飢えていたのだ
仕事しながら、お昼休憩時に伊勢白山道を読んでは、グルジェフのよーに霊的なワークに繋げたのである、陽明学の「事上磨練」= “ Training On The Job ” である
ほんとにあらゆるオカルティズムに精通された御方で、一日の記事のなかに、書籍で読めば十冊分くらいのオカルト知識(隠秘学)がつめこまれてあることも珍しくなかった
わたしは徐々に、苦労して文献を読むのを放棄するよーになって行った、最早彼のブログからお手軽に隠された情報を知ることが出来たから(読者ボランティアによる検索システムも「過去コメントのまとめ」も極めて優れたものだった)
そーなると、オカルト(隠された知識)を日常に実用化してきた私なので、公私にわたって、実生活のなかに「伊勢白山道」が深く浸透していった
「生きる」ことの根本義(神棚参拝や先祖供養そして感謝想起・観音行)として、伊勢白山道の実践が根付いているわけだから、油断していると無意識のうちに「リーマン教信者」になってしまっている…… 困るのは自分でそのことに気がつかないことだ
伊勢白山道の世界、コメント欄の読者同士で繋がっていることに、無上の安らぎを覚えたものである
こーして十有余年経って、わたしは本をまったく読まなくなった
読書の孤独感にたいして、耐性を失ったのだと思う
SNSつまり、伊勢白山道ブログに繋がっていれば、安心だし、実践による体感もあるし、迷いは少なくなっていった
ついに、社会不適合者かと思うほど生きづらかった私が、何としたことか生きやすくなったのである
伊勢白山道の圧倒的な知識と認識が、本からは手に入らない「真の知識(叡智?)」を示唆してくれたからである
それでも、私は彼の文章が気に障る処(英語を直訳したよーな生硬な文体等)があって、コメント欄で文句を言い続けて(不掲載となるが)、とうとうコメント削除されて出禁になってしまった…… (現在は幸いにも投稿が許された模様 ♪)
そのときになって、いかに私の実生活に伊勢白山道が浸み込んでいるか、いかにコメント投稿するとゆー能動的行為に自分が救われていたかに、初めて気がついたのである
十年以上にわたって、伊勢白山道を追ってきたことはもちろんまちがいではない、それどころか言いようのない感謝の気持ちで心が一杯になる
間違ったことといえば、すべてを伊勢白山道を通して受け取り、与えてもらおうとゆー怠惰な心持ちに安住したことかも知れない
伊勢白山道にいつも繋がっていたかった私は、自分を見つめ直す(読書の)時間をないがしろにしてしまったのである
読書に伴う孤独、読書とゆーものを成り立たせる孤独、それは一時的とはいえ、伊勢白山道での繋がりから離れなければ成し得なかった難事だった
伊勢白山道推薦の、『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』とゆー難解なアドヴァイタ・ヴェーダーンダのエッセンスは、類稀なる孤独の時間を潤沢に提供してくれた(5回繰り返し読むよーに推奨された)
わたしは、その本を読んだことのない人から薦められて、読んだのは初めての経験だった(リーマンさんは霊視で内容が分かるため、読むことはない)
ニサルガダッタ・マハラジの示す、「最後の知識(Knowledge)」、知識に別れを告げる〜知識(観念)に引導を渡す「真の知識」の波及する範囲はすべてを網羅していて、伊勢白山道で学んだオカルト知識にまで及んだ
推薦本を熟読吟味したことによって、伊勢白山道の言語表現に物足りなさを感じるよーになり、文章批判に繋がったことは、如何にも皮肉なことだった
こーした得難き経験をとおして、いつも誰かと繋がっていたい人は、ご自分を知る一番大事な機会を逸しているのではないかと思うのですよ
繋がりそのものが負担となって、「妄想」を稼ぎ、不毛の依存を生み出し、自らのシンプルなありようを致命的に阻害することもあろー
洞察とは “ insight ” 、洋の東西を問わず、字義どおり内に向かうベクトルである
繋がりは自分の外へ、読書(孤独)は自分の内へ
外(外在神)を拝めば、内(内在神−根源神)は匿れる
世界中の太古の叡智が初めに告げる言葉
「おのれ自身を知れ」 と
_________玉の海草