『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 大好きな 当今 (とうぎん) に捧ぐ〜 ご皇室にふさわしいアナウンス考

__ 昭和大帝の御語り口は、じつに魅力に溢れてあらせられた。先帝陛下もまた、ご自身で分からないながらもご神事に御命懸けで向かい合れる御姿と年々と重ねられる翁顔が歴代最高の御笑顔であらせられて、じつに見事な第125代と御成遊ばした。

さて、開かれた皇室に玉体をもって体当たりで臨まれた二代の天子のおせなを眺めながら、わたしたちと同じ時代を歩まれて来られた 浩宮さま ……   ほかならぬ陛下に、わたしの想う天子の現れ方を建白書のかたちで、ご奏上させて戴きたく存じます。

 

●  “ ほんものの氣品とは? ”

 

敬語も文語ではわずらわしいし、万が一不敬があってもいけないので、香家の比喩で話を進めよー。

 

香位にある今ちゃんの愛娘が、インタビューに応じた。この娘は賢くつつましくおっとりとして、あたかも「大和撫子」の幻想を彷彿とさせる雰囲気(いまどき珍しい )をもっている。

今ちゃん嫁が、手塩にかけて育てた「秘蔵の玉」である。

香位継承権トップのセカン(No.2)の娘は、美人姉妹でヤング香族として嘱望されたが……

姉は異国へ駆け落ち、妹はアイドル的な人気を誇ったものの、何か立居振舞いに香族らしさが足りない。

うわずった感じの鼻にかかった声が幼く、口跡が冴えない。

セカンと嫁との大学生交際とゆーか、キャンパス・ラブは、思い出すだに微笑ましく、ある種理想のカップルにみえた。

次男ゆえに、割と自由な交際が認められたと思う。もちろん私はこの二人を応援していた。

今ちゃんとセカンの兄弟間の星廻りが、私と実弟との星廻りとぴったり相似形であり…… セカンの行き方は本当にわが賢弟に似ていた。

私は、仏教(聖徳太子)の影響色濃く霊的なタイプで、あらゆる神秘学を漁ったが、不思議と神道(伊勢神宮と白山神社)だけには全く縁がなかった。

セカンの彼女は、音無しめの仄ポッチャリタイプで、素朴な髪型もあいまって、もろに私のタイプであった。

「よかったなあ〜、セカン 」と心から祝福した。

聞けば、彼女は琉球の「御嶽(うたき、沖縄の聖地・神社的空間)にぞっこん惹かれて参拝を繰り返していたとか。

彼女が惚れ込んで、習った「琉球舞踊」の女師匠は、琉球武術・御殿手の名手・上原清吉も認める、舞の名人である。

コノ御二方は、「武」と「舞」の極意を共有しているのである。同じなのである、

その昔、柳生石舟斎と金春七郎とが、新陰流と金春流(能楽)の秘伝を、おのおの披露し交換した逸話を思い出す。

この時伝授された金春流の口伝が「西江水(せいごうすい)……

週刊新潮に連載され、洛陽の紙価を高からしめた剣豪小説の名品と云われる、五味康祐『柳生武藝帳』のなかで……

柳生但馬守がさりげなく垣間見せる所作が、新陰流の究極の奥義「西江水」であったものだ。

かくの如く、セカンの嫁にはかなりの霊的素質が備わっていたに違いない。

ただ、御嶽(伊勢白山道では参拝禁止)への執心は、後年の「金毛九尾の狐」を御所に忍び込ませる呼び水となったやも知れん。

 

あの、見るからに信頼できる学究の貌をされた大学教授を父にもつ、セカンの嫁が、結婚後子等を授かり次々と出産した過程において、何があったのか、私は存じ上げないが……

彼女の、あの温かみのあった平安朝的な丸顔が、みるみる痩せ細って、ショートカットで瞳に険をふくむ貧相な顔へと変貌していったのは何故なのか……

しみじみと残念である。

残念ついでに、あの甘ったるい幼稚な話ぶりは、娘たちに受け継がれた。

人生の途中から、香家に入る一般人と、生まれながらに香家として育った者は、根本的に出来が違うのだ。

いくら先代のお上さんが、社長令嬢としてセレブに育てられたとしても、神主をしている生まれながらの香女(389)とは、そのおのずから放たれる威において、雲泥の差がある。

先先代の大葬において、直系の香女の醸し出す品位は、到底人間のものとは思われなかった。

微塵も小揺るぎのしない坐位と凜とした立ち姿、あれこそまさに「高貴」と呼ぶに足る。

国際大運動会を誘致するために、演説した久姐は、その点、やはり華族の家柄だけあり、(外国語での)話し方・目配り・所作・歩き方すべてに「ハイ・クラス」の気品を纏い、すこぶる見事なものだった。

しかし、庶民から嫁いだ者は、俄に糊塗することは叶わない。

香家のワン・ツーの嫁は、ともに庶民だから、精神を病むほどに「お上修業」が過酷なものとなる。

 

もちろん、高貴な血を継ぐ香家として、土俗の一般人とどこが違うのか、格の違い・位の違いを恒に見せつけなければならないわけだが……

気品は意識して出せるものではなく、実際の処、現場ではどーなのだろー。お目にかかると、その威に震えるなんて本当にあるのだろーか。

香位にあれば、祖霊が憑依して顔つきまで変わるものらしいが、その他の香家の者はどーなのだろー。

香位につく者は、その血筋(霊的素質)をもち、そのよーに育てられた者でなければ適わない。

何故なら、男とゆー生物は、ある日突然王位につけられても、王である自分を受け入れられずに四苦八苦するものらしい。慣れるまでオドオドしている。

卑近な例えだが、いきなり社長の椅子に座らされても、すぐには社長として振る舞えないのだ。

女はそーではない。いきなり王位につかされても、次の日には既に「女帝」としての貫禄を帯びて、平然と女帝然として振舞えるものだと云ふ。

則天武后とか歴代の悪女の、最高権力者に成った際の切り替えの速さは、それは見事だったとか。

だから、香家の男子には、長い年月をかけて、香家のしつけ(宮様教育)を施さなければならない。

 

まー、手っ取り早く香家の気品を感じさせるのは、言葉遣いだが……

今ちゃん娘は、品よく言葉を噛むこともなく付け焼き刃的な言い回しも感じられず、全体として印象がよかった。

わたしが、香家のスピーチで不満なのは、あの決まり文句の型である。

…… …… と思いますと共に」とゆー独特の接続の仕方とか、(「私は…… …… と思っていて」とゆー庶民の言い方と似ている、何で一旦切らずに繋げたいのか)

…… …… をもってお祝いの言葉と致します」とか、如何にもそらぞらしく聞こえる。

思えば、昭和の香位トップの翁は、訥々として自然で高貴であった。音吐朗々と語りかけになられた。

「生き神様」として帝王学を施された最後の人だったからか。

生まれながらに香家であるとは、どーゆーことなのであらーか。香家なのに、いまはまわりにも敬語をつかう。謙虚なあまり、庶民と見分けがつかない。

「ございます」とか丁寧に表現するが、香家がこれほどオープンにされていなかった頃は、つまり御簾(みす)越しにお言葉を賜ったときなどは、いかなる言葉遣いであったのか。

もーちょっと香家らしい美しい言い回しがありそーなものだ。あれじゃあ、丁寧なだけで何ら庶民の言葉と変わらない。

 

わたしは、こんな時、下々の者どもとも対等につきあった唯一の帝・後白河院のことを思い出す。

院の愛唱なされた「今様」の節回しが現在まで伝承されていなくて、つくづく遺憾なのではあるが……

河原者や白拍子とか道々の輩(ともがら)等々、祇園女御にしても、身分外の無生産者(非納税者)まで集めて、今様を共に競った。

どんな言葉遣いで、それらの者と会話なさったのだろー。

後白河院は、敬語なんかお使いにならなかったのではないか?

敬語は、長くゆっくり言い回すことで特別感を付与するよーな塩梅である。言うに言いにくく、聞くに聞き取りにくい。

例えば、「〇〇される」と聞いても、敬語の「される」なのか、受動態の「される」なのか、一聴してすぐに見分けがつかない時がある。

二重敬語なんてのもあるし、複雑多岐にわたる厄介な代物である。

関西圏みたいに、「〇〇してはる」で敬語を統一すればよさそーなものだが、あえて複雑さが尊ばれる。

とにかく、公の席での、香家としての言葉遣いも考えてほしい。一般庶民と大差ないのを、「香家」として崇め奉ったりしませんよ。

今ちゃんは、生まれながらの純粋培養だったから、即位まえから、おのずからなる氣品をまとっていた。

それは、エリザベス大姐さんに特に可愛がられたことからも分かる。

直に拝謁を賜わると、物凄いオーラであると仄聞する。香家ならではのそーゆー権威を纏う人は心配いらない。

問題は、香家一族の郎党の方々である。

日本貴族として、世界の社交界に隣席して、セレブのオーラを圧倒する氣品をもつ者が、果して何人いるだろーか。

日本は、政治家も貧相なら、香家一族もそーである。

体格でも劣る日本ならではの貴族のあり方ってあるはずだ。

 

 

●  “ 心あるご香族の足下へ奏上あれかし

 

ー初めに、お断りしておきますが…… 以下は空想物語につき、敬称を省きます。

 

先に、香族の公的なアナウンスは、不自然な丁寧語や堅苦しい言い回しで、違和感があると申し上げた者です。

ならばどのようにしたら良いのか、私自身代案といいますかご提案を奏上していなかったので、ここに付け加えます。

 

香室のアナウンスが、庶民の言い回しとほとんど変わらない点について……

まず、庶民の公的なアナウンスは、いかにして現在の形になったのか、ザッと振り返ってみたい。

 

昭和世代の校長先生や会社の社長らの挨拶は、晩年の森鷗外の小説調で、漢語の多い武家言葉に似た感じで、簡潔な締まりのある格調高い言い回しで喋っていた。

日本文学(小説・詩・短歌等)を下地にして、素養としての『論語』とか外国(世界)文学のよく知られたエピソードとかを織り交ぜて、言葉が選ばれているだろう。

小説といえば、鷗外・漱石が双璧となろうが、ここから大谷崎〜芥川〜川端康成〜三島由紀夫とつづく、文学界をリードした東大閥作家の影響は大きい。

わたしは志賀直哉は、一読簡潔で端正なる名文と感じた覚えがあるが、泉鏡花にしても、日本の名文には漢学の素養は欠かせない。

和漢洋を束ねた幸田露伴のような碩学もいたが、やはり名文の基本は、晩年の鷗外のような簡潔にして漢語を織り交ぜた格調な高い文章であろう。

漢学者の家に生まれ、素読を叩きこまれ、純粋培養された天才・中島敦なんかは、典型的なすっきりした日本語の名手ではなかろうか。

昭和の時代までは、きまりきった様式があるように思えた。

戦前から続いている、何か伝統めいたものがある。

 

では、この格式張った硬い感じのアナウンスはどこから来ているのか?

もちろん戦前の軍国教育の影響はある。

明治開国から昭和まで、途切れることなく続いた海外列強との戦争によって、軍部の権限が拡大して、軍人の考え方が日本国中で幅を利かせるようになった。

つまり、軍人調の簡潔で硬い話し方が流布された。

江戸時代の寺子屋、武家の藩校、芝居小屋(歌舞伎)寄席(落語、講談等)

幕府の官学は、漢文の「朱子学」

少年期の徳川家康をささえた軍師・太原崇孚(そうふ)雪斎は、臨済宗の禅僧。晩年は天台宗の天海僧正。家康公は鎌倉の源頼朝公を武家棟梁の鑑として尊敬した。

仏僧は、漢文を重視する。

時代は飛んで……

鎌倉時代、初めての武家政権・鎌倉幕府が発足する。

時あたかも、鎌倉新仏教の勃興と同期する。

新しい宗祖たちはほとんど、比叡山で学んだ後に立宗した。「日本的霊性」が発露したと云われる激動の時代である。

鎌倉には、蘭渓道隆等の宋国から渡来した禅僧が活躍した。武士と禅は相性がよく、武士道の精神性にも多分に影響があった。

つまり、この時代より「漢学」が、武家の素養として浸透し始める。

後年、本居宣長が国学を確立するために排斥した「漢心(からごころ)を、幕府ぐるみで国を挙げて受け容れた。

この漢訳仏典の受け入れ方は、かなり心の奥処にまで至った密度の高いものだったようで、鎌倉新仏教に刺激をうけて、この時代の古神道は柄にもなく理論書めいたものを出版することになる。

哲学がなかった「神道」に、宋学(氣の哲学)を礎として、明確な分析と分類による世界観が見られるよーになった。

 

日本語のターニング・ポイントは、この鎌倉時代だと思う。

平安朝から連綿とつづく和歌の文化、雅びな「ヤマト言葉」は、大陸渡来の漢語に押されて、公卿のたしなみに追いやられたと見る。

その結果、武家言葉は漢語が多い、簡潔で硬いものに変化したと思う。

 

私の主観にもとづき、ザッと歴史的に概観してみたが…… 現在の庶民の言葉感覚は、鎌倉に淵源をおく武家文化のなかで養われたと言ってよいと思う。

武家=潔い=簡潔な表現=漢語を好む

よく時代劇で耳にする決まり文句「恐悦至極に存じます」などは、ほとんど漢字熟語で出来ている。

 

いよいよ次は、公家コトバに触れてみたい。

俳優・梅津栄が、時代劇にとりいれた「おじゃる言葉」は、室町時代の京都のことばで、当時公家も庶民もつかっていたらしい。

他には、宮中や禁裏でつかわれた女房言葉御所言葉

ex. おかか・おかき・おかず・おこわ(飯)・おつくり(刺身)・おむすび・おでん・おつけ(吸い物)・おひや(水)・おむつ・おまわりさん/おめもじ・そもじ・あらしゃります・ごきげんよう]

他にも、女子学習院でつかわれた「華族ことば」もあるよーだ。(「よろしくってよ」は、「お嬢様ことば」ではなく幕府の「御家人ことば」だそうです)

 

さまざまに枝分かれしているが……

さすが風雅な京都人、角のとれた丸い発音を自然と好まはりますなあ。

関西・近畿は、ことばの発音が関東に比べて柔らかいのが特徴ですね。

 

将軍家の武家言葉と、京の宮中の公家コトバ

明治のミカド親政の流れを引くわけだから、本来なら香()軍と呼ばれた軍隊の軍人コトバ(武家言葉)と香居の公家コトバは、並び立つはずである。

それが、敗戦とともに、公家コトバは、香族花族の伝統とともに消えてしまったのである。

そして、形ばかりの貴族が残った。

国会予算から捨て扶持を充てがわれたような身分では、到底、香族の存在意義たる第一義(祭祀)をまっとうすることは出来ない

そんな、相矛盾した現状をよくよく鑑みれば……

香族としての、公的なアナウンスは、ますます無味で無難なものとなりかねない。

そこで私の結論は、こうである。

 

「漢語を極力とりさって、柔らかく大和言葉を意識する」

 

この間のアナウンスを例として聞いてみると……

「皇室は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にしながら務めを果たす,ということが基本であり,最も大切にすべき精神であると,私は認識しております。」

とか、哲学的に庶民のインテリ目線で話すのも感銘深いが…… 香族らしさはちょっと違うようにも思う。

例えば「香家では、なによりもおほみたから(大御宝)のしあわせをいのり、おそばによりそいながら、おつとめさしていただく、これが香家に代々うけつがらているみこころ(御心)でおじゃります」

無理やり当てはめた感もあるけど …… 関西弁まるだしの抑揚で噺家みたいに仰るわけにはいかないが、主な特徴はこの中に含まれている。

先ず、まろやかで優しい、漢語がないから連想がスムーズで絵が浮かぶ、柔らかくて明るい調子(抑揚)であること。

角の尖った言葉は一言もない。

「京ことば」というか、「御所ことば」総動員して、とにかく柔らかな「大和言葉」を前面に出すこと。

庶民の日常生活は、漢語・熟語に溢れていて、素早く伝わるゆえに、言霊の響きを無視して、短くて荒い言葉を連発しがちである。

それゆえ、せめて香族の方々におかれましては、日本の言葉本来の響きを十二分に披露していただきまして、忙しない世の中に、束の間、寛い心持ちをもたらして戴けますと有り難い。

簡単なことです、漢心(からごころ)を去って、「大和ことば」に真心を乗せることです。

 

つらつら思い巡らすうちに、

うちの近くにある八幡宮の宮司のお姿を、香族の方々のアナウンスに重ねてみていた。

この神主は、わたしの先輩なのだが、同窓会が「厄祓い」の年にあたると、代々の同窓会幹事がこの神主に頼む。

さて、メインの祝詞奏上が済むと、くつろいで、皆で神主のお話しをうかがう。

ゆるゆると始まる神主のご挨拶は、お人柄から来るものもあり、多少の滑稽みとともに、可もなく不可(不快)もなくゆっくりと進み、それが決して退屈を催すことなく、ゆるゆると流れてゆく。

いわゆる、毒にも薬にもならない話しが絶妙な面影を映し出して、何か縁側の陽だまりにくつろぐ猫のような気分になって、そろそろ飽きる前に幕を降ろすのである。

その、ぬくもりある空間が、いかにも「厄祓い」された、目出度い日常に受け継がれてゆくのであった。

それは、クライマックスもなく、晴れ晴れとトトノウのである……

しかし、あとを引く余韻が長くほのかに続いて、なんとなく「よかったな」となる、そんな香り立つ神事が営まれる。

榊のかほりでしょうかね、ほのかな苦みがアクセントになっていました。

そんな余韻棚引くアナウンスが、香族の方々にはふさわしいのではあるまいかと愚考するのです。

いくら寄り添おうとも、あなた様方は一般人にはなれない、苗字のない庶民などいないのだから、違いは違いとして生かして頂きたい。

 

__ たとえ話とはいえ、随分ご不快になられた箇所もおありだったと存ずる。大変、申し訳ないことでございます。つつしんでお詫び申しあげます。

天津神とは無縁の、まつろわぬ民の血筋であった可能性の高い私だが…… なにやら白河院とは一縷のご連枝があるやに耳にしているので、なんとなくご皇室に奉り純粋な思慕を懐いている思いは芯底にあると存ずる。

その、偽らざる畏敬の念い、ただその一点をお汲み取り賜りたく存じあげます。

           _________玉の海草

 

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