建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

誰も教えてくれない家づくり、その契約の重要なコツ!

2016-09-19 20:13:09 | 生活経済

家づくりの契約はすべて同じではない!
  
家を造るということは、誰にとっても一生の財産だけに簡単には判断できませんね。
ところで、その重要な家づくりを依頼する契約のことですが、最も手間のかからない簡単な方法としては皆さん、全国に名の通った住宅メーカーにさえ依頼すればそれで一流の家づくり契約ができると思っていませんか?
  
確かに国内でも有名な住宅メーカーなら、その住宅そのものの品質基準に関しては世界にも稀な超一流の物件的価値といえるでしょう。
しかし、それは物の価値観のことであって、勘違いしてはならないのはたとえ全国メーカーであろうと全くの他人である事業者との間に資産契約という重要な約束事を行なう当事者関係として最も適切な相手かといえば、決してそうとは言い切れないということなのです。
   

なぜ官庁ははっきりしない?
 
そういう意味で私がここでお教えしたい建築契約上のちょっとわかりにくい重要なコツとは、万が一のためにも分散型ポートフォリオによる複数相手に対する契約方式が絶対お薦めという結論なのです。
一般には知らされてませんが、住宅の建築行為に限らず契約行為というものはただ当事者が1対1で合意がなされればそれで確かに契約は成立するとうたわれているために、それをそのまま鵜呑みにされてしまい、それはただ基本的な契約概念に過ぎないということを知らないままに、多くの契約行為がそれで全てであるように済まされているのです。
  
つまり、1対1の信頼力だけでは、それも家づくりなどのようにその契約をするにも内容は複雑すぎて、その家づくり全般一式、つまりお互いの契約の仕方やルールまでをすべて事業者任せにしてしまうのがごく一般的なことのように錯覚させられているとうことです。
結論は、家づくりの契約は1対1では決して成立しないのです。
そこで私がお教えしたいのは、ほとんどは誰も教えてはくれないし、まして管轄官庁の建築部署ですらも教えることは無かったことなのです。
  

  

誰も教えてくれないのは何故?

 
その重要なコツの秘訣とは・・
実は家づくりのその未解明な謎とはそもそも官庁申請の在り方にあるのです。
これは新築であっても増改築リフォームであっても官庁申請の必要のある場合はみな同じです。
つまり、建築の場合は確認申請といって工事図面を添付した申請書を届け出て、一応、管轄官庁のチェックを受けることになっているきまりです。(※「建築確認申請」というものであって、誤解しやすいのは建築許可の申請などないですので要御注意!)
この申請書の届け出にはどういう謎があるのかといいますと、申請人の名前を記入する欄があって、通常は申請代理人として建築業者名が設計業務などを兼ね合わせて記入されますので、通常は関わる設計者がその申請代理人となるのが通例です。
 
ところがこれはあくまでも便宜的な成り行きや習慣上のことです。
申請人欄は官庁にとってはとりあえず誰でもよいので、本来なら家の建て主自身が申請書を書ければ自ら申請人となるところですが、実際には難しいので建築業者、それも特に設計業者が代わっているのです。
ところでここが、建築業者の曖昧なところでして、申請人よりも大事なのは設計者や工事業者のことだと思い込んでいるところなのです。
  
とても大事なこと!?
  

ですから、この大事な申請人こそ疎かにしないことが住宅建築主側が決して見落としてはならない重要な契約スキルに相違ないということです。
ここが契約とは当事者が対等ということであり、申請を自分で出来なければそれを代わってくれる大事な申請代理人を誰に定めるかをしっかり建築主の判断で決めることが重要なのです。
つまり、この法定な代理人とは極めて重要な責任者です。
なお、その重要な代理人を誰にしようにも結局のところ、建築申請に関する代理人であるために通常は建築設計と工事業務の責任全般をよく熟知している人物にほぼ限られてくるでしょう。
  

 
ということで、最終的に誰を申請代理人に定めるかの唯一の答えをお教えしましょう!
それはご自身が建設する家のある地域にほぼ近い所にある一級建築士事務所の所長級に直接、地元官庁への申請代理人の役割だけ(設計図面作成や工事監理の担当責任は有っても無くてもどちらでもよい)を頼むということです。
ここで何より大事なのは一級建築士に頼むということです。
つまり、二級建築士や木造建築士ではたとえ技術的なことはプロであったとしても、本来の契約業務や官庁申請手続きに関してはほとんど無知と考えても間違いないくらいなのです。
 
つまり、住宅品質面の良さで大手住宅メーカーを選び、さらに設計図面類や業者手配もそのメーカーにすべて任せるまでは大丈夫です。
しかし、その住宅メーカーが確かに自社だけに一級建築士社員を多く抱えているかは定かではなく、ほとんどは見習社員のような二級建築士程度に図面から官庁申請手続き、現場監理まで責任もたせてやらせていることが多いわけで、重要な監理は秘かに外注事務所に下請けさせているのは業界内で許容済みなはずです。
  
つまり、そんなお客に秘密な個人情報のやり取りにお客側から不安で指摘する人などは皆無に等しいでしょう。
ですから最初からお客側で対策を作ってから、その後に契約しなければならないのです。
実に大切なその対策のコツのことですが、申請書作りとそれを提出する官庁手続きだけを地元近くの一級建築士事務所へ依頼することは十分可能なのであって、それこそがお客側が契約前にやっておかなければならない大事な折衝と打ち合わせなのです。
   
しっかりした地元の一級建築士でしたら、その申請業務だけでしたらほんの数万円程度で引き受けてくれると思います。
なお、その地元の一級建築士としての内情で遠くの元請住宅会社と取引上は下請け役割としての申請業務だけを引き受けるケースもあり得ますが、とにかく地元官庁への申請代理人としっかり記される限り、万が一のトラブルがあってもお客側自身が地元官庁へ掛け合えば、その申請代理人の一級建築士がいつでも全責任で対応するよう官庁が必ず仕向けてくれることでしょう。
  

  
ところで、以上の方法が実に一番理想である契約の仕方なのですが、現実はあくまでも元請の大手住宅メーカーと地元の一級建築士事務所の両者をお客の力でいきなり取り組ませることは少々難しいものとも考えられますね。
そのためにも、事前に地元での建築事情をよく知っておくと共に地元の一級建築士と何らか予めの知り合い関係などのコネを作っておく必要があるといえます。
  
なお、その申請業務だけの役割は知り合いや身内関係等の建築士でもよいでしょうが、その場合にも一級建築士という資格保有と設計事務所設立の経験者レベルであることが最低限必要といえるでしょう。
それだけ、建築申請の代理人になれる人物はただ設計図面や工事監理だけできる通常の建築士よりさらに自立して、かつ公平中立に契約をまとめれるだけの高度な技量が必要だからなのです。
 

仏とは何でも許してくれるものなのか?

2016-09-01 13:24:08 | 生活経済
私たちは物心のつきだす幼い頃には、親や祖父母から仏さまというものがいて、私たち一人一人の日常をちゃんと見ているのだから正しく生きないといけないと教えられてきているのではないでしょうか。
そして、この世の私たちの側には見えなくても、何か悪いことをすればしっかり罰が当たって牢屋へ入れられたり、地獄へ落とされることになるとも教えられ、正しく生きれば天国へ行くことができるよう、しっかり仏さまは見ているのだと教わっているのではないでしょうか。
   
それに対し、神さまというイエスキリストなどの信仰も別にあって、そこにはアダムとイブの物語があり、二人はエデンの楽園から追放されていくという、子どもには何のことかとてもわかりにくい大人の社会において「人は皆罪人である」と言ってキリストは処刑の代表になることを選んだという興味深い教えがあることに対し、子供なりに知らずとも心を打たれた記憶があるのではないでしょうか?
  
このように神様と仏様を比較したら、何となく神様への信仰の方が特殊で難しい思いがしますね。
そして、難しいことだから尚のこと自然に疑問が湧き続け、興味が出てくるということもあり、習慣づいて目指すべき目標ラインのようにも考えられやすいのではないでしょうか。
なお、その現代のキリストなどの神信仰に対し、日本においてはさらに仏教の宗教団体の活動もたいへん盛んにおこなわれてきましたね。
そこで、その仏教の宗教団体のほとんどは日本国の憲法の保障する宗教の自由において国への団体登録制度が設けられていることによる国指定の団体運営であることをご存知かと思います。
   
実は私も今までいくつかの仏教団体に加入してはその都度に各団体で発行している仏教経典を与えられてましたが、中でも特に日蓮聖人の教えによる法華経を主経典としている団体による、その経典の初めに読み上げる回向文にはいくつかの団体で共通の次の言葉が書かれてあります。
   
『我の心得違い。思い違い。知らず識らずに犯したる罪咎は。霜露の如く作さしめ給え。・・・・家内一同の者。我の心得違い。思い違い。知らず識らずに犯したる罪咎を赦(ゆる)し給え。・・・』
  
この文は法華三部経の本来の経文と共に交え挿入され、経文一体の前文のように示されていますが、この部分だけは実は法華三部経の実際の経文の中には無い言葉なのです。
この一部の指定宗教団体の共通かつ特有と思える挿入文は、だれにもどんな間違いや罪もあり得るから、それを忘れさせ許してくださいという意味であると思います。
   
よって、本来の法華経のすべての経文内においては、勘違いや罪は無意識であろうと意図的であろうと仏様の力で許して無かったことにしてくれるということはないのです。
ですから、犯した間違いや罪は故意・過失に関係なくいずれそのまま結果としてその者に必ず現れてくるというのが仏の真実の教えなのです。
   
つまり、過去からの因果が生ずることに対し、その改善に迫られるのが私たち個人個人の自主責任においてその者の持つ能力に応じて解決を図っていくことが修業である真実を覚えていくことなのです。
そして、個々ではその改善の難しさゆえに仏が改善の知恵を授けてその者の持つ実力を助けるということが正解なのです。
   
宗教の難しさは、神信仰であろうと仏信仰であろうと、そのための修行とは過去の行いへの懺悔など反省が主に促がされるものなのか、それとも未来へ前進する成長を強く促がされるものであるかの判断は、どちらの心掛けが尊いかなどは二つに一つ、誰もが最も迷いやすく、難しく、そして興味深いところだと思います。
その点で、仏教の中での法華経という経典とは特にその反省と成長、つまり過去と未来が同時期に一緒に達成されるという極めて他のどの経典に比較しても無い、独特珍しい不可思議効力であるとして仏教経典の中のもっともすぐれた第一とされている所以であるのです。

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