『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 幕末最強伝説 🇯🇵 〜 鬼の惣角

2021-08-18 19:23:00 | 天才列伝

__幕末のナンバーワン剣士は、誰か?

 

幕末は、「戊辰戦争」でも近代銃器での戦闘が多かったとはいえ、国史上最後の内戦にして白兵戦だった「西南戦争」であっても日本刀での戦いが多かったし、倒幕派と佐幕派との熾烈な政治的暗躍もあり、双方で凄腕の刺客を放ち、刀による死闘となったわけである

黒船来航して、そんな社会風潮も加味して、260年振りくらいに、腕利きの剣客が重宝される時代となった

「新撰組」は、天然理心流の名を高からしめて、三段突きの沖田総司や実戦に強い土方歳三近藤勇のカリスマ性がクローズアップされた

竹刀を使った剣術道場も、武士だけでなく町人の間でも盛んとなり、数々の名人を産んだ

一刀流系統では、中西派に寺田五郎右衛門白井亨、「音無しの剣」の高柳又四郎浅利義明千葉周作など名だたる剣豪を産み、北辰一刀流の道場からも無刀流開祖・山岡鉄舟が出ている

その山岡が、千葉道場の若き麒麟児・海保汎平をまったく寄せつけなかった老年の剣客・中村一心斎(神道無念流〜不二心流開祖)を当代随一と尊敬していたし…… 

兜割りの榊原鍵吉(直心影流)や剣聖・男谷精一郎島田虎之助、異色の剣豪だが加藤田神陰流の大石進(九州から江戸に乗り込んで大規模な道場破りを成功させる)にしても、地方の道場で磨いた腕が生半可な実力ではなかった

「薩摩の初太刀は外せ」と、非常に警戒された野太刀自顕流(示現流の分派)の猿叫を伴う切り上げの必殺剣…… 悠長に剣技を習っている余裕はないから、ちょうど中国の洪家拳のよーに急拵えの即成剣士も少なくなかったであろーが、ともかく剣客にとって群雄割拠の幕末ではあった

 

ーさて、武芸十八般、刀や薙刀に槍・鎖鎌などの武器術でも組打ち(レスリング)でも関節技や当て身(パンチ・キック)や暗器(秘密の武器)まで、なんでもござれの「バーリ・トゥード」で、反則OKで決闘した場合…… 

条件なし(ルール無用)でのストリート・ファイトで、いったい誰が最強であろーか?

伊勢白山道は、この問いに応えて、鬼の転生者・武田惣角に敵う者は誰もいないと明言されています

[※  伊勢白山道からの「切り取り引用」は厳禁されていますので、私の理解の範囲内で伝えます]

 

いまや「合気道」として、世界中で修練されている武道の源流である「大東流合気柔術」の中興の祖と云われる(実際は創始者であろーと云われている)、一代の武才・武田惣角の武勇伝を追いかけてみよー

 

 

(拙稿)>幕末、新撰組の前身とも云える「浪士組」には、腕に覚えのあるさまざまな流派の道場主やら師範代、免許皆伝者が多数応募してきたものだと云ふ

とゆーのも、呼びかけた求人主たる清河八郎が、北辰一刀流の名の知れた剣客だったからである

千葉の小天狗と称された千葉栄次郎(千葉周作の次男)道三郎(三男)につぐほどの剣の冴えで、山岡鉄太郎は道友であった

清河八郎は師・周作の分かりやすい指導をうけて、驚くことに一年で初目録までゆるされ、ほぼ10年かけて二代目栄次郎から免許皆伝を受けている

この、天才剣士栄次郎(たぶん生涯無敗)から同じように指導を受けた人に、のちの「突きの名人」下江秀太郎(18481904)がいる

19歳で北辰一刀流玄武館の塾頭となったほどによく出来て、

明治維新後は警察の撃剣世話係を務めるが、とにかく無茶苦茶な強さで、特にその突き技は人間離れしていたと云ふ

[※『対談 秘伝剣術 極意刀術』BABジャパンより]

 

大東流合気武術の佐川幸義(武田惣角の後継者)によれば、武田惣角翁(1859〜1943)が「合気」をやり始めたのは四十歳からで、それまでは剣で身を立てた、一流の剣客(会津で一刀流の免許皆伝、佐々木只三郎が修めた神道精武流も学び、新陰流系の直心影流、渋川流柔術も修得)であったと云ふ

佐川先生に次の発言がある

> 「大先生(惣角)の偉大な太刀は 柳生流とか一刀流とか小野派一刀流とか直真陰流とかいう流儀を超越したそれ以上のものであったと確信しております。

明治の年間 仙台で下江秀太郎の籠手を初太刀一本取りの御話は何回となく大先生に聞きました。

この場合の出方はこの様に出る等の御話もききました。

大先生の門に入った下江秀太郎は、御承知の如く、北辰一刀流の達人で、警視庁の剣道師範時代、あの高名な【榊原健吉】と立会っても寄せつけず榊原はぜんぜん下江には歯が立たなかったという実話を、当時の巡査より聞きました。

 

‥‥ あの、兜割りと撃剣興行で有名な、直心影流の榊原健吉が敵わなかった力量となると、更にその下江に勝った惣角翁の実力たるや…… 新天流槍術の天才・上遠野某を一瞬に倒したとゆー武勇伝もある

とんでもない剣の達人と云えよう

佐川先生は、あの 中里介山『大菩薩峠』の盲目の剣客・机龍之助のつかった甲源一刀流 であるが、二刀も遣われた

> 「武田先生の片手斬りは凄かった。剣を教わったが足運びが全然違った。武田先生は『勝負は一本、前へ出れ』とよくいっていた」

> 「どれほど剣の修行をしても、剣、とくに片手斬りでは武田惣角先生にはどうしても及ばなかった」

 

‥‥ この、惣角の「片手斬り」の秘術こそ、新陰流の秘伝『八寸の延金(のべがね)』だとゆーのだから驚きである

真新陰流の小笠原玄信斎(徳川家康の兵法指南役・奥山休賀斎の後継者)が明国に渡り、張良の子孫と交換伝授して手に入れた中華戈術の秘伝が『八寸の延金』と云われ、この間合いを誤魔化す秘技は、高弟・神谷伝心斎を通して直心影流へと脈々と伝承されていたのである

下江秀太郎からボロ敗けした榊原健吉は、自分の道場の内弟子(惣角)に『八寸の延金』を伝え、北辰一刀流への意趣返しを目論んだのではないかと私は推測している

もくろみは見事にあたり、惣角は天才剣士・下江から初手で小手を取る

ただし、その一本だけでその後は引分けている

佐川先生が描写する武田惣角翁の剣術を見てみよー

> 「武田先生の片手斬りはすごかった。背が小さい(147)から自分で工夫したのだろう。シュッとのびて小手を横から斬ってしまう。すぐ手を持ち替えてしまう。

武田先生の剣は足が違うのだ。剣でも持ち替えると同時に足が動く。足さばきで相手はよけることが出来ないのだ。

右小手(内小手)を足さばきで斬ってしまう。武田先生の剣は構えている正面から手首をまっすぐ斬ってきて、次の瞬間、左右に手を返し、内小手を斬ってしまう。

武田先生は一刀流の形を学んでいて、良いところは自分のものにしてしまい、他は捨ててしまう人だった。先生の斬りかたは、よく考えたら一刀流のある形の応用なのだ。

武田先生は正面から敵の後ろ首を斬るくらい手を返していたので、手首を返すことを練習していたのだ。

姿勢が一番大切だ。武田惣角先生に口で教わったわけではないが、先生がまっすぐにしているのを見て気づいていったのかも知れない。

武田先生は極めるときは、びしっと極めた。崩す合気はあったが、私のようにどこでも掴まれたところで力を抜いてしまう合気はなかった」

‥‥ 「合気」をつかった比類なき大東流剣術 についても触れている

「合気で敵の太刀の力を抜いてしまうのだ。いまの剣道では竹刀と竹刀を合わせて攻めあいをしているが、真剣勝負ではお互いの太刀を合わせてはいけないはずである。

達人になれば、合わせた瞬間、これを好機として利用して入ってくる。剣を合わせるとは、橋をかけてやっているようなものだ」

 

‥‥ 昔の武芸者は、けっこう他流の得意技に詳しいものだ(一刀流「切落し」、新陰流「合撃打ち」、柳剛流「脚薙ぎ」、無外流「指切り」等)

なにせ、命懸けの仕合いになるわけだから、同門の師弟間では、かなり正確な情報が共有されていたものと見ゆる、他流試合も多かったからである

しかし、武術家は弟子にすべてを伝授することは、本来ありえない事である

なぜなら、その技で弟子から襲われたときに、返し技を持っていなければやられて仕舞うからだ

佐川先生も云われている

> 「武術というものは全部を教えるものではない。

一番大切なところは決して誰にも言わない。そこは自分が真剣勝負に使うやり方だ。

次の段階を一子相伝する。

更にその下を気に入った数名に教える。武術とはそういうものだ」

[※ 津本陽の遺作『深淵の色は 佐川幸義伝』より引用]

 

‥‥ 最近の研究で、武田惣角は中川万之丞とゆー密教行者から「易」を習ったと云われる

そのため直弟子の佐川幸義も、惣角翁の歿後、かなりの年数を「易」の研究に当てていらした

「宇宙天地森羅万象のすべては融和調和によりて円満に滞りなく動じているのである。その調和が合気なのである」(佐川道場訓)

森羅万象は万物流転と共にある。

‥‥ 易は「中庸」を重んじる、つまり「調和」があるべき姿である

なんでも惣角によらば武術と易占には同じ理があるとの事である

伊勢白山道のリーディングでは、惣角翁は身の回りの物を何でも刃物に変えてしまうよーな容赦のない人で、忍者の教えも受けているとの事

忍術といえば、上記の密教行者の秘伝でもあろーか、佐川先生は惣角師に「壁抜けの術」は出来るかと直接問うて一蹴されているが……  忍者の隠形術らしき技は目撃なさっているし、「千里眼」のよーな超能力を発揮された時も現場にいたらしい

「相手がどう斬ってきても、相手の後ろにくっついてかならず斬れる位置につくやりかたがあるのだ」

‥‥ 惣角翁の身につけた技は、しかし「武道」ではない

危険な急所攻撃や致死技で、受け身もゆるさない殺人のための技だと伊勢白山道では云われていました

ただし、弟子(植芝盛平、佐川幸義等)の段階で緩和されて別物になっていると…… 

当の惣角翁は、そんな「武」の扱いを苦々しく思っていた節がある、なにせ健康目的で稽古したい者には教えない御方なのだ、あくまでも「武」とは強くなるためにやるものだとゆー信念をお持ちなのである

「武田先生と嘉納治五郎先生は同じ1860年の生まれで、話は聞いていました。

その時分、武田先生が、嘉納のやつが、柔術を「道」にして、やったはいいけれど、昔の柔術を忘れてしまった、と言っていましたよ。」

[※  久琢磨『合気柔術から合気道へ』より]

‥‥ 講道館四天王の西郷四郎(得意技が「山嵐」で、小説『姿三四郎』のモデル)は、同じ会津藩御留流「御式内」の相弟子である

惣角翁から、大変な苦労の末に、技を見て盗み進化させていった佐川先生であったが、そのお姿は武道家とゆーよりか真の武術家であった

自分が鍛えている姿でさえ、決して弟子に見せなかった

武術家(武芸者)は、いつ何時斬りつけられても応じるし、場所も選ばない、ルール無しの戦闘で生命のやりとりをする

「敵が太刀を前に出したら、切先を殺しておいて突いて出ること、太刀をはたき落して突いていくことなどが基本だ。

真剣の場合は突くことが第一だ。斬るのはそのあとでいい。斬るより突くほうが速いのだ。

本当の勝負の場合は、身体で相手のふところに入りこむ。勇気というのではない。飛びこんだ相手のふところの内が極楽である。地獄に飛びこむのではない。

恐ろしいという思いを捨てて、そこに入れば勝つという思いを心に持つ。この境地にならなくてはいけない」

「合気は力を入れてはだめだ。力は抜くが気は抜かないのだ。お互いにやって、頑張り合うと、これは出来るはずがないと思ってしまうでしょう。ところがこれが出来るのだよ」

体捌きのご注意で、

「体をかわすのが早いと相手についてこられてしまう。突きなんか自分の皮膚に触れてからでも間にあうでしょ」

と言われたことがありました。このとき、やっと自分が突いた拳の先が先生のカーディガンに触れた理由が、これだと分かりました。

> 「合気の技は純粋な技術で、宗教性、神秘性などはまったくないのだ」

「 合気  心ニ至レバ  我ナク人ナク生モナク死モマタナシ 」

 

 

‥‥ 「合気」で投げられることは不思議な体験だそーで、投げられた方は徐々に身体が強くなり、その後投げられにくくなるのだそーだ(佐川先生談)

あるとき先生が、「彼を強くしよう」といって彼を

何回も投げ始めた。一週間くらいたつと、先生以外、彼を倒せる門人がいなくなってしまった。

体の密度が上がり、芯ができて崩れなくなってしまったのだ。

‥‥ そんな合気を、おそらく密教の気合術をヒントにして身につけ、わずか一代で実戦でつかえる処まで発展させた武の偉才・武田惣角は、幕末最強の武人にふさわしかろー

たしか素手の当て身を探求する場合でも、わざわざ当時の沖縄にまで「武者修行」で渡って、現地の名人から学んでいる

[※  沖縄の地で、惣角師が琉球唐手の達人から「二段蹴り」を喰らったとの言い伝えがあり、その達人とは、「本部の足蹴り」の異名をとった本部御殿手古武術第11代宗家の本部朝勇(1857-1928)師ではないかと推測されている]

剣の卓越した武技、長物(槍・薙刀)から小太刀から素手の組討ち(体術)まで、あらゆる武器をつかいこなし、瞬間催眠のよーな行者の気合術もマスターして、忍術までこなした上に、独創的な「合気」を創始した、稀代の「武」の達人である

 

宮本武蔵も、二階堂主水の「心の一方」とゆー「不動金縛りの術」に似た心法には要慎して近づかなかった、警戒して避けたのは、武蔵自身が「縮みの術」をつかったからであろー(気合で威圧して追い詰めることが出来た)

武者修行者に必須のたしなみとは「手裏剣」であると聞く、それで野山の小動物を狩って、食糧を手に入れる為に必要な飛び道具なのである、手裏剣術を修得した達人は数多い

惣角翁も、昔ながらの武者修行者の典型で、旅の空に暮らし「非日常」の中に身をおいて技を磨いたものかも知れない

 

伊勢白山道の霊視では、人を多数あやめた宮本武蔵はアノ世で苦しんでいるのに対し、ほとんど人を殺していない、殺さないよーに配慮した惣角翁は、鬼神界にそのまま戻っていると云ふ

武田惣角は、これだけの達人であるにも拘らず、おのれが大成した武術の「宗家」となろーとは決してなさらなかった

そのへんに、武を極めた者の潔さを感じてならない

はてさて、そんな闘いの連続であっても、充実した面白い人生だったのであろーか?

 

昔日の「武者修行者」は、こんな心得であったのか、佐川先生が云っておられた

「何でも教わろうというような弱い精神では教わっても覚えきれなくなって忘れてしまうのだ。

自分で開拓しようという気概に満ちている人が、教わったことを生かせるようになる。心構えが違うのだ」

‥‥ 達人技は、今後修得する人が少なくなるだろーか?きょうのニュースで、ボストン・ダイナミクス社の二足歩行の人型ロボット「Atlas」がバク転するのを観た

AIで学習しながら(失敗を繰り返して)その動作を覚えるそーなのだが、ロボットが只歩いている映像や斜面でからだを支える姿勢には強く惹きつけられた

何か気のせいか、達人の佇まいなのだ、最小限の力でバランスを保って歩くとゆープログラムは、達人に要求されるものと相似ているのかも知れない

猿渡哲也『TOUGH〜龍を継ぐ男』でも、AI搭載の人型戦闘ロボット兵器「トダー」が出てきて、修練を積んだ古武術の達人がまるで歯が立たないシーンが現出するのだが……      痛みのない、身体を考慮しない戦闘マシンは如何にも怖しい

果して、AI が達人の体術をマスターできるのか、武術の歴史を考えると興味は尽ない……  私見では、達人の無意識で行なう、骨や筋の濃やかな操体は、到底剛体(鉄や合金の体)では成しえないと思っている

達人の一挙手一投足は、宇宙の真理を体現しているものだと思いたい

         _________玉の海草

 


  「書」 でわかる 「悟り」 の境涯〜 墨蹟を観る心の眼

2021-08-15 02:52:05 | 「書」入木道

__最近は、「達筆」とゆーほどの書には、とんとお目にかからなくなった

テレビ画面に時々大きく映される、たとえば「防衛省」の看板の筆字…… ありゃ酷い、素人の小学生レベルかと存ずる

 

書道の手習が大人の嗜みであった時代は、少なくとも水準以下の自分の書を世間に出さないだけの慎みがあったものだ

筆字は、書くひとの修練とスキルが如実にあらわれる伝統芸術であろー、看板に書くのは一際難しい

もっとも、現代書家と呼ばれる輩も、ただ珍しい形(ロゴ・デザイン)や筆致(人工的なカスレや染みの濃淡等)を求めるあまり、古典における品格もなく、迫力にも濃やかさにも欠ける

 

いわゆる「自由な書(❓)」がもてはやされる風潮に便乗したよーな基礎鍛錬の出来ていない書家が多いよーに感じる

昔の、たとえば昭和の時代のテレビ時代劇では、独特の書体(オリジナルの書体)を持った達人が、出演キャストの人名クレジットを書いておられた、実に味のある書体で統一されたエンドロールやオープニングロールは見事なものであった

 

いまはNHK大河のタイトルであっても、感心しない変な字体(レタリング)と筆遣いの書が目白押しである(特に若手がイビツな字形に走りやすい)

かえって、『真田丸』のよーに、左官職人が一気呵成にモノしたコテの書の方が、自然な風韻を湛えて心地よい

 

 

__ ちょっと「書道」の始源に遡ってみたい

書家の誰もが「書聖」と崇める人物といったら…… 

中国の東晋王朝の名門で、老子と同じく高級官僚だった

王羲之(おうぎし、303〜361)であろー

王羲之から連綿と地下水脈のごとく伝承され、はるばる大陸を訪れた 

空海(774-835) の御手に大切に手渡され、

伝わるべき人に正しく伝授された中華文明の御宝以上のモノ…… 

王羲之…… 智永和尚…… 唐の虞世南・褚遂良・欧陽詢・顔真卿……

陸彦遠…… 張旭・徐浩・徐◯(王+寿)…… 韓方明…… 空海…… (嵯峨天皇・淳和天皇)

それが、今では書道と呼ばれている『入木道(じゅぼくどう)であった

[※  但し、福島県の『うつくしま電子事典』によると、

入木道とは東漢の学者・蔡邕(さいよう)の霊地で、仙人より伝えられた書法が始まりだといいます。

 

この呼び名は、王羲之が墨で字を書いた祝版(神祭りの祭文を書く板)を、工人が削ってみると、なんと墨が三分(約9mm)も木の内側に染みこんでいたとゆー王羲之の筆力の強さを物語る「入木三分」の故事に由来するものである

 

尊円親王が著した『入木抄』(1352年)より

「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」

訳;昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない

 

‥‥ この『入木抄』を解釈した書である、

橘行精『入木抄釈義』の巻末には、入木道相承の系統図が示されている

その中で、特に丸印を付けられた人物が五人いる

・空海〜

・藤原行成〜 (この御仁の和様には惚れ惚れする)

・持明院基規〜

・青蓮院宮尊円法親王〜 (新陰流の剣豪・丸目蔵人は「青蓮院流」の能筆だった)

・清水谷一流祖集材〜

 

この流れを汲み、入木道五十三世を継いだのが、無刀流開祖・山岡鉄舟である

『鉄舟偶語』の中から、自身の筆法を述べた条りを引用すると

>唐・韓方明より釈僧・空海入唐して直伝を受たる十二執筆の法なり、

幼年の頃、古伝統五十二世飛騨国人・岩佐一亭に従ひ学ひたれとも、書は尤拙し、然れとも数年かきなれたる処ありて、

【 天地萬物 悉く皆 一筆に帰する 】 

処を発明す、

故に終日幾万字を書すれとも、曽て労せす、倦さるあり、

…… 師の一亭は、若き鉄舟(当時は、橘氏系の小野高歩.後に山岡家養子)に以下を授ける

「大師伝来十二点」

「永字八法」

「永字七十二点」

「変体附法(八分書点画、草行楷点画)

「篆書法(別梵字之書法)

 

鉄舟は、王羲之の『十七帖』を特に尊んだと伝え聞くが、習い始めは「一」の字ばかりを三年只管(ひたすら)書き続けたとか…… 

 

真摯な神道家でもあった、明治の政治家にして能書の副島種臣(蒼海)に似たよーな習字法がある

全心の書 】 とは、副島が習字をしていた使用人に次のように語った逸話に基づく。

「まず全心をこめ、これより遅くは書けないというくらい遅く最初の線を書く。

その後も気をこめて出来るだけ遅く書く。

構成や間隔は考えるな。

そうやって修業を積めば、曲がっても筋の通った書になる。」

 

‥‥ 山岡鉄舟は、書・禅・剣の三位一如であったから、

鬼鉄・ボロ鉄と称された剣のモーレツ修行よろしく、毛筆の修行も参禅と並行して徹底して行なった

 

その正統が、谷中の全生庵(安倍元総理も坐禅に通った)で、「筆禅道」とゆー形で伝承されている

 

惜しまれてならないが、物故なされた寺山旦中居士がやっていらした「筆禅道(横山天啓翁の命名)」の修行道場があった……    寺山さんは、酒田の南洲神社にも西郷さんの真筆を御覧になるためにお越しになったことがある

【左の和服姿の人物が、書仙と称された横山天啓(雪堂)翁。右の人物は、水平社の行者・栗須七郎。

山形県生まれの横山は、福島県生まれの龍禅子・張堂寂俊(入木道正統四十六世)に師事した。

背景の「神人不ニ」の墨蹟は横山の一行書、なんとも大らかにして凄まじい】

 

【明治40年に、比叡山の北泉藻誉上人から「入木道」の口秘を伝授された張堂寂俊老師。山岡鉄舟が伝承した入木道とは異なる系譜につらなるが、入木道の正統伝承者。一子相伝ではないからね、色々な連枝がある。

「心を水の如くせよ。心を無心に岬を去る雲の如くせよ。然らば書は自ら自在なり」(龍禅子🐉)

【龍禅子・大龍と号した張堂寂俊の自由自在な書】

 

 

【寺山旦中居士による、「入木道」の「無字棒(一本線)」の練習。入木道では、横一文字(横棒)ばかりを三年練習しつづけるが、寺山の筆禅会では、対角線の一の字を書き続ける】

【寺山旦中、「心外無法」「天下第一峰 富士山🗻」の書画作品】

 

 

 

墨気(ぼっき)の冴えとか、筆運びにあらわれる禅機とか、通常の習字法の観方とはまったく違った観点から発される、寺山さんの「書」評は独創的なもので、古人の達人ぶりを今に伝えている

> この書(最澄『久隔帖』)を見て

第一に気付くのは、清澄極まりない墨気と、格調の高いその風姿である。スッキリとしていて、隅々まで心がゆきとどいている。筆端が活きていて、一点のスキもないのである。少し単調だと言えば言えないこともないが、そこがてらうところの微塵もないところで、基礎に最も適すると思うのである。わずかでも気どりや、はったりのあるものでは、基礎には不適当である。

清い風韻は古今随一で、品格の高いその風姿は、「集字聖教序」にそっくりである。最澄が「集字聖教序」を習ったことは、この書風や、奈良時代の手習が羲之の書を尊重したことなどからして、まずまちがいない。「集字聖教序」の肉筆が、もし現存したら、恐らくこのような線質を有するものと思えるのである。

たいていは、こういう品格の高いものは、初心者には無理だから、もっと容易なものをやれというが、初心者こそこういった癖のないものをやるべきなのである。学び易いからといって癖のあるものをやると、一度ついた癖を除くのは大へんだからである

[※  寺中旦中『筆禅道』参学名品より]

 

宮本武蔵『五輪の書』に云ふ、「観の目つよく、見の目よわく云々」とゆー消息でありましょー

ちなみに鉄舟も、書を習う初学者から、最初のお手本は何にすべきかと訊かれて、「まよわず第一等のものに参じなさい」と王羲之を薦めたと聞く

 

ここで、鉄舟を深く崇敬して「高歩院」(「高歩」は鉄舟の名より)を建立なすった大森曹玄老師にご登場していただこー

大森師は、かの天覧兜割りの剣客・榊原鍵吉の後継者・山田次朗吉から、直心影流を学び、その正統を継ぎ…… 

禅は、天龍寺の関精拙・関牧翁両師から(滴水下の)臨済禅の印可をうけている

花園大学の学長もつとめられた大森師であったが、『剣と禅』『書と禅』とゆーシンプルなタイトルの名著もモノしておられる

特に『書と禅』(春秋社刊、1973)のなかで、禅匠の書(墨蹟)が一風変わった特徴を持つことを、割と科学的アプローチでもって証明なさっている

禅僧の墨蹟は、「境涯の書」と呼ばれ、現代書道では傍流あつかいでまったく芸術的に評価されていないが…… 

よく出来た 墨蹟の墨字を、電子顕微鏡で約3〜5万倍に拡大して見ると、その粒子が規則正しく整列してあることを突き止めた

なんの力によるものか、実際に大森師の書籍にはその電子顕微鏡の写真が掲載されてある

禅僧の禅定力が、分子配列に影響を及ぼすとゆーことになる

実例として、山岡鉄舟は49歳で大悟徹底されたが、それを期に書風が一変されている、悟る前と後とでは素人がみても違いがハッキリと判る

 

ここで、寺山旦中/角井博『墨跡の鑑賞基礎知識』(至文堂刊、2000)より、寺山居士の観る処にも耳を傾けてみよー

> (鉄舟の真筆と贋筆の電子顕微鏡写真を見較べて)これを観ると、本物の方は墨汁の粒子が生きた立体的構造のように感じられるが、偽物の方は雑でバラバラに感じられないだろうか。

> ‥‥ 書の墨は、炭素という極めて鋭敏な物質が主成分ゆえ、作者の人体エネルギー(これをといってもよい)の程度により、墨汁の粒子が活性化されると思われるからである。

その人体エネルギーの強弱、清濁、精粗によって、炭素粒子が微妙に反応し、墨気に迫力・清澄・明朗・深厚・幽玄・高雅・尊厳・温潤・崇高等の美観を呈するのであろう。

ゆえに書は、三千年来他の物質に代ることなく墨を使用し、しかもそれが古いほどいいなどと言っているのである。古い方がニカワが枯れて、炭素が純化する為であろう。

最近は墨磨り機なるものまで開発されたが、やはり人間の手で磨る方がよいというのは、これ又人体エネルギーに係わる問題だ。そんなことが今日、次第に科学的にも解明されつつある。

[※ 『人体科学』第3巻第一号、平成六年五月、「書のサーモグラフィによる一評価」町好雄参照]

 

‥‥ その良き墨蹟とゆーものは、素人の眼でも長い間眺めていると自然に感じるものらしい

たとえば床の間に掛け軸を吊るして、一年も眺めていれば、その妙味がはっきりと分かる、飽きないのだ

汲めども尽きない魅力を肌で感じるといったらよいか、例えば白隠の「棒」や「南無地獄大菩薩」などの禅機に溢れたドギツイ書は、床の間に掛けると「息が詰まる」ほどの圧力を感じて、普通の人は掛け続けられないものだと聞く

白隠の禅画は、ジョン・レノンも自宅の和室(「白隠」を迎えるために特別拵えした部屋)に掛けて、「イマジン」などの名曲のインスピレーションとなったとは有名な話だ

ある日曜日、湯島の店を任せていた娘が自宅に走ってきたという。

店にジョン・レノンとオノ・ヨーコが来て、浮世絵を見たいといっているという。

もちろん、木村はレノンの何たるかは知らない。程度の悪い北斎でも見せる積りで自宅に招くと、入り口の床の白隠の達磨図を見て動かない。

売って欲しいという。値を云うとかまわない。

二階に通すと、曾我蕭白を見て、また欲しい。ついでに仙崖も。そして芭蕉の短冊をどうしても譲れという。

俳句なんか分からないだろうといってもきかない。

負けて譲ると、ロンドンに帰ったら、この軸のために日本家屋を建てて、これを架けるから、御願いだから悲しまないでくれ、とジョン・レノンは木村東介をかきくどいたという。

こうなれば、下手な日本人に売るよりよい。

レノンに頼まれて、別の店に連れていく途中、時間があわないというので、歌舞伎座に寄ることにした。

演目は、歌右衛門と勘三郎の隅田川。もっと派手なものがよかったのに、と思っていると、ジョン・レノンは滂沱の涙を流している。

東介は、レノンを歌右衛門の楽屋にともなって紹介した。

「英国のビートルズの首領、ジョン・レノンが来て、貴方の隅田川の演技を見て感極まり、是非紹介してくれというので連れて来ました。一目会ってやって下さい」(「ジョン・レノンと歌右衛門」『不忍界隈』)

この時、購入した白隠の『遠羅天釜(おらてがま)』の直接的な影響のもとに作られたのが、名曲『イマジン』である。

[※  福田和也『日本国怪物列伝』〜木村東介〜「ジョン・レノンの涙」より]

人物紹介;木村東介(19011992山形県米沢市生れの美術商、東京湯島の「羽黒洞」店主、ジョン・レノン夫妻の来店は1971年の出来事。

 

禅定力のある高僧の墨蹟には、それだけの力が潜んでいる

この消息は、仏像も古いものほどシンプルで神品であるし、刀剣も古いものほど神韻縹渺たる佇まいを纏うものらしい

古人は純粋な志しをもち、入神の技を無心で発揮するからであろー

書の名品は、茶道でも珍重されるが、「侘び茶」の嚆矢たる

村田珠光は、臨済禅の一休さんの下に参禅なされて印可の証として、墨蹟『流れ圜悟(えんご)』を譲り受けた直弟子である

茶の湯の千家では、大徳寺(一休さんの寺)で参禅修行するのが通例であるよーだ

 

圜悟克勤(1063〜1135)は、禅宗五祖法演の法嗣で公案集『碧巖録』を著した中国宋代臨済宗の傑物である

茶の道では、曰く付きの『流れ圜悟』『破れ虚堂』(虚堂和尚の墨蹟)は、茶掛けの掛軸の双璧である

ほかにも禅僧の墨蹟で重宝されるのは、大燈国師や白隠(ともに毒々しいまでの太字)、良寛や蓮月尼(ともに細字の高手)、

一休宗純や慈雲飲光も異彩を放っている

現代では梅林僧堂の三生軒や香夢室、山本玄峰や足利紫山、加藤耕山などの叩き上げの老師方が居られる

 

【さすがはご皇胤と云われる一休宗純。「諸悪莫作 衆善奉行」の造形・筆捌きともに凄まじい禅機にあふれている。この奔放すぎる筆致は習った字ではないだろうと見られている。】

 

【慈雲尊者とうやまわれる、別格の仏教者。「不識」「南無仏」、破格の書であり、一目で慈雲飲光と判別できるオリジナリティあふるる書風】

 

【白隠の、大迫力の「南無地獄大菩薩」「棒」】

 

【梅林僧堂の護法鬼、三生軒の豪放な書

東海猷禅玄達老師(三生軒) Yuzen Gentatsu(1841〜1917)

【三生軒から嗣法した香夢室の、綿密な書】

 

【私の禅は、この山本玄峰老師に始まる。「玄峰塔」は絶筆である。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」の詔勅の一節は、鈴木貫太郎(総理)閣下が玄峰老師の言葉を忍び込ませたものらしい。幼い頃から苦労の人であった。】

 

意外にも、鈴木大拙や西田幾多郎 も良い墨蹟を書いたらしい、学者ながらきちんと本格の参禅をなさっているからね

 

 

墨蹟とは、一般に禅の書なのだが…… 

墨蹟の最高峰となると、文句なしに真言宗の空海さんなのだ

道元さんも日蓮さんも、素晴らしい風格の逸品なのだが、「三筆」の空海さんと較べることは敵うまい、ひとり最澄さんの静かで謙虚な書風のみが匹敵するくらいであろーか

空海の書は、現代書道家からも最高評価をうけている、いわばオールマイティーな、無敵の能筆なのである(空海は、顔法=顔真卿・ガンシンケイ=顔儒に所属する顔回の子孫、も大好きで取り入れている♪)

伊勢白山道のリーディングでは、書聖王羲之は老子の転生因子を持ち、空海はその王羲之の転生因子をもつ

[※ たしか王羲之『十七帖』の中に、丹薬(仙人になる薬、水銀か?)を常用していたとの記述がある、ご長男には、王玄之と名付けておられる

道教の煉丹術は唐の時代にも大流行していて、第十二代皇帝・憲宗は、丹薬の副作用で命を落としている

一方、空海も「丹生(にふ)=水銀」とは極めて縁が深い、高野山結界七里の霊域は、すべて巨大な水銀鉱床の上にある、お大師さんの晩年の皮膚病は、鉱毒(水銀中毒)によるもので、病死されたと診る向きもある

因みに、空海開山と伝わる、出羽三山奥の院の湯殿山も水銀鉱床の上にあり、かの「即身仏」のミイラ信仰は湯殿山独特のものである]

若き日の私は、王羲之の真筆がもはや存在していない(唐の太宗皇帝が亡くなるときに、愛蔵の真筆を自らの柩の中に入れさせた為)ことを、心から儚んだものだったが…… 

上野の国立博物館で、空海の書に対峙したときに、まちがいなく王羲之の風韻を身体全体で感じて震えた

「入木道」は、空海さんを通して漏れなくまるごと日の本に伝えられたのである

 

入木の伝承者、唐の虞世南の楷書を、槍の名人・高橋泥舟が裂帛の気合をこめて臨書したものが、王法の楷書の臨書手本として最高峰のものらしい。

【非の打ち所がない、泥舟の楷書】

【江戸っ子の代表的人物、高橋泥舟の枯淡で風流な筆遣い】

 

あの、枯れ枝が這うよーな、独特の筆遣いをみせる泥舟が古式に則り一点一画揺るがせにせずに筆を振るった楷書は、すこぶる王道にかなった神品であった

王羲之の精神といおーか、スピリットが老荘の道教の深奥と同源だとすれば、それが書にあらわれても不思議ではない

新約聖書にキリストが砂浜に字を書いた記述があり、キリストの墨蹟も見てみたいと切に思う

やはり、そのひとならではの屹立した境涯が反映された書になることだろー

陶芸の加藤唐九郎や、板画の棟方志功、右翼の頭山満翁(慈雲尊者と似ている)や八極拳の劉雲樵(中国人)などもよい

 

【棟方志功の堂々たる書、「乾坤一掃」】

 

【頭山満「敬神」】

【西郷南洲の遺志を継ぐ志士、立雲☁️・頭山満翁の破格の書、「敬天愛人」】

 

【八極拳の神槍・李書文の最後の弟子・劉雲樵老師の、あまりにも達筆な書】

 

一休さんの純粋無雑な「一」の字は、さすがは天皇のご落胤と思わせる風韻があるにしても、またいくら白隠の如く波瀾万丈すぎる境涯をおくったとしても……  「境涯の書」とゆー意味では、到底弘法大師・空海には遠く及ばない

つまる処、人間が手の延長で筆をつかい、自らを露わにしたものが、書画とゆーことになろーか

中国の修行者で溢れる一山の禅道場で、何千人もの僧を束ねる長者を選ぶのに、目の前を歩かせてみて決めたとゆー逸話が遺っている

その宗教が宇宙の真理につながったものであるならば、その宗教にもとづいた身体の動かし方が存在するのは最もだと感ずる

ならば、その手の筆遣いが宇宙の真理を体現することもありそーにも思える

不思議なことに、墨とゆー液体はその波動に反応するといえるのかも知れない

書道は、かたちに囚われなければ、存外に奥深いものである、面白い手遊びであることは確かである

手遊びとはいうものの、天地人照応させて行なう全身全霊運動であることは確かである。

生涯をかけて磨くに足るものであろう。

ゆめゆめ手の先だけの「書」とならないように。

         _________ 玉の海草

 

 


中国史上、もっとも愛された日本人は?

2021-08-13 18:42:47 | 卓球

_「歴史上」と大上段から構えれば、唐の玄宗皇帝から重用されるあまり帰朝できなかった阿倍仲麻呂や、中国人弟子3000人の頭を越えて恵果阿闍梨から奥伝授された弘法大師空海とか浮かんでくるが…… 

「日出処天子より」と堂々と国書を送った聖徳太子は、礼を弁えぬ者として毛嫌いされているし…… 

鎖国が廃止された近代でも、中国はイギリスとの「阿片戦争」にボロ負けして冴えない有り様で、日本から満州国を造られた昭和時代にも、そんなに愛された日本人は見当たらない

当時は斜陽の中国であっても、日本人の中華尊重の気持ちは変わることなく、『三国志』などに顕れる「漢気(おとこぎ、侠気)」は隣国K国には見られない特質だし、老子や孔子、朱子や王陽明などの深淵な哲学も日本人好みの奥行きをもっていた

そんな大国の伝統を引き継いで鄧小平氏は、日中国交正常化の功労者・田中角栄氏の病床にお見舞いに行って、変わらぬ謝意を表明したが、田中元総理が特に中国国民から愛されているわけではない

日本人も毛沢東はともかく、周恩来首相あたりまでは敬意を抱いていた

名作『大地の子』で、中国残留孤児を通して日本と中国の付き合いを深く見つめた、骨太の作家・山崎豊子女史は、当時の胡耀邦総書記から大いに励まされ全面的な支援を受けていたと聞く

まー、個々に親密な付き合いはあったが…… 中国全国民を巻き込むよーな人気を得た日本人はいなかった、例えばハリウッドで初の東洋人スーパー・スターとなったブルース・リーは、日本人男子からも信仰と言っていい程の崇敬を集めたものだが、中国でそんな注目を集めた日本人はいなかった、彼女を除いては!

そー、「泣き虫愛ちゃん」こと、卓球の福原愛選手のことである

 

これから述べることは、冗談抜きに「愛ちゃんの偉人伝説」である

 

ー卓球は中国にとって単なる「国技」にとどまらない

世界戦略の一環を荷うものなのである

そんな中国を脅かす、「ハリケーン・ヒラノ」こと平野美宇ちゃんや、「大魔王・伊藤美誠」……

彼女たち卓球女子の黄金(ミレニアム)世代と呼ばれる逸材たちが、いま次々と輩出されるにいたっている、その道スジをつくったのは他ならぬ「泣き虫愛ちゃん」福原愛のテレビ報道である

真のフロンティア、先駆者たる愛ちゃんの、中国留学つまり中国超級リーグへの参戦もまた華々しいものだった

全身を使ってしゃがみ込んでサーブに烈しく回転をかける、愛ちゃんの「王子サーブ」は、居並ぶ中国の達人たちをも瞠目させるデビューであったと聞く

当時の抗日・反日感情はいま以上の激しさだったから、愛ちゃんは試合中にものを投げ入れられたり、猛烈に野次を飛ばされたりもしたらしい

しかし、持ち前の芯の強さと謙虚さで、おなじチームの先輩世界ランカーからも可愛がられ、メキメキと実力をつけていった

並行して、中国人への理解度を深め、ことばもちょっと田舎っぽい郷愁めいた東北地方の方言(遼寧省)を完璧にマスターなさって、驚くほどチームに溶け込んでいった

愛ちゃんの中国語は、ネイティブの発音であり、東北地方訛りのあたたかい響きをもっていて、本場中国の方々もほっこり癒されるものらしい

__あくまでも中国における「東北地方訛り」だが、日本での愛ちゃんのお生れも、秋田(父親)と宮城(母親)のハーフで杜の都・仙台生まれ、生粋の東北人である ♪

大富豪から求婚されたり、99本の薔薇を贈るファンがいたり、信じられないことに地元の中国選手以上に人気があったのだと言う

 

フー()ユアン()アイ() ”、これが愛ちゃんの中国語読みの呼び方で、ほかにも……

> 中国でのニックネームは「ツーワーワー・瓷娃娃」(陶磁器のお人形の意味、肌がきれいな事から)「シャオアイ・小愛(愛ちゃん)、「アイジャン・愛醤」(日本語の音から、愛ちゃん)。

‥‥ まーとにかく、中国人好みの容姿(色白ぽっちゃり)なのだとか

いまや世界的女優コン・リーも、デビューのきっかけは山口百恵(中国では彼女の「赤いシリーズ」が放映され人気を博していた)に似ていたからだと聞くが…… 

愛ちゃんは、容姿だけでなく人柄でも中国の人びとを惹きつけた

リオ五輪金メダリストで世界ランキング一位にもなった丁・寧選手に昔、超級リーグで競り勝ったことがある

そのときのインタビューでも、丁寧選手は緊張していたし、勝てたのは偶然だったと、いたって謙虚なコメントで、卓球好きな中国人のかたがたの気持ちを逆撫ですることなく、一挙に鷲掴みにした

ネットでよく目にする、福原愛が、日本の総理大臣だったら、日本と仲良くできるのに…… とゆー発言は決して戯れ言ではなく、中国人の唯一心を許せる日本人、多くの庶民の本音とみてよいだろー

> 20082月の第49回世界卓球選手権団体戦では、【福原愛 永遠支持】と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、……

> 2010年に胡錦濤国家主席が来日し、親善卓球を行った際も、胡主席は福原に

「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけたほど。

> 元来日本には辛口な中国ネットユーザーたちも、愛ちゃんには目を細める。

「彼女を見てると本当に癒されるんだよ。彼女は日本の選手だけど応援してる。」

「彼女は半分中国人のようなものだと思ってる。彼女は中国にリーグにも参戦したことがあるし、中国のコーチに師事したこともあるからな。」

「彼女は中国の卓球の実力を認めてくれていて尊敬もしてくれてる。だからこそ彼女は中国に来て修行までしたんだよ。俺はそんな真面目で頑張り屋な彼女が大好きだ。」

[ 引用:卓球バカ製造ミルク工場- サイト『卓球ニュース・球ニュー!』より]

‥‥「福原愛永遠支持」なんて、どーせその時の勢いだけだろなんて思っていたら、今回の離婚騒動でその真意がはからずも露わになった

信じられないことだが……   中国では、なにがあっても「福原愛全面支持」であるよーだ、愛ちゃんを貶めるよーな論調はほとんど見られなくて……   台湾訛りの中国語は愛ちゃんに似合わないだとか、台湾でいじめられていたとか、愛ちゃんが台湾から私達のもとに帰ってくる ♪とか…… 

「(中国)国民の妹」、愛ちゃんは間違っていない、何故日本のメディアはそんなに愛ちゃんを虐めるんだと断固愛ちゃん支持の姿勢を貫いている、このへんは日本人とはかなりかけ離れた愛着心が見られる

中国人は、一度心の奥底まで受け入れた人に対しては、徹底的に守り信頼するとゆー一面がよく出た場面だと思う

「国民の妹」とは、裏返せば、保護の必要な存在、自分より低い立場にいる事を物語るものだし、実際愛ちゃんは中国卓球を尊敬して直接学びに来た感心な日本人だが、中国卓球選手を破るほど強くない処も気に入られている一因であるらしい

もし愛ちゃんが、美誠ちゃんのよーに中国卓球の強敵として立ちはだかるよーだったら、やっぱり「日本鬼子(日本人への蔑称)」になるよと言っている中国人ファンも実際にいる

昔、卓球部だった者としては、愛ちゃんのフォアハンドのフォームを観ていると、実に美しいと感じる

最近では早田ひな選手のパワー・ドライブもダイナミックで目を惹く

ひな選手は、元卓球選手だった親を持つよーな、家庭内に卓球台があるよーな環境にはなかったが……

美誠選手、美宇選手、カスミン選手は皆、母親が卓球選手で幼い頃より英才教育を受けて成長なすった

この、24時間卓球漬けのスパルタ教育のモデルは、愛ちゃんと彼女のご母堂にほかならない

みんな、愛ちゃんを目指して幼児期より鍛錬してこられたのが、いま実を結んでおられるのである

愛ちゃんこそ、「卓球日本の復活」の狼煙を上げて、おん自ら率先して未知の領域に挑んだ、最大の功労者であり稀有の女子アスリートである

 

古くから中国で愛された日本人は歴史上幾たりかおられました

しかし、実際の数において、膨大な中国ネット民が「反日感情」の足枷をはめられて尚、愛ちゃん=フーユアンアイを熱烈に応援する、この空前絶後の人気ぶりは、歴史に刻まれる価値のある偉業とはいえないだろーか?

[※  『ウェイボー』における、愛ちゃんのフォロワー数は500万人以上である]

SNSでは、「愛ちゃんはもう中国人だよ」と言われるほどに、愛ちゃん礼讃者が多い

北京オリンピックへの強力なオファーも受けているらしい愛ちゃん、軸足を日本や台湾から中国大陸に移すつもりかも知れないな

         _________ 玉の海草


 「自分の夢中」 を喪ってから現れる…… 自分との対話

2021-08-11 18:58:30 | 小覚

オリンピックが始まる前は、朝のニュースでメジャーリーグの大谷選手の活躍を観るのが楽しみだった

オリンピックが始まるや、毎日のよーに更新される金メダルが決まった瞬間に一喜一憂している自分…… 

さて、つまらない閉会式で余韻に浸るわけにもいかず、とうとう地元開催のオリンピックが終わってしまった

予想はしていたが…… 終わってみれば、御コロナ様の感染爆発が残るのみ、それどころかお盆に向かってまだまだ増え続けている

オリンピック・ロスと御コロナ感染者数過剰が一挙に押寄せてくる

周りに一喜一憂してばかりの今、「そこに愛はあるんか?」

いや、「そこに自分はあるんか?」

 

(拙稿)> 以前放送された、NHK『戦後70 ニッポンの肖像プロローグ』の中で

コメンテイターのお一人・タモリさんが、云われていたのだが

高度成長期の風潮だった “ モーレツ(社員) ” のかげに潜む、日本人の心象とは

>タモリ 「 仕事してる、(それを)やめると自分のことを考えなきゃいけないと云う恐怖があったんじゃないかと思うんですけどもね。」

司会 「えっ、どういうことですか?

タモリ 自分との対話というのは、一番人間にとって辛いものですから。

それやめて、仕事に外に向いとけば、なんとなく格好つくし

仕事してる奴に向かって、誰も非難できないわけですからね。」

 

‥‥  大学の安保闘争や反戦のフォーク・ゲリラなどに、のめり込んでいたのは、私らの上の世代(団塊の世代)なのですが、

その世代のタモリさんは、それを「重い」と感じておられたよーです

「意味の連鎖」とゆーものは重いと

だから、言葉を解体し、コミュニケーションを解体しよーとしたと

『天才バカボン』の赤塚不二夫もまた、ナンセンス・ギャグ漫画でそれをしよーとなされたと

徹底的に「無意味(ナンセンス)」なものを提示し続けたのです

しかし、国の安全や反戦などが「重い」ものであるからこそ

それに打ち込み、【自分を忘れさせる】ことが出来たのです

自分に向き合わずに、外に現実(うつつ)を抜かすことが、その時代は可能でした

しかし、「オイル・ショック」を経て、「プラザ合意」後押し寄せた「バブル」の波に呑まれた頃の日本には

そんな、自分を忘れさせる対象は最早無くなっていたのです

その隙に、「オウム真理教」などのカルト宗教などが入り込んだのであろーと彼は見ておられました

 

この根本的な図式

自分に向かい合わずに、周りの外に向かって、自分を忘れてのめり込むとゆー構造

いつの時代も、いまの中国や韓国でも全く同様だな~としみじみ歎息してしまいました

「伊勢白山道」における、内在神と外在神とに相当します

『過去から未来へ向かって生まれた自我』は、

重大(らしき)事を自分に引き寄せ肥大化し、本当の自分と向き合う内省にその場を決して譲りません

「今」を生きる「今」に没入する自分にとっては

過去から未来に向かって積み上げられた成果(排泄物)に、どれほど意味がありましょー

しかし、四六時中「今」に没入していたら

傍目から見て、狂気を孕むことになりはしまいかと危惧する処はある

そんな自分を静観することが、社会性を保つ最後の砦なのかも知れない(「離見の見」ですね)

 

‥‥ あるブログコメントは、今に没入することに「自我の死」を観ます。

> 自我の思考にとって「今」は脅威でしかない。

なぜなら、

「過去から未来へ向かって生まれた自我」にとって

「今」に生きる事は、死を意味するから。

今に「没入」するという言葉には、自我という思考の死んだ状態を思う。

 

…… たぶん、過去→現在→未来という時間感覚は、学校で学んだ年表から来るものかも知れない。歴史の時間軸を設定するのは、やはり科学だろうか、つまり合理的に考えればそうである

しかし、日本文化の伝統では、時間は未来から現在(今)に流れてくるものらしい。

川の流れに屹立すること自分を想像してもらえたら分かり易いと思うが…… 

未来の出来事(場面)が、上流から流れて来ては、いまの時点で目の前に現れる。過ぎ去った出来事は、自分の後ろに流されてゆく

この川の流れが、時間の感覚になる__ つまり、上流(未来)から下流(過去)に向かって流れるということになる

自分は止まっているんだよね、芭蕉だって「月日は百代の過客」って言って、自分は動かなくて 時間が旅人(過客)となって動く のです

 

インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンダ(ヒンドゥー教の非二元観)のジュニャーニ(賢者)であるニサルガダッタ・マハラジは、

 ・  過去は記憶   

 ・  未来は期待

と云った、肉体意識に伴う記憶が過去の正体だと

「現在を過去と一体化し、それを未来へと投影するため」に、「人格」とゆーものが立ち現れると


> 自分自身を過去未来もない一瞬のものと考えるなら、そのときどこに人格があるだろうか?
これを試して、自分自身で発見しなさい。
[※ 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』より]

 

‥‥ オリンピックで活躍しているのは自分ではないと、

メジャーリーグでホームラン争いの先頭に立っているのは自分ではないことをよく見つめる必要がある

他人への心的委託(依存かな?)は、自立の放棄である

熱中や崇拝が終わった後に、いまの自分がはじめて見える

わるいことではない、「うつろい」であり「もののあはれ」であり、今に生きる日本的霊性(鈴木大拙)である

やっぱ、自分のアイドルは自分でなければ面白くないんでない

他人にうつつを抜かすより、自分を好きになること

大好きな自分であり続けることかとひそかに思う

                                      _________ 玉の海草

 

 

 

 


❌ 「感謝です」 じゃないでしょ…… 知らんけど

2021-08-08 14:44:20 | 日本語

__日本女子レスリングは、あいも変わらず凄い

向田真優選手も、須崎優衣選手にしても、決勝戦は中国選手が相手で、圧倒的に試合を進めて金メダルを獲得した

卓球の仇をレスリングで取った形で、私としても万巻胸に迫る思いがある╰(*´︶`*)╯♡...ハッピーハッピー

 

須崎選手の優勝後のインタビューがまた快かった

「今の自分があるのは自分に関わってくれた、すべての人のおかげ。 感謝の気持ちでいっぱいです。 夢みたい」

‥‥ 必殺技のアンクル・ホールドを有して、全4試合10ポイント差がつく「テクニカル・フォール」勝ちで0失点の完全勝利、とてつもない強さだ

夏目三久アナウンサーも、婚約発表の時に「感謝の気持ちでいっぱいです」と言っておられた

 

それに対して、昨今よく目にする 【 感謝です 】 は、非道い言い方だと思うのです

日本人は褒めたり称えたり御礼を言ったりするのが苦手だとはいいますが‥‥ 

「感謝」とゆー厳粛な気持ちを表すのに、 【 感謝です 】 なんて、軽薄な言いざま(短縮形でしょ)はないと思うのです

「(あなたに)感謝しております 」と、きちんと相手に向かって発するべきです

ところが、「感謝」の言い方を知らないものだから、日常生活では他人が感謝している風景になかなか出会わないものだから、SNSでよく見かける「感謝です」をつかってしまうのね

よっぽどの知識人でも「感謝です」なんてつかっていますもんね、「感謝しています」 とゆー正式な言い方を目にする機会は、確かに少ないかも知れない

「クリティカル・シンキング」(耳にする回数が多い言葉が「正しい」と思ってしまう事) って奴よね、困ったもんだわ、ほんとうに…… 

他にも、

「ファイトです」「ガンバです」「ナイスです」

「ご苦労様です」「了解です」「しばらくぶりです」

‥‥ などがありますが、全部失礼な言い方です

この「名詞+です」の表現 は、必ずしも丁寧な言い方ではない んですね、「です」をつけたからいいとゆー問題ではないのです

口語ならば問題ないにしても、目上の方には使えなかったり、文章表現としては失礼にあたったり、違和感があったりで色々問題がある例です

わたしも「ご苦労様です」や「しばらくぶりです」は遣っているので、少しく反省いたしました

「お疲れ様です」でも、多少おかしいのだったな(目上に対してねぎらう言い方はおかしいのだとか)

「ご苦労様でございます」は、私は目上に遣っていたな

つまり、日本語では先に帰宅する上司にかける正式な言葉はない とゆーことです、何か相応しいコトバを考えなけゃならない処です

[※  他にも、日本語には知らない他人を呼ぶ言葉がない、「旦那さん」や「おじさん」「おばさん」は多少つかえるが、英語の「 ヘイ ♪、ブラザー/シスター 」「ミスター/ミズ/サー  みたいな親しげな呼びかけが日本語では出来ない

例外的に、大阪では「おっちゃん・おばちゃん」とゆー自然で敬意のこもった言い方がある、「おっさん・おばはん」は失礼な言い方なのである

関西人のコミニュケーション能力は、さすが天子さまのおはす都付近の「近畿」「畿内」にお暮らしになっておられるだけのことはあって、日本随一のこなれた話しぶりである

東京には、関西人の「おっちゃん・おばちゃん・にいちゃん・おねえちゃん」に当たる自然な呼び方が存在しない、冷静にみれば、東京にはその手の需要がなかったからとも言える、東京人と話していると二人の間に木枯らしが吹くよーな感じはするわね♪

ちなみにうちとこの東北では、「あね(姉)さま・あねちゃ/あん(兄)さま・あんちゃ」とゆー、若い男女につかう言葉がある、「あねちゃ」は若奥さんにもつかえる、年齢を問わず年上の女につかう「ねえさん(姐さん)」はあるが、年上の男につかう言葉はない]

 

「しばらくぶりです」ではなく、「ご無沙汰しております」 が良いのよね

やはり、動詞表現が日本語らしいとは云えるかと…… 

 

「感謝です」は、ほんとうに心から感謝しているのか疑わしいよーな軽い言い方なんですね

あくまで私見ですが……  「感謝」とゆー言葉は、ここ十年余りでよく公共の場でもつかわれるよーになりましたが、

この風潮は、2007年から始まったブログ『 伊勢-白山  道 』による処が巨きいと思います

伊勢白山道のコメント欄では、読者から「伊勢白山道は、感謝道」みたいな言い方はよくなされています

今に感謝して、ご先祖と神さんに感謝する言の葉(言霊)を発すると、それが 『 生かして頂いて ありがとう御座います 』 なんです

芸能人でも伊勢白山道読者はけっこういるらしく、最近では『鬼滅の刃』の作者がそーだと聞きました

イベルメクチン処方で成果を上げている開業医・長尾和宏先生(最近テレビによく出ておられる)も読者らしい

作家の吉本ばななは、伊勢白山道の本の帯に、推薦コメントを寄せたことがありましたね

伊勢白山道では、「感謝する」ことが最奥の秘儀である印象はうけました、古神道の秘儀「自霊拝」は神恩感謝の究極の型のよーに感じる

だからこそ、「感謝です」なんて軽々しく言ってほしくないのですが…… 

少なくない読者が実際には使っていますし、ブログ主のリーマンさんも、使っている意味合いは違うのですが、「先祖に感謝です」とはよくコメント欄で返答しているんですよね

[※  少し補足しますてーと、

読者コメント・例「両親に感謝です」→正式な言い方「両親に感謝しています」

リーマンさん・読者へのレス例「先祖に感謝です」→省略しないで言うと「あなた(質問した読者)の先祖に感謝するべきです(or 感謝するところです)」

つまり、「感謝です」の主語が違うのです、日本語はこんな使い方も出来るから柔軟で厄介な(難しい)言語だといえましょー]

意味内容が違うからといっても、「感謝です」とゆー言い方は同じなわけで……   これは、良くないと思いご本人には投稿でご指摘したことがございます

たしか、コメント欄にきちんと掲載されたと記憶しています(この辺りは、公平な御方なのです♪)

 

まー、ネットで見かけた違和感のある表現はメモしているのだが…… 

他にも、

「わかれない(解れない、理解できないの意味)」とか

「感動です」

「感動ですよね」

「元気をもらえた」

「心が折れそう」

「感謝しかありません」

とか色々と尽きることがありません

「わかれない」は「わかる」の可能をあらわす意味に特化したコトバで、聞いて即座に意味がわかるのはいいのだが、二重に響いてくる「意味」がかったるい

「感動です」は、口語では短くダイレクトに気持ちが伝わる利点もあるが、なにか幼稚な子供っぽい言い方かしら、でも今ではアナウンサーまでも「じゃあ、次です」「〇〇に注目です」とか言うからな、

番組の「尺合わせ」に便利だからといって、そんなにまで短く言って「すぐに」情報を共有したいのかといっそ哀れに感じる

「感動ですよね」は、「感動する」とゆー自分主体の心象に、他人の同意を求める自信のなさが、一個の人間としてどーなのかなとは思う、「私は感動しました」と胸を張って何故言えない

元気や勇気が「もらえる」ものだったら、今すぐここに出してみろと意地悪なことを呟いたりしています

「心が折れる」って、あなたの心は固形で形のあるものなのか?とか言ってしまいます

「感謝しかありません」は、こちらのただの情況説明であり感謝のコトバではないと私は思います、ただしその後に「ありがとうございます」とか重ねたら、立派な感謝表現になるとは思います

 

いろいろと気になる日本語は、おりおり挙げて意見したいと思います

いちゃもん付けてばかりも何なので、最近いたく気に入った言い方を引用します

 

オリンピックに落選した寺本明日香選手が、盟友・村上茉愛の銅メダル獲得に寄せたお言葉(インスタグラム)より

「歴史的快挙!!まい銅メダル ほんとにおめでとう」

「リオでの悔しかった想いを ずっと秘めて秘めて頑張ってきて、でもこの数年で色々あって色んな壁乗り越えてここまできて、やっと!! 感動の涙で言葉が全部吸い取られていく 

‥‥ 大和撫子のおおらかでお優しいお人柄がしのばれて、やおら涙腺のゆるむのを感じる、ええ娘(こ)やのう...(´༎ຶོρ༎ຶོ`)/..ヨシヨシ

 

もう一つ、『奇跡体験?! アンビリバボー』に出ていた、日本で入院したとき、病院に手作りうどんを届けてくれた、バイト先のオバさんを長年にわたってネット等で探していた上海の孫立平(スンリーピン)さんが、やっとのことで会えたときに放たれた、真に迫ったお言葉

「 この思いにもう言葉が追いつかない 」

                                     _________ 玉の海草