『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 禁煙🚭がもたらす意識の変容〜 『禁煙の愉しみ』

2024-01-23 16:06:08 | 小覚

__ ひとことでゆーたら、

禁煙者というのは、特別な権利をもっているんですよ。

それは、喫煙者も持っていないし、非喫煙者(タバコを吸わない人)も持っていないものです。

 

この、禁煙者ならではの微妙な境地を探ってみると、まるで秘密教団の秘儀参入のような「意識変容」が見られるのです。

わたしは、これから紹介する『禁煙の愉しみ』という逆説的なタイトルの本📕を読みながら…… 

グルジェフの、ストップ・エクササイズを思い出していました。マハリシやニサルガ親爺の、自我と真我の、意識の裂け目を思い出していました。

ソワソワしている統一のとれない今の自分は、本当の自分なのだろーか?

この私が感じている渇きは、本当に自分が欲しているのだろーか?

タバコは深くわたしの心奥に浸み入って、わたしの心を支配する。それに任せていてもよいのだろーか?

 

 

__ 結果、わたしはタバコを止めたわけだが、この本📕は「まさにその時」に役立つだろーことが予感できた。

 

なにげなく、タバコを止めた状態を続けていたら、一日が三日となり、一週間二週間となり、いつの間に一ヶ月が経っていた。

一年とか三年とか、ふと誘われる節目があるそうだ。

また喫煙🚬するタイミングに見舞われる。

わたしは、一・二度その波に乗ってみたこともあった。

しかし、もとの禁煙🚭にもどって、いまもその状態に在る。

 

タバコを止めたら、酒を呑まなくなった。あまっさえ、音楽に耽溺することが出来なくなった。

わたしにとって、タバコ・アルコール・ミュージックは三位一体の快楽なのに、今更ながら気がついた。

この三角形が満たされたとき、わたしの幸福ホルモンは全開するのである♪

それは、果して厳しい仕事に堪えるためであったのだろーか?

大人びて、通や粋を気取るためだったろーか?

女性(にょしょう)に対する、アプローチだったのであろーか?

ハッキリとは分からないが、わたしの幸福は常にこのトライアングルと供にあったのは事実である。

 

喫煙のはじまりは、好きだった子が「(煙を)肺🫁まで吸いこむと気持ちいいよ♪」と教えてくれたのがキッカケだった。

仕事がキツかったのか、わたしはその快感を試すことにしたのだった。もちろん、初回はムセたし、頭が痛くなった。

うちの親父も喫煙者だったが、村の青年団で、初心者🔰にタバコを吸わせたときは、気つけの意味なのか、味噌を舐めさせたそうだ。

 

その一番最初の、身体が正直に抵抗したのを乗りこえて、はじめて喫煙生活が始まるわけである。

あれから、三十年、ほぼ三十万本のタバコを喫んだ計算になる。そろそろ一区切りつけてもいいんじゃないかと。新型コロナに襲われる三年前くらいであろーか?

たいした仕事もこなしていなかった私は、ふとこんなに高級なタバコを服んでいられないな(亡父は、一番安い「エコー」を嗜んでいた、おまけに肺まで吸わないで喉でプカプカするに留めた)と…… 

何のまえぶれも、準備(覚悟)もなく、それは唐突にはじまった。そして、いまもそうである。

 

 

それでは、稀代の名著であろう『禁煙の愉しみ』を紐解くことにするか。

【 私の愛蔵本📕は、この文庫本。

『禁煙の愉しみ』(1998)煙草🚬をやめることは「苦行」ではない

思いがけない快楽の発見者 山村修(1950〜2006)】

 

 

著者の山村修は、書評家「狐🦊」としても著名な御方である。特にむずかしい言葉は使わないが、博覧強記な教養人であること、風流な御仁であることが、平易で研ぎ澄まされた文章から窺うことができる。

名文家といっても間違いではない。

読みやすい文体とリズム、字面にも品がある。いたく滋味ふかい、明確な輪郭の文章をものする御方である。

わたしは、そのことにいたく満足した。

そこに、大先達の匂いを嗅ぎ取ったからである。

 

そんな心地よい文章を引用しよう。

これまで二十七年間、毎日、煙草🚬を吸いつづけてきた。

一日に紙巻きを三十本。多過ぎはしないと思うが、計算すればざっと三十万本の煙草に火をつけ、灰にしてきたことになる。そう考えると少ない分量ではない。

 思うところがあって一年前に禁煙🚭した。いや、そんな一言で済ませられるほど簡単ではなかったが、ともかく禁煙した。

「健康のため」ではない。

煙草が「不健康」なものだと考えて禁煙できる者は、もともと喫煙者ではない。

いまどき、煙草が身体にまったく無害であると思っている幸福者が、喫煙者の中にいるわけがない。切迫した理由でもないかぎり、害はあると知っていながら吸うのである。

…… 正直な著者の独白から入ろう。山村さんは、「健康のために」禁煙したのではないのである。

そこは、頭に留めておいて頂きたい。

 

さんざん喫煙していながら、吸うことが心底楽しいと思ったことはない。本当にうまいと感じたことはない。たしかに煙草に火をつけたとき、快楽に似た感覚が走ることはある。

そうした生理現象があるかぎり、楽しいともいえるし、美味ともいえる。

しかし楽しいと思っているのは果たして私だろうか

煙草を吸いたいと思う、その欲求は本当に私自身から発しているといえるのだろうか

 煙草を静かに深々と吸った時、ほっと安堵するものがある。

安堵するのは果たして私だろうか

ある状況によって許されず、長時間、煙草が吸えないと分かったとき、ほとんど恐れに近い感情をもつことがある。

恐怖しているのは私だろうか

喫煙が許可され、救われたと思う。救われたのは私だろうか

 楽しんだり、安堵したり、恐れたり、救われたりするのは、

私ではなくて、煙草産業である、などという話ではない。

答えは__ あまりにも真っ当すぎて、つまらないにせよ__ 明らかである。

体内に残存しているニコチンである。

ニコチンという依存性の薬物そのものが、体内で効果を失うにつれ、新鮮なニコチンの補給を欲しているのである。

喫煙は、つまるところ薬物依存なのである。

…… これは「私だろうか」というアプローチは、

ヒンドゥー🛕のヴェーダーンタ系統の聖者ラマナ・マハリシの「二十世紀最大の問い」である、

「私は誰か?」

「私は何か?」

「それは本当の私なのか?」

という内的な自問と、奇しくもおんなじである。

「もうひとりの自分」がアタフタする自分を俯瞰している。あるいは、能楽の「離見の見」といってもよいだろう。離れた処から自分を見つめるもう一人の自分となる。

当代の市川右團次は、具体的に次のように云フ。離見の見はいきすぎてはならない。半々のバランスを取ることが肝要と。なるほど、生き霊のような「離見の見」に傾きすぎると、本体に支障をきたすものなのだろう。

 

喫煙は一方で、それが暮らしに沿い、融けこんでいるときは美しくさえある。

他方、喫煙はあくまでも薬物依存である。私たちもまた、レバーを押しつづけているのである。煙草について、この両面をともに見すえたい、その程度には批評的な目をもちたいと私は思う。

 では、私は薬物依存であることがいやで、つまり自分がレバーを押すサルと同じであることがいやで、それで禁煙したのか。そうではない。

 

 

私が禁煙したのは__ どうか笑わないでほしい__ 、禁煙というものが喫煙者である私にとって、まさしく想像を絶する状態であり、私はその想像外の境地に立ってみたくなったのだ。

じっさい、一本も煙草を吸わなくなる、そんな自分をイメージすることは喫煙者には不可能なのである。

 

 朝起きて、煙草を吸わない

職場で、むずかしい仕事に直面しながら煙草を吸わない

知人と酒を飲みつつ、話の接ぎ穂を考えながら煙草を吸わない

夏のさかんな日盛りのなか、涼しい喫茶店に入って息をついたとき、煙草を吸わない

書かねばならぬ書類や手紙などがあるとき、文章にあれこれ苦しみながら煙草を吸わない

うれしいことがあって胸が弾んだ時、煙草を吸わない

悲しみをまぎらせたいとき、煙草を吸わない

 もちろん三度の食事のあとに煙草を吸わない

就寝🛌儀式としての一服もやめてしまう。

春夏秋冬いかなる日にも、どんなときにも吸わない。

これから生涯、ただの一本も吸わない。

 

 そのような事態を考えようと試みるだけで、茫然とするのが喫煙者なのだ。

喫煙者にとっては煙草は人生そのものである。それくらいに日常の節目ごとに、いや、一挙手一投足のすみずみにまで、煙草が入り込んでいるのである。

 つまり私は茫然としてみたかったのだ。煙草をやめれば、まず間違いなく、思いの外の心的状態に陥る事だろう。それがどんなものか知りたかったのだ。

私は四十歳代の半ばをすぎていた。人生の残り時間をカウントしはじめて遅くない年齢である。

だからこそ現在を一つの画期としてみたいという欲望が高まった。

 もちろん恐れもつのった。何しろ煙草のない生活というのが想像できないのだから、まるで未到の界域へ足を踏み出すようなものなのである。不安を感じて当然だろう。

禁煙は事件なのだ。すなわち私は自分自身に事件を起こしてみたかったのだ。

…… 実に正直な、かつ自然な心情の吐露であると思う。この、ちょっと好奇心あふるる天邪鬼のような志向が、著者を独特な風合いに仕上げている。

 

禁煙とは、おそらくそれ以前と以後とで人生を非連続にするものである。

それを境に、これまでと異なる時間⌚️を生きることである。

私など、その先にどんな景色が広がっているのか予想もかなわない暗い穴に転がり込む気分で禁煙した。果たしてそこに、ただごとでない心的状況が待っていた。

……「煙草は暮らしの句読点」

禁煙することで「句読点」は失せる。

しかし、時間の抑揚は身体がおのずと刻みはじめると著者は言う。

 

少年の日の青空をまた見たくなって

禁煙した男がいる

…… ある詩人の一節なのだが、妙に心をくすぐる。思えば、喫煙前は写真型の記憶力があったなあと、テストの時などそれをなぞることが出来たものだ。どんな感覚で青空を見上げたことだろう。

 

 

 

吉野秀雄『禁煙』(昭和三十ニ年)

禁煙の心得より

◉ けんか腰でとりかかつては、かへつてことを誤まる。

柔軟心といふヤツで、すうつと入つていくに限る。

◉(禁煙は)ヂタバタする自分をみてゐる別個の自分をもつことのできる人なら、むしろおもしろいくらいのものではないか。

…… 「柔軟心(にゅうなんしん)」、道元禅師が帰朝なされたときのコメントに、「空手で還郷したが吾れ柔軟心を得たり」とあった。意識が変容したのである。身構えない、すぅーっと入ってゆく。まるで武道の極意である。柳生新陰の「勇」の一事であり、鹿島の「一つの太刀」における入り身の秘事であろう。

 

禁煙は自己批評である。自己反省である。

 

(禁煙に)成功したことを書く人たちもいないではない。

しかし成功した人が、どうしてはじめのニコチン離脱症状に耐えられたのか、それを書いた文章に私は出会ったことがない。

あえていえば、それは耐えなかったからなのだ。逆説でも何でもない、耐えようとすれば失敗する。耐えようとしなかったからこそ、禁煙できたのではないか。

 ニコチン欲求の波と闘わず、耐えもせず、その波に乗ってしまうとはどういうことか。

そうした欲求が我が身を突き上げているという常ならざる感じを、全身で味わってみることである。

欲求の強さに身がねじれ、うねるような気がするならば、心持ちもいっしょになってねじれ、うねってみることである。

 波になるのだ。自分がニコチン渇望の波そのものになってしまうのだ。

…… 「タバコを吸えない」渇きを恐れるのではなく、その状況に全身を任せてみることである。身体の濃やかな変化やバイオリズムの波をひたすら感じてみるのもよい。

いままでに気づかなかった自分の隠れた一面を垣間見ることができるかも知れない。内的な沈黙(心の内なるお喋りを止める)の下で、ひたすら自分を静観することとなる。内側へ、内側へと意識を向ける。

 

> 耐えたのではない。煙草に手を出さずにいることを愉しんだのである。

 

禁煙は非日常である。思い切っていえば、身体感覚にとってのハレのときがはじまるのである。

私の場合は二十七年の間、煙草を吸いつづけ、身体にはいつもニコチンが充ちているのが当たり前であった。煙草を断ち、ニコチンの補充を止めてしまうと、体内のニコチンが肌からふつふつと滲み出るような気がする。

腕に鼻を当ててみると、煙草の匂いがする。気分はほとんど茫然としている。それはもう異様なことといってよい。

 そうした異様な感覚を、抑えようとするのではなく、忘れようとするのでもなく、むしろ自分から進んで味わおうとすること、そのことがなければ、禁煙はできないと私は思う。

…… 禁煙をマイナス要素(欠損)として捉えずに、新たなチャンスとして試してみる挑んでみる。

このまま行くとどうなるのか、ミステリーに足を突っ込んでみる。つまり、本来の自分(人間としての自然)を見つめる機会でもある。とにかく、みずからの内側に目を向けてみることであろう。

 

 

禁煙とは、最後の一本を灰皿ににじり消した瞬間から、どこかは分からない、こことは別のところへ移ることである。禁煙は越境である。

これまで知らなかった場所で、知らなかった日々をはじめることだ。ある地点にたどりつくまでは耐え抜くといったレースなどではない。

…… すくなくとも、いままで知らなかった生き方をすることになる。それは日常生活からのジャンプ、非日常の旅人となることである。

みずからの意識の裂け目を静観すれば、それは神秘体験ともなろう。禁断症状により引き起こされた意識トリップが、偽自我に気づき、アートマン(真我)にみちびかれるかも知れない。

 

もしも陸上競技に例えるならば、禁煙は長距離走(マラソン🏃)ではなく、ハイジャンプである。

走るのではなくて跳ぶのである。跳んで、見知らぬところに落ちるのである。

…… 禁煙とは、マラソンのように42㎞先にゴールが設定されているようなものではない。そう思っていると、必ず躓く。

禁煙という意識変容は、いわばカスタネダの「イクストランへの旅」である。飛翔するわたしが、そこにはいる。落下して粉々に砕かれるか、はたまた次の次元へと跳ぶ自分がいるだろうか。

 

 

よく「もしも生まれ変わったら__ 」という質問がある。

「もしも生まれ変わったら、煙草を吸いますか」。

そう問われたならば、反喫煙をとなえる彼らはきっぱり「吸わない」と答えるだろう。

 私はどうか。分からない。迷う。優柔不断なのである。

しかし質問が「もし生まれ変わって、また煙草を吸う暮らしをつづけたら、禁煙しますか」というものであったなら、私は即座に答えるだろう、「禁煙する」と。

 なぜなら、禁煙は味わうに足る人生の快楽であるからだ。

…… 禁煙とは、特別な体験である。体験できる資格のある者は、喫煙者だけである。脳🧠を薬物にゆだねた人が、本来の脳に帰ろうとしている。聖書の「放蕩息子」にも似ている。

 

 

 

> 禁煙者は、喫煙者も非喫煙者も知らないことを知っている。

 

禁煙は華やぎである。罰せられざる快楽である。苦行でもなければ克己でもない。

 

 

__ ざっと、引用しただけでも、これだけ豊饒な言い回しに目が眩む思いである。

たかがタバコ、されどタバコ…… なのである。

 

山村さんは「禁煙🚭には三つの手がある」と纏めておられるので紹介しよう。

(1) 禁煙をはじめてからの一日を、三日を、一週間を、一月を、湧きおこるニコチン離脱症状をむしろ利用して、思いがけない感覚を刈り入れる日々とすること。愉しみの日々とすること。

…… 「収穫の一月」とするようにとの事。

(2) 何度も失敗してみること。あっさり禁煙できる人がえらいわけではない。さらにいえば、失敗して恥をかいてみること。それがあとになって効く。

 禁煙とは、恥をかくことである。

…… 少し書きにくいがと言いつつ、山村さんは隠れて喫っていた自分が見つけられた屈辱を縷々書いておられる。何よりも恥ずかしかったのは、愛犬に「見られた」ときだったそうだ。

(3) 何しろ不可能だと思っていた禁煙を、驚いたことに、いまつづけているのである。これはたいしたことではないか。誰もほめてくれるわけではないし、〜(略)〜 せめて自分で自分を讃えようではないか。

禁煙をよろこび、祝おうではないか。

…… 「祝祭の月🎉」を設けるのである。一月でなくても、一日でも二日でもよい。カレンダー📅に「禁煙祭」を設けるのである。

 

ちなみに、山村さんは「吉野に花見」に出かけたそうだ。禁煙を「果たした」そのお祝い旅行である。

その時点で、禁煙を愉しんでいる。喫煙欲求そのものを身体の内的リズムのように感じて一緒に生きることができる。それが「禁煙を果たした」というサインである。

「禁煙にはおそらくずっとゴールはない」と諦観した上で、自分の禁煙を、そして喫煙者であったことを祝福するのである。

 

 

__ わたしは、タバコが猛烈に美味いと思ったことが二度ばかりある。最初は、缶ピースを喫んだとき。

そして、これはいまでも憶えているが、爺さまの形見のキセルと煙草入れ(木製、印籠型)が遺品としてあった。

煙草入れには、亡くなった当時じいさんが嗜んでいた、刻み莨「敷島」(いや、「みのり」かも知れないが)が詰められていた。実に艶やかな繊維の束であった。

何の気なしに、キセルに丸めて入れて火🔥をつけ燻らしてみたら…… 

なんとも芳しい香気に、ガツンとくる味のキツさ、そしてその後にひろがる晴れやかな解放感に、しばし陶然と酔いしれた。

「キセル煙草が、こんなにうまいなんて!!」

その時まで思いも寄らなかった。(じいさんの形見に感謝を捧げた)

わたしは、即座に刻み煙草の入手方法を考えた。

調べると、もはや製造中止となっていたが…… 

ひとつふたつの銘柄は、いまでも製造しており、それらが東北圏では仙台の「藤崎デパート」🏬でのみ扱っていることを知れた。

さっそく、赴いてみましたよ、はるばる仙台まで。(車で4時間半くらいかかる)

 

そしたら、残念なことに名品「敷島」は、製造中止となっていた。しかたなく、そこにある刻み煙草「小粋」を仕入れたが、喫んでみたら「敷島」の足元にも及ばない。

まだ、形見の刻み煙草はそのまま煙草入れにはいっているが、最期の「しきしま」である。

うちの爺さまは、腕のいい大工(棟梁)で、無教会派のクリスチャンでもあったので、タバコは吸っていなかったのだが…… 

なんの因果か、戦時中の配給でもらってから喫煙を始めたらしい。

じいさま、ありがとうよ、「敷島」をおれに遺してくれて、ご馳走になりましたよ♪

【こんな時代もありました♪ 日本専売公社ポスター(昭和32年)】

 

ニコチンの薬物反応は、「覚醒」に似た症状も引き出してくれる。仕事中には、よくタバコで覚醒していたものだ。

断煙してニコチン離脱すると、覚醒と反対に「眠気」がやってくる。そして渇きが押し寄せてくる。

この渇きは、精神の亢進状態をも引き起こしてくる。

そこに、意識の裂け目に侵入する得難い機会が生まれる。

 

 

 

__ 最後に、この本の中で取り上げられている、禁煙と苦闘した(ジタバタして失敗した)作家たちを紹介しておこう。

 

・ポール・オースター

・南方熊楠

・西田幾多郎

・吉野秀雄

・小沼丹

・斎藤茂吉の「簡単唯一の方法」というのが「絶対に火のついた烟草は口にしない」というシンプルなものであったが、これが実に含蓄のあるものだった。

・チャールズ・ラム

・別役実

・安田操一

・ズヴェーヴォ

 

 

…… 著者の実体験(神秘体験)もてんこ盛りである。

禁煙一日目の能楽堂でのロビーにおける幸せな眠気の描写などは秀逸である。

さすが何回となく禁煙🚭に失敗した山村さんだから、

禁煙による渇きを埋めるというか、逸らすレパートリーの多彩さには笑いを誘われた。(第Ⅲ章 「禁煙の現場」に詳しい)

逆立ちだの腹式呼吸の横隔膜だのは、わたしも参考になった。

 

あー、私自身の体験を書き忘れていたね。

> 決めることじゃない。恋愛って決めることじゃない。

いつの間にか始まっているものでしょ。

決めさせたボクが言うことじゃないけど。

[※  ドラマ 『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』最終回より]

 

…… この台詞の、恋愛→禁煙🚭に変換したら、まるでわたしの禁煙体験そのものであろう。

それは、いつの間にか始まっていた。

請負仕事が少なくなってきた頃合いだった。

わたしの場合、仕事を成し遂げた一服のために仕事をしているという実感があった。

ぽつぽつ休業日が増えてきた頃、わたしは家🏠で漫然とタバコをふかして無聊をかこっていたわけである。

仕事の後の、達成感ある一服ではないから、当然不味い。精神も萎えてくる。

そんなとき、せめて仕事していないときくらいは、タバコを服むのはよそうと、思いだした。

知らぬ間に、禁煙がはじまり、その期間は徐々に伸びていった。

その頃、口👄淋しくて、よく「エアー喫煙」というものをしていたなあ。

坐禅のときのような深い長息で、タバコの味を思い出しながらゆっくり肺をふくらませて吸気すると、意外と追体験に似た思いが味わえるのですよ。

深い呼吸は、心を落ち着かせるのに卓効がある。

ある程度は、喫わなくとも平静をたもてることを、このとき初めて知った。新鮮な身体感覚だった。

そして、仕事にいっては、お世話になっている会社の専務さんや、同業の年配者がタバコを手離せない、無様な依存ぶり(カッコ付けもあろう)をつぶさに冷徹に観察して…… 

「この人らと一緒でいいのか?」と自問したら、即座にこころが定まった。心奥で禁煙を全肯定した。(私から嫌われた方々よ、本当にありがとう、あなた方のお陰でタバコを止めました)

 

とはゆーものの、三週間目と三ヶ月目くらいだったか、後戻りしてみたこともあったのだ。

もはや、昔ほどおいしくなかった。(頭がクラクラ痛んだ)

なにか、忘れたまま生きているような心地がしたが、禁煙していることを忘れるまでは2年くらいかかったのかな。

心にすっぽり抜けた快楽の穴はおおきかったのだろう。

 

タバコをやめると、不思議なもので、酒も音楽にも溺れることがなくなった。

わたしのスタイルだったのだ、タバコ・酒・音楽の相互に増幅する快楽。

カッコイイ男はそうだと思い込んでいたのだ。(それが舞台でありシチュエーションだと信じていた)

でも、静かに自分をかえりみると、わたしの真から望むものはそんなものではないようだ。

そんなものは、子どもの頃しきりに思った「コーヒー牛乳を腹一杯飲みたい」というのと、さして変わらぬことに思い至った。

過剰さが豊かさではない。

狂った自分は、無理している。

ごまかさなければならないものなど、何もなかったのだ。

たんたんと見上げれば、そこに太陽がかがやいている。

手元に一杯の水がある。

飲めば満たされるものが、そこにある。

そんな程度で、ひとはしあわせを感じることもある。

「放てば手に満てり」(道元)

 

禁煙って、けっして失うことばかりではないのですよ。

戒律というか、自分律というのも「喪失」がテーマではない。

「〇〇しない」というのは、士道覚悟に近い。

しないことによって、調えているところがおおきい。

わたしは、寅年生まれなので虚空蔵菩薩の加護をうけているそうだ。

そのご縁で、眷属である「鰻」は食わないことに決めた。

そうすることで、食わないことで、鰻重の有り難みがいや増すのである。

ひとつ、そういうものをおのれに設えているのがよい。

それが自分の全体を引き締める、失って返って活きるものであろう。

      _________玉の海草

 

 


 釈尊が沈黙 (無記) した意味 〜 「我」 でも 「無我」 でも 「非我」 でもない

2024-01-12 04:22:40 | 小覚

__ いまから2600年前に、釈尊が打ち立てた「仏道」は、さまざまな宗派(セクト)に分かれ、その教えがとんでもない拡がりをみせて、世界宗教になってしまった。

最近では、フランス🇫🇷のように、禅を宗教として扱わないで、ひとつの精神メソッドとしてなじむことによって、宗教としての垣根が低くなっている。

また、仏教を哲理として捉えたり、科学として捉えたりする傾向もよく見られる。

 

次に上げる科学系動画(約22分)を見ていただければ、容易に納得できるであろう。仏教が、わが邦古来の神道と共存できた理由にも深淵なものがあるのだろう。釈尊は、太陽☀️信仰の釈迦族のご出身であらせられるから。

 

 

広く観れば、仏教・ジャイナ教・シク教はヒンドゥー教🛕の分派ということになっている。(インド憲法🇮🇳による)

仏陀(釈尊)は、ヒンドゥー🛕のヴィシュヌ神の化身の扱いである。

いってみれば、釈尊はヒンドゥー🛕における革新派(新興宗教みたいな)であった。イエズスがユダヤ教の革新的なラビで、ムハンマドがキリスト教の革新派であることと相似であろう。

 

ゴータマ・ブッダという過去に実在した一個人が成し遂げたことは……

悟って(コノ世を生きやすくして)、

解脱する(輪廻転生のくびきから脱出する)

というシンプルなものである。

そして、人間ブッダはその方法論を確立して、フォロワー(弟子)にそれを伝えて、自分と同様の境涯に至るまで教え導いた。

 

釈尊(ブッダ)は、「輪廻転生からの解脱」というバックグラウンドでは、ヒンドゥー教🛕(バラモン教)の世界観を踏襲している。

それを真理と認めていたのだろう。

しかし、ヒンドゥーが認めた「真我」という実体我(常住しており不変である「我」)に対して、釈尊はそんなものはありませんよ、「無我」なんですよと提唱した。

【横山大観の『無我』】

 

 

 

__ 仮想現実という観点からは、

そもそも古きヒンドゥー🛕(旧バラモン教)でも、コノ世は「幻影(マーヤー)」であるという世界観であった。

迷える自我は、強制的な輪廻転生によって、「終わりのない不満足(不如意)」を永遠に繰り返さなければならない。

だから、「真我(本当の自分)」に目覚めよというわけである。

 

かたや、仏教はすべての現象は縁生(原因・条件があって生じたもの)であって、

常住であり不変である「我」を認めない。

ゆえに「無我」である。

とはいえ、釈尊も説法するときは、「私が‥‥ 」と自分の自我を口にしたし、「縁生の五蘊の仮和合」としての「経験我」のようなものは認めていた。

「無我」でもいいけど…… 

じゃあ、仏教では「何が輪廻するのか?」

 

このへんは、私の仏教知識では打ち漏らすオソレがあるので、新進気鋭の賢人にお出まし願いましょう。

お堅い分野なのに、意外なヒット作となった…… 

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か〜』から、叡智✅を拝借して来ましょう。

 

◾️輪廻する主体とは何か

現代日本🇯🇵で一般に「輪廻」と言う場合、

私たちは主観的には明晰判明に存在している「この心」が、何かしら「魂」のような実体として様々な存在に生まれ変わっていくといった、物語のことを想定しがちである。

死ねば眼・耳・鼻・舌・身の五感を伴った身体が消滅するのは経験的に知っているから、輪廻があるとすれば、存続していくのは意識、即ち「この思い」だろうというわけだ。

しかし、同様に考えて「識」が輪廻の主体であると主張したサーティ比丘が、ゴータマ・ブッダから激しく叱責された。

サーティ比丘に対してゴータマ・ブッダは、

私は「縁がなければ識の生起はない」と説いたではないかと言っている

現象の世界において認知できるものは全て縁生のものであり、したがって無常・苦・無我である。

それは「主観」を構成する識(意識)であっても、例外ではない。

 

行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、

仏教で言うところの「輪廻」の実態

 

存在しているのは業による現象の継起だけ

そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体我は含まれていない

 

「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の物語ばかりを考えてしまいがちだが、

実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。

 

……仏教学者の桂紹隆は、

『アーナンダ経』におけるゴータマ・ブッダの取った立場、つまり「厳格な無我」でも「非我」でもない態度について

> 「アートマンの有無の問題に関して『沈黙』を守った『無記』の立場、

したがって有と無の二辺を離れた『中道』という理解こそ、

初期経典に記録されるブッダのこの問題に対する最終的な答えであったのではないかと思う」

と述べている。

「無我説」でも「非我説」でもなく「無記説」こそがブッダの真意だったのではないかと推測している。

 

…… ここが、ひときわ目を瞠る卓説なのだが、

魚川さんもこの【中道】に同意しておられる処をみると、釈尊が「無記説」に隠した大いなる意図が窺えそうな気がする。

《参考》

東京大学教授 斎藤明氏の「空とは何でしょう? 〜中観派の教えを学ぶ〜 」より

縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に

「無我」(心身の諸法は我をもたないこと)」

「非我」(心身の諸法は我でないこと)」

を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。

 

つまり、こうである。

ヒンドゥー🛕が、ウパニシャッドの伝統から「自我(self)、真我(Self)」を打ち出しているのに対して、

釈尊は、ヒンドゥーの伝統をふまえて、尚のこと「無ー我(an–attan)」を打ち上げた。

これは、いわばヒンドゥー教🛕を利用した対機説法だったのではあるまいか。

ヒンドゥーのヴェーダーンタの精緻な「不二一元論」(これは、釈尊の再来みたいに騒がれた龍樹菩薩の哲学をシャンカラが借用して確立したものだったが)に、意識の裂け目を生じさせる技だったのではないか。

「真我」にも「無我」にも偏らず、釈尊の遺言にある「有無の二辺を去って中道を歩む」姿勢の現実的な露われとして、

我(アートマン)」でもなく、

無我(アナートマン)説」でも

非我(アナートマン)説」でもなく、

無記 説」となったということなんじゃないか。

 

「アートマンでもアナートマンでもないんですよ」と示すために、沈黙した(「無記」)と。

将来のヒンドゥー🛕勢力の繁栄をも利用して、常見でも断見でもないぞと、

量子力学的に、「波」でも「粒子」でもないぞと。

量子コンピュータの演算処理の仕方で、釈尊も説法していたのかと、やおら感動を覚えずにはいられない。

まー、「コノ世は仮想現実」という観点からすれば、

ヒンドゥーの「自我」も仏教の「無我」も、さして変わりはない。

実体をもっていないそれは、「存在」とはいえないものである。安心とは普遍(常なるもの)から来たる。

釈尊は「無我」を打ち上げることによって、二辺を際立たせた。それは仏説の「無我」にも囚われるなという冗談のような「自己否定」を含む遊戯三昧でもあったのであろう。

 

龍樹の「中観」も唯識の「阿頼耶識の薫習」も、釈尊の言うに言えない「無記説」を敷衍するような役割があったのかも知れない。

宇宙人👽だったという説もあるから、この量子論の現代に繋がる手助けをしてくれたものかも知らない。

 

桂は、龍樹と世親という大乗仏教を代表する論師たちも「無記説」を採用していたと述べている。

[※  桂紹隆『インド🇮🇳仏教思想史における大乗仏教〜無と有との対論』(春秋社、2011年)より]

 

 

 

◾️「無我」とは…… 

無我は、単純に「我が無い」状態だと決めつけてはならない。

「色は無常である。

無常なるものは苦である。

苦であるものは無我である」

無常・苦・無我の三相が、基本的には同じ事態の異なった表現

無常・苦・無我が シノニムとしてセットで語られる

…… 無常と苦と無我が、入れ替え可能であるだなんて。

この仏教の方程式が、仏教理解を複雑なものにしていると思うな。

 

「苦であるものは無我である」

…… つまり、

「コントロールできない」ということを「無我」と呼んでいる。(「苦」のサンスクリット語は「不如意」つまり思い通りにならないという意味)

 

欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。

即ち、それは私の支配下にある所有物ではないという意味で、「無我」である。

 

「無我」と言う時にゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」の「実体我」である。

仏教の基本的な立場は 全ての現象は縁生である

※  縁生 = 原因・条件があって生じたもの

 

仏教に対するよくある誤解の一つとして、

「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。

だが、実際にはそんなことは起こらない。

 

 

>「無我なのに輪廻する」のではなくて、無我だからこそ輪廻する」

…… この場合、輪廻の主体は「縁生の五蘊の仮和合」であり、別の言葉でいえば

「認知のまとまり」もしくは「経験我」である。

転生するとはそれだけのことであり、そこに固定的な実体我が介在する必要はない。

そうであるならば、かえって…… 

「常一主宰」の実体我が 輪廻転生の過程を通じて存在し続けているとするならば、

それが無常であり苦である無始無終の縁生の現象の連続に巻き込まれてているというのは、

どうにも説明のつけにくいことになる。

…… ヒンドゥー🛕はアートマン(自我)が輪廻すると言っているのに、同じく輪廻を世界観としている仏教では転生する「実体我」が見当たらない。

この齟齬はどうなっているのよ、という批判をまったく逆手にとった、みごとな返しである。

味わい尽くすべき言葉であろう。

 

 

◾️釈尊が透視した「世界」の実相

ゴータマ・ブッダは、自分の証得した法が「世の流れにさからうもの」だと考えて、当初はそれを他者に語らないつもりであった

彼の教説は、労働と生殖を放棄し、現象を観察して執着の対象から厭離し離貪して、

それで渇愛を滅尽すれば、「寂滅為楽」の境地に至れるという、きわめてシンプルなものである。

ゴータマ・ブッダの教説は、その本質として「非人間的」な性質を有するものだ

…… それゆえに、大悟した後に釈尊は隠遁しようとなさった。それを三度も訪ねて懇切に説得したのがブラフマー神であった。(「梵天勧請」)

梵天によって翻意した釈尊は、この時点では一切衆生済度を思っていたわけではない。機根のよい純粋な一部の者たちは、釈尊の悟りを受容できるかも知れないという希望を抱いたに過ぎなかった。

しかし、最初に説法(初転法輪)した修行仲間の五人は、聞いただけでたちどころに覚ったのである。

35才で大悟、80才で入滅された。その45年間に釈尊が見性(仏性を見る=悟る)に道引いた者は、なんと500人にも上る。阿羅漢となった五百羅漢によって、釈尊歿後すぐに第一結集(仏弟子による仏説の確認会議)が開催されたのである。

 

◾️自分勝手に意味をもたせる、「物語の世界」

なぜ私たちは、「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。

> すべての物語が、愛執が形成するもの

「善と悪」という区分は、基本的には物語の世界に属する

 

>「意味」からも「無意味」からもともに離れることによって、はじめて「物語の世界」を終わらせることができる

仏教の本質は、「世界に」を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある。

 

仏教の第一目的

世界(loka)を説明することではなくて、世界を超越すること

……そこでは「世界」が立ち上がっていない。仏道は思考(哲学)ではなく、あくまでも実践道である。

欲望に基づいて織り上げられた様々なイメージが、我という仮象を焦点として「全体」という像をむすんだのが、

「世界」という物語である。

 

感覚入力によって生じる認知は、それを[ありのまま」にしておくならば、

無常の現象がただ継起しているだけのことで、

そこに実体や概念は存在せず、

したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、

だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては「滅尽」している。

つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。

それは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。

 

 

◾️仏教コトバへの誤解

智慧は、思考の結果ではない

…… 禅定は智慧の前提である。

ある種の、「意」を整えるための身体操作は必要なのであろう。仏道は、実践道に他ならないのだから。

深い腹式呼吸で横隔膜を意識して動かすことによって、不随意筋を連動させたりする。

禅定力は、正しくすべてを受容する為に不可欠なものなのかも知れない。

 

> 「慈悲」の四つの要素

…… 仏教でいう「慈悲(=慈悲喜捨)」といわゆる「優しさ」とは異なる

・慈(衆生に楽を与えたいと願う心)、

・悲(衆生の苦を抜きたいと願う心)、

・喜(衆生の喜びをともに喜ぶ心)

「捨」(平静さ)

 

「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心である

「捨」というのは そうした心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言う。

…… つまり、慈悲には「悟った覚者」のもつ、「大自然と同位に立つ」(J.アダムスキーの言葉)客観的な眼差しが求められるのである。

 

 

__ 上記の引用は総て、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か』より

 

素晴しく光る言葉が、ふんだんに盛り込まれている名著である。

著者の魚川さんは、東大で「西洋哲学」専攻され、東大大学院で「インド哲学」を修めた後に、さらに進んでミャンマー🇲🇲に渡航して、テーラワーダ仏教の実践(修行)に身を任せて、徹底なされた御人である。

まずもって、さすがは東大卒🎓の人材には傑物がおられる。

哲学者の先崎彰容が言っておられたが、いまどきの大学生は「8月15日の終戦記念日」を知っている者が、わずかに二割しかおらず、それが昭和20年の出来事であると知っている者にいたっては皆無である惨状であるそうだ。

わたしは大学に行けなかったので、ネットで発言すると「学歴コンプ」とか揶揄されることもよくあるが、

伊勢白山道のコメント欄📝を見るかぎりでは、まったく劣等感を覚えることがなかった。

あまりにも、知らないのでかえって此方が愕然とするほどである。

やはり学問の本筋は、独学にあるようだ。

なんの疑問もいだかず、外から学ばず、自分に問わない者が多すぎる。学問を愉しむことを知らない。

 

世間の数多ある「バカ田大学」は置いといて…… 

さすがは東大である。

仏教関連でも、20代で既に芭蕉や禅の境地について、卓抜な一家言をお持ちでいらした竹村牧男とか、

永平道元を徹見されたひろさちや、鈴木大拙を世間に広く知らしめた秋月龍珉

三島の龍沢寺で、山本玄峰の法を継いだ中川宗淵老師とか、文武両道と申しますか、頭脳🧠も修行🧘もフルスロットルな才幹が目白押しで心強い。

大学生はそうでなければ生けません。

ちょっとやそっとの独学では追いつかないような、総合的な識見が養われないようでは最高学府の名が泣こうというもの。

もちっと、勉強してほしいものだ。

 

この魚川祐司さんは、ミャンマー🇲🇲に行って、子供時代から長年抱えてきた[違和感]から解放されたから、文筆家や翻訳家としての執筆活動からは、早や引退されたそうです。

[違和感]とは、ハイデッガーの云う「違和感( Unheimlichkeit )」のことで、

「当たり前のことが当たり前でなくなる感じ」

「家🏠にいる時のようにくつろいでいられない感じ」

であり、「不気味さ」と呼ばれることもあります。

岡本太郎の「何だ、これは!」のように、意識に裂け目ができるような、違う次元を垣間見た驚きであり、純粋な感動のようでもあるが、魚川さんの場合、それは随分と苦しかったもののようだ。

周囲の人々の「普通」や「自然」を必死に学習し、そこにある暗黙のルールを表面上はトレースできるようになったとしても、私はそれを本当に心から「当たり前」だと思えるようになったわけではありません。

形の上ではそれっぽく振る舞いながらも、私の心の中には、ずっと「これは何だ!?」と叫び続けるものがあった。

[※『フリースタイルな僧侶たち vol.47』

「特集 仏教が私にくれたもの(魚川祐司)」より

 

…… 彼の半生で、いろいろな苦境は経験しているが、子供時代のその[違和感]に比べれば、何でもないと感じられるほどに憂鬱に覆われた期間が長かったようだ。

子供時代は、その日常のすべてが、この[違和感]とともにあったと云ふ。

そして、その[違和感]を共有し、解決してくれるものを仏教のなかに予感したのが、彼を仏道修行に駆り立てたわけであるようだ。

 

何かのきっかけで、

その「当たり前な感じ」=自明性が剥がれ落ちる瞬間というのが起こり得るそうです。彼は仏教によって、それを成し遂げた。

【魚川祐司さんは、こんな御仁。1979年生まれ】

 

もったいないことだが、ちょうどカソリックの岩下壮一神父が神学の完成よりも、ライ病患者の世話にキリスト者の生きがいを見出されたように、

魚川さんも、もう公的なアウトプットは完了された御方なのであろう。ひっかかりが無くなったというか罣礙(けいげ)無しというのは、そこから心置きなく離れる良き機会なのかも知れぬ。

個人的には、いままで曖昧にしていた仏教学の根本疑問❓を解決することができて、大変感謝している。

津田真一『反密教学』以来の、面白い本筋の仏教書であり、この邂逅に深く感謝するものである。

伊勢白山道の言葉「宗教は無くなります」に啓示をうけて、おそらく最後まで命脈を保つのは仏教だろうと確信してきただけに、

仏教を捨てる前に、根本疑問を晴らしておきたかった。

いまはもう、何のこだわりもない。

かえって、いままで馬鹿にしていた仏教(ただしくは釈尊の仏道の名を冠したセクト宗教)が、初めて愛おしくなってきた処である。

釈尊は、その名に違わぬ、大賢中の大賢である。

かれの叡智を、わずかばかりでも堪能できた仕合わせを喜びたい。まったく、たいしたものだ、子どもの頃に懐いた直観は間違いではなかった。

特撮『レインボーマン🌈』で初めて触れた仏教が、わたしの内で、いまにして成熟しているようだ。

探求の終わりに出発点に到達し…… その場所を知る。

T.S.エリオット、🎞️『あなたを抱きしめる日まで』より)

さだまさしの、50年後に再結成された『グレープ』のコンサートで自然と浮かんだ「なつかしい未来」というものだったかも知れません。

なんら気負うことなく、「宗教は無くなります、必要ありません」と言える自分になれそうだ。

宗教は無くなっても、信仰というものは無くなることはないだろうけれど。

      _________玉の海草

 

 

 

 


(🥛)  乳粥日記 ❶ ❷ ❸ 〜小鼓のような柏手

2023-12-28 01:06:07 | 雑感

⚪️‥‥ 20230101

 “ 小さい仏教と大きい仏教 ”

 

昨今は、東京🗼でも僧衣(袈裟)の坊さんが街角に立って、布教しているようです。

かれらは、日本🇯🇵の伝統仏教(お寺)の僧侶ではない。

スリランカ🇱🇰、ミャンマー🇲🇲、ラオス🇱🇦、タイ🇹🇭などのいわゆる「南伝仏教」の坊さんなのである。

昔は、かれらは「小乗仏教」と呼ばれたが、小乗(小さな乗り物)と呼ぶのは、大乗仏教側からの差別であり、蔑称だということで…… 

テーラワーダ仏教(上座部仏教、あるいは部派仏教)と正式に呼ばれることとなった。

 

日本には大乗仏教しか伝わっていないから、馴染みがないのだが…… 

大雑把にいうと、

・テーラワーダは、自利(個人の悟り)を追求して、

・大乗仏教は、自利利他(すべての人びとの救済)を追求します。

 

テーラワーダは、輪廻転生から解脱する「阿羅漢の悟り(灰身滅智)」であり、

大乗仏教では、衆生済度を目的とする「仏陀の悟り(無上正等覚)」であり、その行動は菩薩行となる。

 

最近になって、テーラワーダ仏教の スマナサーラ長老 が、『般若心経は間違い?』(2007年刊)というタイトルで、新書を出版された。

 

【かなり学問のある人という印象をうけるが、どうも日本で云う「上人」と敬われるお顔ではない。ときどき人相がなあ〜底意地がわるいような、なんとなく怖いお顔である】

 

葬式をとりしきり、墓を守ることで、漫然と生きながらえてきた日本の伝統仏教にとっては、スマナサーラ長老の激しい非難は、おなじ仏教徒からの内内の指摘として、襟を正す機会となったのではあるまいか。

スマナサーラ長老は、哲学の勉強をみっちりされた方で…… 

大乗仏教を産む原因となった、龍樹の哲学については高く評価しつつも、龍樹の仏教僧としての実践(仏道)に対しては烈しく攻撃している。

なぜなら、釈尊は形而上学や哲学を仏教に持ち込まなかったからである。争論のための哲学談義などもっての外だったのである。

それを龍樹は、「空」の哲学を押し立てて、釈尊の仏道を捻じ曲げてしまったというのが、スマナサーラ長老の説く処である。

 

一見するところ、小乗と蔑まれたテーラワーダ仏教が、大乗仏教の到達点である日本の仏教を攻撃している構図なのだが…… 

大乗サイドでは、小乗サイドの仏典や行法も尊んで研究する姿勢をとっているのに対し、小乗サイドでは大乗仏典を一切認めないで、小乗で定めた「お経(パーリ語やサンスクリット語の経典)」しか承認しないのである。

正統に継承されていれば、それもひとつの姿勢と見識とも言えるのだが…… 

スマナサーラ長老のスリランカ🇱🇰のテーラワーダ仏教は、歴史上2回も失伝している

法灯が途切れているのである。

おまけに、テーラワーダ即ち「上座部」を名乗っているが、

釈尊歿後の第三結集において、伝統的な上座部の教えに反対したのです。つまり、上座部の代表的な「説一切有部」から分かれて「分別説部」と呼ばれるセクトとなったのです。

 

「結集(けつじゅう)」と呼ばれる、仏弟子が一堂に会しての「釈尊はこのように仰ったよね」と確認する会議が、100年毎くらいに開催されたが(最初はすべて暗誦による口伝で、文字で記録されることになったのは第4結集から)…… 

やっぱり仏弟子のあいだでも、認識の違いは生まれてきたようだ。

 

釈尊歿後100年で、仏教教団は二つの部派に分裂した。

【上座部(じょうざぶ、保守的な長老たち)】

【大衆部(だいしゅぶ、革新的な一般僧たち)】

[※  部派仏教が国から保護されると、どうしても貴族的な学問仏教になってしまう。いきおい、現実から乖離してポピュラーなものから離れてゆく。そうした状況に不満をもつのは、いつの時代も一般大衆である。

日本でも、比叡山や高野山は貴族仏教だったから、鎌倉の新仏教が庶民に浸透して大衆化させたのであろう。]

それ以降も、分裂をくりかえし、部派仏教と呼ばれるセクトに分かれていった。

最終的に、上座部と大衆部あわせて合計20部派のセクトが出来上がった。

スマナサーラ長老が所属する「分別説部」は、この20部派にも入らない、上座部から異端扱いされているマイナーなセクトなのです。

それでも、そんな部派仏教も次々と滅びて失伝していって、まがりなりにも「三蔵(経・律・論)」が揃っているのは、この「分別説部」だけなので…… 

スマナサーラ長老たちは、まるで上座部の代表のように「テーラワーダ仏教」を名乗っているというわけです。

 

この部派仏教は、二回失伝しているほかにも大きな問題を孕んでいます。

「分別説部」の三蔵は、5世紀のスリランカ🇱🇰僧・ブッダゴーサ(仏音)という人が、個人的に編集したもので、仏教の伝統的な正統性は無いのです。

釈尊の経典よりも、ブッダゴーサの説のほうが権威があるのですから、困ったものです。

最近になっても、マハーシ(1904〜1982)という僧侶の瞑想センターが人気があって…… 

その結果、テーラワーダで行する瞑想は、本来「止観」といわれる

サマタ瞑想(=止)

ヴィパッサナー(=観)瞑想

の二つのうち、ヴィパッサナー瞑想に偏るようになっていまいました。

 

こんなに、仏教教団として問題をかかえているのに、

「わたしたちの説く教えは、釈尊の教えを踏襲する原始仏教である」と主張しているのですから、困ったものです。

テーラワーダ仏教というのは、日本で行われている大乗仏教のことは、釈尊の仏教として一切認めていないのです。

 

何故、こんなにも不完全な「テーラワーダ仏教」が、日本人に訴える処があるのかというと…… 

かれらは、かれらの修行メソッドで「悟った者」を実際に輩出しているからです。

かれらには、仏教修行の実践があるからです。

かたや、わたしたちの伝統仏教である大乗仏教では、高度な理屈でいいまかされることはあるものの、「悟り」や「解脱」にたいして、明確な方法論を持ち合わせていないのです。

私たちにとって、坊主とは宗教実践者ではなく、「葬式仏教」のエージェントに過ぎないのです。葬式担当のビジネスマンに堕してしまっています。

スマナサーラ長老は、「アンガー・マネジメント(怒らない)」の本📕を出版したり、仏教僧として仏説から「生きる智慧」を提供しています。

宗教者として生きているのです。

日本には、宗教者としての坊主が何人いるのか、ほんとに情けない有り様に泣けてくる。

伊勢白山道は、「宗教は無くなります」と予言しているが、そうでなければならないと思う。

現在蔓延っているような「職業宗教者」は本来いらないのだ。

仏教者は、釈尊も云われたように「流れにさからう者」である。だから、世間を出る=出家というのだ。

アウトサイダーであり、アウトローである坊主(仏教者)が、世間から受け容れられるために戒律がある。

日本の坊主は、戒律も自分律ももっていないからね。

こうした大乗仏教の腐敗ぶりを目の当たりにすると、スマナサーラ長老の怒り💢も分かるような気になる。

_ . _ . _ . _ . _ . _   

 

 

 

 

 

⚪️‥‥20231231

 “ 最高の女性ヴォーカリスト、山下達郎にコーラスを教えた無敵の女 ” 

 

わたしらの世代は、フォーク音楽も知っているし、ニューミュージックの黎明から知っている世代だ。

シンガー・ソングライターが出始めた頃に、十代を迎えている。演歌・歌謡曲から〜フォーク〜ニューミュージック〜そのまま洋楽へという、夥しい変化量はそれは凄まじかったものだ。

そのころの象徴的なアイコンといえば、いまも活躍しているユーミン中島みゆき吉田拓郎・井上陽水から山下達郎に続く天才たちの系譜のなかから、彼女が露われた。

はっぴいえんど(細野晴臣、松本隆と親密)・ティンパンアレイシュガー・ベイブでも、コーラスに参加したりしていたから、彼女の声は早くから耳に馴染みのあったものだったんだよね。

あらためて聴いてみると、70年代後半からは、目立ったヴォーカリストだったんだね。

 

ただ、雷⚡️を落とされたような衝撃を感じたのは…… 

1981年に、FMラジオ📻から鳴り響いてきた「TOWN」だった。なんだこのグルーヴは!、黒人そのものじゃないか、ブラック・ファンキーですよ…… 

 

日本人離れした黒人的リズム感覚をもって、鮮烈にデビューした久保田利伸が顕れる、あの「TIMEシャワーに射たれて…… 」がリリースされる5年前のことですよ。

松田聖子のデビューが、前年の1980年でした。

まず、聴いてください。「TOWN」(1981)

【アルバム『Monsters In Town (1981)』の最初の曲が、Town 。2曲目も佳いよ、2. 06:19  Lovin´ You 、美奈子さんは、高揚と抱擁が交互に来ますね。】

 

あの時代、こんな曲聴いたらブッ飛びますよ。

なんか聞いたような、知った名前じゃないかと思って…… 

どんな女なんだと、音楽情報誌なんか見て、ぶったまげましたね。こんな髪型している女は当時いなかった。

根性入っているなと、感服した覚えがある。

ただ、お声は限りなく優しく、包み込むような大母性がある。人間離れしてるんだよね。

 

 

 

キャー♪、美奈子さん、突き抜けていらっしゃる。とんでもない人間力なんだよね。

ミチコ・ロンドンはUK🇬🇧なんだけど、どこか美奈子さんに似ている気がする。

 

ユーミンや中島みゆきからも天才シンガーソングライターと言われていたし、あの生意気な凄腕メロディメイカーで杏里成り金と云われた角松敏生さえ、美奈子姐さんのことは崇めておられる。

大瀧詠一「夢で逢えたら」(1978)も、歌いこなして大瀧を感心させている。

次の「恋の流星」(1977年)もその当時の作品。

 

 

アンルイス「恋のブギウギトレイン」(1979年)の作詞も手掛けている。

 

🗼FM東京『サウンドストリート』で流れた(1980)、美奈子さんと達郎のデュエット。コメント欄📝にこんな書き込みがあった。

> 達郎さんが、日本で一番歌が上手い女性歌手は美奈子さんだと言ってたのを思い出しました。

Niteflyte の知る人ぞ知る伝説の名盤からの一曲だが、SMAPの「がんばりましょう」の元ネタの曲 “ You Are ” もこのアルバムだった。

 

 

この “ If You Want It ” からインパイアされて出来た曲が、誰もの人生を鼓舞するギター・カッティング🎸曲 “ Sparkle ” (1982)である。

【以前貼った動画が削除された🆑から、替わりに2023年の公式MVを貼っておくが、この新しいMVは好きではない。「スパークル」がリリースされた80年代のウネルような陽性の爆発力💥が感じられない。こんな無機質でパステル調の楽曲ではないんだよね。わたしは、「プラスティック・ラブ」に匹敵する「魂を鼓舞する曲」(地面を踏みしめるリズム)だと思うんだよね。

達郎は、サブスクにも手を出さないように、著作権©️にすこぶる五月蠅いアーティスト(アルチザンか?)なんだよね。おそらく、YouTubeで自分の曲を使った気に入らない動画があると、抗議して削除🆑させてるんだと思うんだよ。

金や契約で苦労した達郎だけに、その気持ちや拘りは分からんではないけど、いまの時代感覚ではどーしても狭量に映るのは否めない。ジャニーズ問題でも老害扱いされていたし、恩義を忘れない昔気質の職人そのものですね、ただそこが達郎の良いところでもあるんですね。まー、アーティストは作品がすべてですよね。達郎の替わりは誰もいないものね。】

 

 

 

1978年のアルバムから〜

1. 00:00 愛は思うまま (Let's Do It)  

3. 09:03 時よ (Time)

4. 12:38 海 (The Sea)

【このアルバムは、美奈子さんはあんまり納得していないようなのだが、良い曲が多い。まー、EW&Fが本来の自分たちのサウンドではないと言っていた大ヒット曲『ブギー・ワンダーランド』みたいなものですね。レコード会社の圧力が強かったんだろうね。達郎も当時苦しんでいたもの。】

 

1982のアルバムから〜

1. 00:00 Light'n Up

2. 05:49 頬に夜の灯

4. 14:46

【デュエットの 4.「風」も佳い、渋いし温かい。美奈子さんの純粋な資質がよくあらわれたアルバム】

 

80年代の末尾を飾るアルバム。この頃、美奈子さんのご主人が亡くなって、精神的に一番大変だった時期の作品群。

【2. Gifted 5:23  は、けだし名曲。大聖堂(カテドラル)のミサ曲みたいな荘厳さに厳粛になっちゃう。】

 

 

__ 最後に、90年代の名曲アルバム『EXTREME BEAUTY』(1995)から

3〜4曲目の「Mistic Paradise 9:29 」「Coco 16:15」が心揺さぶられる曲、

竹内まりや「プラスティック・ラブ」山下達郎「スパークル」に通じる、魂を鼓舞するヴァイブレーションが堪らない。

 

__ 美奈子さんも、現在御ん歳70歳になり、ちょっとぽちゃとして、可愛らしくなられた♪

まるで魔法使いのような、深い眼差しをしておられる。

可愛いおばあちゃんになってて、安心する。この御方は、菩薩や如来であっても驚かないであろう。

わたしは、おそらく吉田美奈子を信仰している。

_ . _ . _ . _ . _ . _   

 

 

 

⚪️ ‥‥ 20231227

    “ ぽんぽんと気持ちよく柏手を打つには ”

 

この15年、神前での拍手👏で、鼓を打つような妙音(ぽんぽん)を出せるように、日々試してきたが…… 

ようやくこのごろ、ほぼ確実に鳴らせるようになった。

 

わたしの拍手のやり方は、伊勢神宮の神官の拍手(両手を重ねてから、両掌をずらして拍手した後に、ふたたび両掌を重ねる)とは、異なるかたちになったことを予めお断りしておく。

 

まず、下準備として、

・リラックスするように、揃えた両足のかかとを三度上げ下ろす(合気道で、重心を落とす時に行う基礎動作)。胸のあたりで、てのひらを上にあげてから下におろす(二回)。「意識を下に、重心を下に」、武道の自然体を心する。

・ まず両掌を合せて腕を前に伸ばして真っ直ぐに。そして、心持ち胸元方向に引き寄せる。(拍手👏は、余裕をもって打った方がよい)[20240502. 付け足し]

…… 最初から胸元で掌を合せてもよいが、叩く時に力が入り過ぎるキライがある。肩に力みが入らぬように、身体をほぐしておくと良い。

 

 

  二拝

1)両掌をズラさずにピッタリと合せる。

2)中の三指を揃えてから、

親指を上の方向に小指を下の方向に、すこし離す。

親指と小指の合わせた先を「こころもち」離す。

 

このときに、親指の反らし方が「PON音の鳴る空間」を造る。

[※  掌全体を脱力してゆるませる。但し、ある程度緊張していても両掌の空間の形がよければ、PONと鳴る]

親指のねもと「金星丘」と小指側の「月丘」が軽く接する。

[※   漫画『刃牙』で取り上げられていた赤ん坊の拳の握りがヒントになった。この究極の正拳突きのためのグリップを参考にした]

 

 

3)三本(人差し・中・薬指)の指先のみをかるく接する感じで、掌(たなごころ)の窪みで音の鳴る空間を意識する。[※  掌の脱力か緊張か、どちらでも良い]

4)勢いを念頭にこめて、(10センチ位離して)ぽんぽんと潔く打つ。

左手が「《  」の形で、右手が「  》」の形を取る。両掌の「くの字」の頂点同士を勢いよくぶつからせる感じ。そのとき、両掌の「くの字」で形成される「菱形◆」が両側から押されて、「一本の棒」と化す。菱形の空間内の空気が勢いよく噴出される。

ちょうど井桁を畳むように

それは、ぽんぽんと妙音となって響き渡る。

  ニ拍

4拍(出雲系)や8拍(伊勢系)の場合には、打ち終わったあとに、そっと音の鳴らない【陰打ちを1拍添える】のが定法であるようだ。

  一拝

 

…… ひとつひとつ着実に間違いなく履行すると時間がかかるが、そのくらいの心の余裕と落ち着きはほしい処だ。

かくて、能舞台で鼓を打つときの、ポンポンと明るく朗らかな音色が響き渡るわけである。

掌内の空間を無心に感じとると、妙音の鳴る形というものがあるような気がする。

 

__ ここで参考までに、山蔭神道の表博耀先生の拍手を紹介しておきます。古義に基づいたといいますか古式に則った「音が割れない、竹🎋を割ったような拍手」を詳しく解説してくれています。

【動画の、6:10秒あたりから、両掌をずらす拍手の古義とやり方を実演して下さっています。神社庁の神主の奏でる正統的な拍手の型です】

 

白隠さんの「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案を思い出す。

両掌相打つと、音声を生ずる。

その音を、神をお呼びする声(合図)にしているんだねえ。

神聖な音だから、なるだけ、ぽんぽんと気持ちのよいものにして奉納したいものだ。

小鼓を打った音色ってものは、乾いて円やかで天に達しそうな音だものね♪

     _________玉の海草

 

 

 

 


(🍵) blog 内 twitter 「ここだけの話だが」

2023-12-20 03:22:00 | 人間(魅)力

⚫️大正デモクラシー以降の日本人

 

過去に傷付けられた自認トラウマや、他人から認定(心理学・精神医学)されたPTSDによって、

自ら自分を被害者に認定した人びと、普通の健常者のように厳しい世界に直面できないからといって思いやりを求める人びと……

彼らは、「民主主義」というものを上から賜り、「権利」を主張することを覚えた、にわか民主主義者とどこか似ている処がある。

 

明治の民衆は、彼らとは全く異なっていた。

明治人の特徴は、愚痴を言わない処にある。(何故なら、人生受け身で生きていないからである)

中村天風の「絶対積極」は、明治人の生き方を踏襲したもののように思える。(たぶん、それが人間本来の自然な生き方なのだろう)

 

【中村天風の師匠・頭山満翁の書】

 

 

日本人が、「弱くったっていい、人間だもの」と赤裸々に自分の弱さを語るようになったのは、

大正デモクラシー以降

のことなのである。(「偉大なる」太宰治あたりから)

明治以前の日本人に、被害者意識はあまりなかったようだ。出来ないのは自分であり、他人に救いを求めなかったし、そういう自分の現状を愚痴ることはしなかった。(言い訳は恥という感じ方じゃないかな)

 

これは私見だが、「小さい獲得」に一心不乱な人は、その他のものが得られないことには鈍感である。(たとえば、貯金で目標金額を設定している人は、節約によって他の幸せが手に入らないからといって、落ち込んで不幸になることは少ない)

つまり、明治の人は、獲得や達成に一心不乱であったと言える。それは、命懸けの志だったのである。

 

明治の孫である昭和世代は、そんな強靭な意志に憧れたわけですよね。(到底及ばなかったわけだが)

自分を奮い立たせて、あくまでも前向きに挑む人は、できなくても世間とはそういうものだと割り切って【前後際断して】、けっして受け身になって保護を求めたり、当然のごとく他者の思いやりを期待したりはしないものです。

究極の現実主義者というのが、明治人をいいあらわす言葉であろうか。

 

自律で生きる人は常に現在(現実)を相手にして前向きで、

受身(=他律)で生きる人は過去をくよくよ引きずってループさせる、そんな印象を抱いております。

__ 明治人が、愚痴や言い訳しないのは、徹頭徹尾自分を信じていた(自ら恃む)からであろう。

たかだか100年前の日本人はそうであったことを忘れてはなるまい。

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⚫️ドラマ『いちばんすきな花』を観て感じた、女による男の運用ミス

せっかくの、人間付きあいの「微妙な境界」を扱った珍しい種類のドラマが、藤井風の弾き語りが入ったことで台無しになってしまった。

この人は、日本人なら誰も合わないインド🇮🇳にバカ嵌りした珍しい個性。「GRACE」の動画は、地方の普通のインド人を描いていて、当のインド人から評判がいい。(実に素的な表情をしている)

この伝で、ドラマの主題歌「花」の藤井自身によるMVは、ドラマにそぐわない毒毒しいもの。

砂漠に棺桶⚰️、禍々しいまでに美しい原色の毒華に霊柩車……  自分さがしの旅、「内なる花」とは本当の自分であろう。

考察動画のコメント欄📝に、平野啓一郎の「分人主義」を挙げている人がいた。

本来の自分などという固定された確固たるものは無くて、他人に合わせて発露するそれぞれの自分が、本当の自分であるという注目すべき思想。

ヒンドゥー🛕のアートマン(個我)ではなく、分人とは仏教の「無我」に近い、つまり無常である。

それにしても、

藤井風のあの雰囲気(根源的な野生)で、ドラマにインサートされたら、ぶち壊しですよ、せっかくいいテーマ曲なのに。

 

この演出ミスを残念がっていたら、サイコパスおじさん・岡田斗司夫の云う「男の運用ミス」にもリンクした。

人間という霊長類のデフォルトは、女(雌性)であるということ。

現代の女(おそらく平成以降)は怖気づいてしまって、男と対等に付き合ってしまった。

人間社会において、その男を受入れるか(その男の子を産むか)を最終決定するのは、いつも女である。

 

また、偉大な人物たとえば、

釈尊を産んで育てたのも、女性である。

菩提樹下で瀕死の釈尊を大悟にみちびいたのも、女性である。

つまり、釈尊は女性の分身であると、そういうことなんじゃないかと思います。

女性は全体で、本質的には何も変わらないのでは。

 

女性が本来もっていた、その本能的な智慧を、不自然な現代生活が根こそぎ変えてしまったのだと思われます。

智慧は 思考の結果ではない。

[※  魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か〜 より]

 

女性は色々捨てて、思考を選んだということかな。

> 幸せ以上のことを求める者は、人並みの幸せが得られないからといって嘆いてはならない。(カール・ヒルティ)

…… ヒルティが言及しているのは、厳密には法悦(神人合一)のようなものを求めるキリスト者のことを指しているのだが、

神理に熱中する男性であっても通じそうだ。

女性はつまるところ、現実の「人並みのしあわせ」を求める者なので、形而上学へ向かうのは男性ということになる。

男は歴史上、つねに「おひとりさま」であることを余儀なくされることが常だったものだが(群れのボスになれなくて、あるいは役に立たなくて、群れから追放される)…… 

現今は、女もまた「おひとりさま」が激増している。

人類の大いなる叡智(=智慧)は、母娘のあいだで伝承されなかったのであろう。

男は相変わらずだが、女が様変わりしたのが、現在の少子化の根本原因であろうと思う……  いや、決して女を責めているわけではない。

そうしたい女の自由をさまたげてはいけないだろう。

ただ、それに気づいている女性が少ないのではないだろうか。

もう一度云う、人間のデフォルトは女である。

 

昔の男は、公の席では女の悪口は言わないものだった。

しかし、最近は女性に対して容赦ない一部の人人がいるようだ。この漫才も、笑いに紛れて痛烈に本音を吐露しているかのようだ。

いまが旬の漫才(M-1グランプリの敗者復活戦より)をひとつ、ご紹介しましょうか。

こりゃ、毒舌漫才のウエストランドより天下晴れている、どうぞ♪

 

__ 可愛らしく、ふところに入って、社会的なエクスキューズ(礼儀)は抜け目なく踏まえておくんだね、

この動画は、最後の不意の爆発音が神がかっていますね。女が納得するのは理屈(思考)じゃないんですよ。

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⚫️ 酒井玄蕃(庄内藩)のひととなり拾遺

 

先だって、NHKの磯田さんの番組『英雄たちの選択』で…… 

幕末最強!庄内藩の戊辰戦争〜徳川四天王・酒井忠次の遺伝子🧬

ということで、酒井吉之丞(玄蕃・げんば)が取り上げられた。(『歴史秘話ヒストリア』に続いて二回目)

▼ 関連記事リンク 《玉断》 庄内人らしく〜 悲劇的によく出来た名将 「酒井玄蕃」

 

番組の内容は、ほとんど既知のことで目新しいものとてなかったが、

あの当時の、徳川譜代としての「武士道」や豪商・本間家の莫大な献金で当時の最高峰の軍備を敷けた有様を、くわしく全国に知らせてくれたことと思う。

 

酒井玄蕃了恒・のりつね)といえば、文武ともに頗る秀でて、なんでも出来る御仁である。

新九流剣術・重正流馬術免許皆伝、長沼流兵学、漢詩、書、雅楽、笛…… と、なんでも御座れで文武を極める。「戊辰役二十絶」が知られている。

早熟の天才である。戊辰戦争で庄内藩・二番大隊を率いたときには、わずか26歳であった。

おまけに仁徳も備わっていると来ているから堪らない。

徂徠学が盛んで、自由で批判的精神の豊かな城下町・鶴岡である。

鶴岡衆(つるおかしょ)は、人を評するに文句から入り舌鋒鋭く欠点をあげつらうのが常だが…… 

そんな鶴岡衆にも、陰口をたたかれることなく、初手から諸手をあげて褒められる人傑が、ただ御二方いらしたそうだ。

ひとりが坂尾清風(藩校「致道館」の儒学者)、

そしていまひとりが酒井玄蕃である。

御二方ともに、その夭逝をいたく惜しまれた。

 

庄内武士の表芸は武芸、裏芸は「庄内竿による磯釣り」であった。じつに風流なところがあった、そのへんは映画『たそがれ清兵衛』によく描写されていた。

庄内藩は、「沈潜の気風」といわれた。質実剛健ながらも、一言でいって暗いのである。

そんな庄内藩にあって、若き侍大将・酒井玄蕃は誰からも後ろ指を差されずに、ひとしく敬愛されていたというのだから、恐れ入る。

 

ただ、そうせざるを得ない一面もあった。伯父の酒井右京(庄内藩家老)はお家騒動の末に切腹したのだが、当時の藩主・忠篤公はその累を若き日の玄蕃にまで及ばせなかった。深く信頼されていたのである。

この忠篤公から賜った御恩に報じるために、後年病いをおして清国へ密偵として潜入した。

忠篤公が、留学先のドイツ🇩🇪から帰朝なされたときに、援護できるように新政府の兵部省で功績を上げておきたかったのであろう。

この無理がたたって病死する。(毒殺説もある

享年34歳、駆け抜けた一生であった。

「敬家」と呼ばれる、庄内藩主酒井侯の分家筋にあたる、名門に生まれた玄蕃は常に庄内藩を背負って生きていたのである。

現在でも、鶴岡市は度外れて民度が高く、気難しい土地柄なんだけどね。

 

庄内藩酒井家は、徳川家康と先祖を同じくする三河武士の雄で、幕府の北の守りを任せられた責任感の強い藩である。(まわりは、強力な外様大名に囲まれていて、北の砦と言える藩である)

徳川幕府から任された使命のおおきさに常に直面して、泰平の世ながらも徳川四天王として、独特の「武士道」を保持しなければならなかった土地柄でもある。

幕末の庄内藩は、江戸市中取締役(現在の警視庁のようなもの)を仰せつかっていた。

京都の市中取締りにあたっていた会津藩・松平家(藩主容保は京都所司代を勤めた)も徳川親藩で、庄内藩酒井家と同じような立場にあった。

「会津は、東北じゃないんです」(井上ひさし・談)

会津藩の伝統文化や住民の意識が中央だという意味で言ったものらしい。

会津藩と庄内藩、このニ藩が戊辰戦争で最後まで新政府軍に反抗した。

 

酒井玄蕃が、先祖代々襲名してきた、この「玄蕃」という名前は、軍事を司る職掌を指しており、いわば「軍師」のような役回りを酒井玄蕃家では任じてきたというわけである。

そんな軍事のお家柄に生まれ、何事にもストイックに「武士道」を追求し、士道覚悟を強いられてきた玄蕃は、さすがに鎧兜も超一流品を所有していた。

武田信玄公の御兜は、「諏訪法性の兜」と称されて、甲冑師歴代日本一といわれる名人・明珍信家の作である。

(明珍家は、近衛天皇から「明珍」の名を賜った。鉄の含有量の多い、いたって堅牢な兜を仕上げた。甲冑師5家では最強の頑丈さを誇った。明治の天覧兜割りには明珍の兜がつかわれたために、豪剣・榊原健吉のみがよくそれを成し遂げたわけである)

【信玄公の諏訪明神法性兜、頭頂にはチベットのヤクの毛、獅子頭の前立てに、吹返しには武田菱(家紋)が刻まれている】

 

果して、酒井玄蕃の兜は「大圓山(だいえんざん)星兜」と称して、兜の吹返しに家紋(三ツ葉葵)が刻されている。

そして、これもまた明珍信家の作なのである。

さすがは玄蕃、最高級ブランド品を持ち合わせているものだ。

兜の姿は、法性兜をベーシックにしたもので、獅子頭の前立ても同じ、デザインフォルムも同じである。(残念ながら写真はない。酒田市の「松山文化伝承館」で展示されている)

玄蕃の鎧は、櫛引町(現・鶴岡市)黒川の「春日神社⛩️」に奉納されている。

ただ、戊辰戦争のときに玄蕃がこの鎧兜を着用したかどうかは定かではない。

 

 

__ 最後に、

司馬遼太郎がそのライフワーク『街道をゆく』で、いよいよ東北編に着手しようというときに、本当は庄内地方から書きたかったのだが、どうにも庄内が描けないので、その言い訳を長々と書き記して、ついにあきらめて秋田県から執筆している。

実に正直な司馬遼太郎であり、その直感は正しかったと私は思う。(そうだよなあと私も溜め息をついた)

その言い訳がすこぶる傑作で、庄内というものをよく表しているので引用しておきたい。

 

『街道をゆく』29巻、「秋田県散歩」の冒頭の見出し「東北の一印象」より

> そういう東北へゆく。

どこへゆくべきかと地図をひろげてみたが、なかなか心が決まらない。

ただ、気になる土地がある。
庄内である。
都市の名でいえば、鶴岡市と酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、

上方文化の滲透度が高かった。

その上、有力な諸代藩であるために江戸文化を精密にうけている上に、

東北特有の封建身分制の意識もつよい。


いわば上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
この『街道をゆく』を書きはじめたときから、庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。

 

このところ、この紀行の係がかわった。藤谷宏樹氏から、若い浅井聡氏になったのだが、このひととどこへゆこうかなと話しあっているうちに、

「庄内」

ときめた。が、数日経って、どうもまだ自信がないと思い、庄内も津軽もあとだ、と浅井氏に言いなおし、広大な秋田県地図を撫でつつ、

「ここにしましょう」

といった。べつに理由はない。

古代以来、一大水田地帯だったし、江戸期には杉の大森林と鉱山のおかげでゆたかでもあって、他の東北にくらべると、いわば歴史がおだやかに流れつづけてきた県である。

おそらく気分をのびやかにさせてくれるにちがいない、とおもったのである。

 

…… 末尾に「庄内も津軽もあとだ」と言った意味は、

「東北の一印象」の冒頭でこう云っているからだ。

> ひさしぶりに東北の山河や海をみたいとおもったが、どこへゆくというあてはない。

津軽は、かるがるとした気持ではゆけそうにない。

 

…… つまり、厄介な庄内と津軽は後回しにすると云う意味なのである。

私は、司馬遼太郎に高く評価されているようで嬉しかった。司馬の史観が精緻なのに今更ながら驚いた。

庄内に半世紀住んでいるが、わたしもいまだに皆目分からない土地柄ですよ。

山形県の内陸部(最上義光公と近江商人の影響)とも、秋田県羽前地方とも、はっきりと異なる風土である。

わたしは、上掲の司馬遼太郎の指摘の外に、西暦700年代に渤海国から庄内に一千人規模の移住者がいたという史実にも深く関係すると考えている。(庄内町の狩川にある小野塚のタタラ製鉄集落が怪しい)

司馬が「上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。」と言っているのは、西郷さんとの付き合いを言っていると解釈する人が多いのだが…… 

私は、司馬の著した清河八郎についての中編『奇妙なり八郎』で、よく書き切れなかった経験を踏まえての尻込みだったのではないかと思う。

「回天倡始、維新の魁」といわれる清河八郎が、勅状を賜わった結果、500人規模の浪士を動かせる段階にまで到達したというのに、行動に打って出ることを何故か躊躇い、暗殺者の忍び寄るに任せた、あるいはそれを待ち望んだような素振りのあったことに説明をつけられなかった。(おそらく幼時の、近しい村民が自分の行動によって斬首に追い込まれたことへのトラウマに依るのではないかと愚考する)

▼ 関連記事リンク   《玉断》 庄内人らしく〜 回天の魁、 ド不敵なニート 「清河八郎」

それは、板倉勝静(老中首座、松平定信の孫)の述懐「奇妙なり、八郎」をタイトルにしていることからも窺える。

大阪人でジャーナリストだった司馬遼太郎は、東北人に特有の引っ込み思案や天然の純朴さの如きものについては、把握・共有し切れないところがあったのではあるまいか?

まして田舎の商家(豪農にして造り酒屋)の長男で、武士ではなく郷士であってみれば、庄内藩における微妙な立場もあり、尚更分かりにくかろう。

清河八郎の庄内人らしいエピソードも紹介しておこう。

 

ひとりは、清河八郎の実家・齋藤家のご子孫(八郎の妹御のご子孫)、フランス文学界の大御所だった齋藤磯雄の八郎観である。

文壇では豪傑として鳴らした御仁であるらしい。

[※  澁澤龍彦『日本作家論集成(上・下)』では、「齋藤磯雄」の一章を設けるほどに尊敬していた。二人はしかし相見えることはなかった。澁澤は「会っておくべきだった」と酷く後悔なさっていた。例えば齋藤磯雄が、ラ・ロシュフコオ『箴言録』を訳してしまったが故に、後進が恐れて新訳を出せなかったほどに、圧倒的な翻訳力(詩的な調べも実現した)で知られていたらしい。酒田市の図書館に、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』(齋藤磯雄全訳、三島由紀夫から激賞される)が所蔵されている。]

「刻苦 自ラ 純情」

といふ八郎の感懐(安政3年作、『秋風吟』より)がある。

奉母西遊草を読み了った者は先づ、この語の空しからざるを覚えるであろう。

八郎は断じて、稗史野乗劇小説映画テレビに見るやうな、幕末の風雲に乗じた粗放の一豪傑ではない。

八郎の変幻自在な行動の由って来るところは遥かに世俗の視野を超えた彼方にある。

[※  東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の’ (齋藤磯雄)より]

 

 

 

八郎の人間性の特質は、豪放な一面、多年心にかけていた奉母旅行を実現し、それを克明に記録したところの濃やかな愛情である。

[※ 私注;いつもは漢文で日記をつける八郎であったが、『西遊草』は母が後日読み味わえるように和文で筆記した]

宮島(広島の厳島神社)は聞きしにまさる見事なりと、母の喜びしに、吾これまで遠くいざなひ来たりし益ありと心に喜び、別して酔ひをなしぬ(五月十九日)

となるように、母の喜びを我が喜びとする八郎の姿は実に尊いものである。

> この旅行中、八郎は実によく人に慕われた。

八郎は「愛情の人」

八郎の人間尊重の精神を挙げておかなければならない。

・下婢に帰らる(四月八日)

・馬方話されき(四月二十一日)

・野天は語られき(五月二十九日)

というような言葉の端々にそれが窺われるのである。

[※東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の解説’ (小山松勝一郎)より]

 

文武両道の私塾を開くほどに出来た清河八郎の、「易」を中心軸においた漢学のレベルは、東大大学院並みの教養がなければ読み解けない難解さであるそうだ。(そのために、未解読の文献が膨大にある)家紋も易の八卦紋を使うくらい凝っている。

幕末最強の武力を誇った庄内藩も、薩長中心の正史からは抹殺されている。まったくもって、西郷さんの「王道」に藩を挙げて歓喜したり、西南戦争には加担しなかったりと、幕末明治の庄内藩は傍目から見れば支離滅裂である。(内実は、士道の筋が通っている)

司馬遼太郎はまた、庄内人のすこぶる旺盛な批判精神にも身構えたことであろう。まるで王者の如く威風堂々とまくしたてる処があるからなあ。(大川周明、石原莞爾、最近では渡部昇一や佐高信もそうであろう)

『街道をゆく』では、最後まで「庄内」を書くことはなかった。

司馬遼太郎はつくづく慧眼だと思ったことだった。

      _________玉の海草

 


 MJ を創り上げた 陰の天才作曲家 〜 ロッド・テンパートン

2023-11-28 17:33:38 | 天才列伝

__ 🪦RIP  ロッド・テンパートン(英國生れ、2016年歿)

このお名前を見ただけで気分が上がる⤴️

「ブラック・コンテンポラリー」そのものを創り上げた、抜群のメロディセンス〜

時代に刻印された職人作曲家。

日本🇯🇵でいえば、アイドル育成職人、名人芸を遺憾なく発揮なされた筒美京平のような御仁である。

 

ご自身は、ディスコ時代に流行ったグループ『ヒートウェイブ』のキーボードだったのだが……

ヒット曲「ブギー・ナイツ」を聴いたクインシー・ジョーンズが一目惚れして、何度もしつこくラブコールを送りつづけて、ものにした秘蔵っ子作曲家なのである。

クインシーは、欲しい人材(才幹)はすべてクインシー軍団に引き入れた。唯一の例外が、ルーサー・ヴァンドロスで、後年までも引き抜かなかったことを後悔したらしい。

 

そのクインシー軍団のなかでも、あくまでも裏方に徹しながらも、その抜きん出た作曲の偉才で燦然と輝いてやまないのが、ロッド・テンパートンである。

 

 

音楽ジャーナリスト・林剛氏によれば、クインシー・ジョーンズの自叙伝のなかで、ロッドはこう評されている。

 

〈真に最高のパートナー〉

〈戦場で誰もがそばにいてほしいと願う強者のような存在〉

〈常に完璧に準備し、戯言はいっさい口にしない〉

クラシックの作曲家の資質をもち、旋律や対位法に優れた才能を発揮するソングライターの最高峰〉

 

 

…… 複数のメロディーを独立して鳴らしながら美しい旋律をキープしてめくるめくようなグルーヴを生むロッドのアレンジ技法は、アーバンで洗練された 〈キラーQ軍団〉 のバッキングによってさらに真価を発揮していく。その究極がマイケルの “Rock With You” だったのではないだろうか。 by林剛

【この曲は、アルバムバージョンの3:41秒版でないと、美しい間奏を聴くことが出来ないのだ】

 

 

華やかなスター相手に万人受けする曲を作りながらも私利私欲とは無縁だったロッドは、徹底して音楽職人であり続けた。また、優れた作曲家であると同時に優れた作詞家でもあったロッドは、あらゆる状況に対応したリリックを書けることでも知られ、例えばクインシーの “Slow Jams” のようなブラック・ピープル向けの濃厚なスロウ・ジャムでも単独でペンをとっている。

言ってみれば 〈白人離れした〉 クリエイターでもあったのだ。 by林剛

【しかし、画面のクインシー御大に葉巻の似合うったらないね♪】

 

 

 

まー、音楽🎵というものは聴いてもらった方がはやい。

一聴すれば、これはロッドの楽曲だと即座にわかる。

ムーディで格調高い、オーケストラのような壮大な物語性が展開される、最高度に洗練されたなかに黒人のもつグルーヴ感も併せもっている、意表をつくアレンジが異世界に誘なってくれる、間奏や転調が華々しく、さいごまで極上の薫りにつつまれて終わるパーフェクトな仕上がり……

 

多感な時期に、あなたの「ブラックコンテンポラリー」に溺れて育った私は、仕合わせでした。

[ ※ ブラック・コンテンポラリー=結局のところ、白人が共感できるブラック・ミュージックのことだった ]

当時、カセットプレイヤーで鬼リピートするのは大変でしたよ、何十回と疲れるまで止めないのですから。

その頃、心身ともに奪われる楽曲が多かった80年代です。

後年にソングライト・クレジットを改めて見ると、これもロッド・テンパートンの作曲か、これも、これもかと呆れたものです。

 

これは、ロッドならではの作品で、他の追随をゆるさない佳曲をYouTubeにリンクしました。

どうぞ存分に、ロッド・テンパートンのサウンドに浸ってみてください。

 

 

 

●Songwriting creditswikiより、一曲加筆)

 

Heatwave :

"Boogie Nights," "Always and Forever," and "Ain't No Half Steppin'," from Too Hot to Handle, 1976; "The Groove Line" and "The Star of a Story" (covered by George Benson on Give Me the Night, 1980), from Central Heating, 1977;

"Razzle Dazzle" and "Eyeballin'," from Hot Property, 1979; "Gangsters of the Groove" and "Jitterbuggin'," from Candles, 1980;

"Lettin' It Loose," from Current, 1982; and more

 

 

Michael Jackson :

"Rock with You", "Off the Wall," and "Burn This Disco Out," from Off the Wall, 1979;

"Baby Be Mine," "Thriller," and "The Lady in My Life," from Thriller, 1982;

"Someone in the Dark," from the E.T. the Extra-Terrestrial audiobook/soundtrack album, 1982; and "Hot Street," an outtake from Thriller

 

 

☆Rufus :

"Masterjam" and "Live in Me," from Masterjam, 1979

 

 

The Brothers Johnson :

"Stomp!," "Light Up the Night," "You Make Me Wanna Wiggle," "Treasure," "All About the Heaven," "Closer to the One That You Love," and "Celebrations," from Light Up the Night, 1980

 

 

 

George Benson :

"Love x Love," "Turn Out the Lamplight,"  "Give Me the Night", and  “Off Broadway” from Give Me the Night, 1980; "Family Reunion," from Songs and Stories, 2009

🔗Love X Love(邦題:「愛の幾何学」、う〜む渋い♪)

🔗Give Me the Night

🔗Off Broadway

(この佳曲は、神の傑作 masterーpiece だとおもう。洗練された大人のグルーヴ)

 

 

 

Patti Austin :

"Do You Love Me?," "Love Me to Death," "The Genie," and "Baby, Come to Me" (with James Ingram), from Every Home Should Have One, 1981

 

 

Bob James :

"Sign of the Times," "The Steamin' Feelin'," and "Hypnotique," from Sign of the Times, 1981

 

 

☆Herbie Hancock:

"Lite Me Up!," "The Bomb," "Gettin' to the Good Part," "The Fun Tracks," "Motor Mouth," and "Give It All Your Heart," from Lite Me Up, 1982

☆Donna Summer:

"Love Is in Control (Finger on the Trigger)," "Livin' in America," and "Love Is Just a Breath Away," from Donna Summer, 1982

 

 

The Manhattan Transfer :

"The Spice of Life" and "Mystery" (covered by Anita Baker on Rapture), from Bodies and Souls, 1983

🔗Mystery

(この圧倒的な情緒、ゴスペル・シンガーだったアニタ・ベイカーが歌うとまるで「讃美歌」である)

 

 

☆Mica Paris:

"You Put a Move on My Heart," "Love Keeps Coming Back," "We Were Made for Love," and "Two in a Million," from Whisper a Prayer, 1993

Siedah Garrett:

"Grooverre of Midnight" (originally a demo for Michael Jackson's Bad), "Baby's Got It Bad" (a rewrite of "Got the Hots," an outtake from Thriller credited to Michael Jackson and Quincy Jones on the Japanese edition of the album's 25th-anniversary reissue), and "Nobody Does Me," from Kiss of Life, 1988

 

 

Quincy Jones :

"The Dude," "Razzamatazz," "Somethin' Special," and "Turn On the Action," from The Dude, 1981;

"The Secret Garden (Sweet Seduction Suite)" and "Back on the Block," from Back on the Block, 1989;

"Slow Jams," from Q's Jook Joint, 1995, which also features covers of "Rock with You," "Stomp!," and "You Put a Move on My Heart"

🔗Stomp!

(このグルーヴには脱帽した、まるで意気消沈してる時でも身体が揺さぶられる。ブラザーズ・ジョンソンの「ストンプ」と比べても、まるで別物の感すらある。クインシーのプロデュースはここでも冴えている)

【まったく、悪い顔相している。大御所クインシー・ジョーンズは、かつて魔性の美人女優ナスターシャ・キンスキーの伴侶だったことがあるんだよ、モテるんだねえ♪

ジブリ音楽の巨匠、久石譲の名前の由来が、尊敬するクインシー(くいし=久石)・ジョーンズ(=譲)をもじったものだと聞く。クインシーは、もともとジャズ・トランペッターだったはず。やっぱり目立つのが好きなのかしら】

 

 

☆James Ingram: "One More Rhythm"

☆James Ingram and Michael McDonald: "Yah Mo B There"

☆Michael McDonald: "Sweet Freedom"

☆Klymaxx: "Man Size Love"

☆Jeffrey Osborne: "We Belong to Love" (also produced by Temperton)

☆Aretha Franklin: "Livin' in the Streets"

☆Javaroo: "Change It Up"

☆Second Image: "Lights Out"

☆Stephanie Mills: "Time of Your Life," "Hold On to Midnight"

 

 

Karen Carpenter :  「カーペンターズ」の妹御

"Lovelines," "If We Try", from Lovelines, 1989, and Karen Carpenter, 1996

 

 

☆Wayne Hernandez:

"Dancin' on the Edge," "Let Me Call You Angel," "Fazed Out"

☆Tori White: "Make It Home"

☆Lââm:

"Fais de Moi Ce Que Tu Veux", "Love's in the House Tonight"

☆Mýa: "Man in My Life" (cover of Michael Jackson's "The Lady in My Life")

LL Cool J featuring Boyz II Men: "Hey Lover" (listed as cowriter due to sample of Michael Jackson's "The Lady in My Life")

☆Angie Stone: "Lovers' Ghetto" (listed as cowriter due to interpolation of "The Lady in My Life")

☆C+C Music Factory: "Share That Beat of Love" (listed as cowriter due to interpolation of "Rock with You")

☆Mariah Carey: "I'm That Chick" (listed as cowriter due to sample of Jackson's "Off the Wall")

☆Various Artists: "We Are the Future"

 

 

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__ 思えば、ロッド・テンパートンが他界なされた2016年は、大変ショッキングな年であった。

わたしの精神を型作った恩人といえるミュージシャンが次々と亡くなった。

 

モーリス・ホワイトは、ブラック・ミュージックの扉🚪を開けてくれたひと、プリンスは高校生の頃から聴いている。(渋谷陽一の『サウンド・ストリート』が初聴だったかな)

 

ブラック・コンテンポラリーの醸し出す「アフリカン・ビート」に、当時心身ともに陶酔したのだ。

音楽関係者から、天才と称賛されたロッドの職人技も、アフリカン・ビートとクラシック・オーケストレーションが融合された稀有な稟質をかねそなえていた。

黒人以上に、黒人の魂がわかる白人‥‥   ロッド・テンパートンの蔭働きは、音楽の歴史を動かしたのである。

メロディーにはとことんうるさい私だが…… やっぱり最高峰に位するのはロッドの楽曲かしらね。

ハイセンスなのに、人間性・徳性も高いのよね。(抜けたヒートウェイブには、後々まで楽曲提供している)

     _________玉の海草