
「釈迦に説法」といった言葉を聞きますが、これが正式なことわざや格言と思っていたらだいぶ勘違いしやすいと思います。
あまり有り難くない意味で使われているとも聞きますので、それは明らかにおかしいと疑問に思わなければなりません。
これは確かに釈迦が説法するのはわかりきっている・・かと言って耳にタコができるほどだと喩えればあからさまに失礼ですね。
インターネット上で調べる限りでは意味がないことや釈迦に対して他が説法を聞かせるのは逆であり、それこそ失礼に値するなどに解釈されているようです。
ところで、そういった意味でしたらあまりこだわりを持つ必要はないと思います。
なぜならば釈迦はとても大らかな性質で説法を逆に受けたからと、その間違いをとやかく必ず正さなければ世の中がおかしくなるなどとは考えないと思うからです。とかくこのようなことなら本人で知れば正せることだからです。
つまりあまり神経質に考えず、大らかな判断で考えてみましょう。
ラフな感覚で思いつくことは「鬼に金棒」「馬の耳に念仏」「死人に口なし」・・など、釈迦はもう現実にはこの世に姿は亡くなっていて、その虚像に向かって何を言ってもその反応こそ願う者もなく、ただ聞き入れてくれている対象と思うだけでしょう。そこでもしその釈迦像が喋れたら便利で有り難いなあと思えますね。
それこそ現実に今は喋らぬ釈迦に説法が備われば完璧な演説を普及してくれるでしょうね。これこそ鬼に金棒ということです。
ところで鬼には金棒が似合った必需品で、それを持つことで鬼自体を超えた最大な力を発揮できるということですね。
ですから釈迦から説法をとったらただの物言わぬ仏ということで、釈迦のイメージを特徴づけるのは何より説法の巧みさが最大に重要アイテムということになりそうです。
釈迦以前の昔から仏とはただ何も言わず見守っていてくれる、つまりじっと動かず修行を重ねている姿が何より仏の有難味と第一印象だったのでしょう。つまりあれこれ余計と思えることまで著しく様々に説教した仏とは実は釈迦仏が初めてだったと考えてよいのでしょう。