goo blog サービス終了のお知らせ 

建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

出世のすすめ、善い人間も悪い人間も世界平和の達成

2018-05-15 15:47:33 | 仏法
仏教
善い人間も悪い人間も出世さえすれば世の中のためになるのです。
世のため人のためになるのは出世を果たせた後の結果に因るものです。
お釈迦様は先ず自分自身のために出世を目指すことを指導しています。
それは、最初から心掛けて世のため人のためになろうと意気込んで目指す者こそいつまでも出世が出来ていないためです。
なぜかといえば、正直に世の中や他人のことは自分自身の事より難しくて当前なのであり、当初から必ず慎重にならざるを得ないからです。
...

そして、それはすでに先に出世している者の影響力にあやかることと同じであり、出世を目指す自分自身にとっては躊躇の始まりだからです。

だから、お釈迦様はそのような余計なことを菩薩には教えないのです。
出世を目指すことはお国の為なのではなく、
自分自身の為なのであることを思い立つ、最も手っとり早さが必要なのです。
そして、仏教で一番大事に考えられている慎重度の必要性すらもすべて自分自身の為なのです。

自分自身の為に思い付く、それが仏教なのです。
だから、他人へ教えてあげることは最も自分自身の為になるという大宇宙の真実こそが教えです。
 
ぶっけんの法華経済ぴらみっど

凶暴女人グループによる仏道守護〈陀羅尼品〉

2017-11-26 12:34:53 | 仏法
今品の十羅刹女という十人の凶暴な女人修行者は、いわゆる敵対に対する始末屋集団なのです。
これら女人修行者たちはグループを組み、その凶暴手段を用いて仏道修行への過酷な妨害に悩む一人一人の法師を守り抜くことを新たな宿命として自主的に編成され、さらにその行為を仏に認められた防衛組織なのです。
仏教においてこのような凶暴手段を用いた防戦を行なってよいのか?と強烈な疑問を生じると思いますが、この必要性を最初に仏に申し出たのは自らの焼身供養を仏に奉じた薬王菩薩でした。
 
私は近年、地域的な孤立無援による自殺があまりに多発していたことに対し、地域の自殺対策講習会などが開催され、そこへ幾度か参加したことがあります。
その講習会では地域の自殺対策を自主的に興味深く知りたい有志の人々が集まることで結構和気あいあいと様々な質問や意見が交わされていました。
その活発な意見交換は必ず地域のためになることですし、私はとても望ましい対策であると感じていました。
しかし、実際の自殺防止活動となる場合に、その活動組織づくりと運営自体が究極の難しさがあることに気付かされたのです。
 
どのような難しさがあるかと言いますと、地域としてはこれらの自殺防止対策の講習を精神医学医師へ依頼しているのです。
つまり、今すぐにも必要と考えられる地域自殺防止ネットワークづくりのための皮きりとなるこの講習会ですので、その求められているネットワークは講師の精神医学施設を保持している医師などの学識経験者が中心になる活動組織を意味するようです。
ところで、こういう動きに対し、これとまったく同じような助け合いネットワークづくりとしては、そもそも古くから地域に目指し存在している各寺院とその檀家グループ、その他、地域の神社の氏子崇拝グループが今後も義務的に、かつ有力に手掛けてきていくべきこととも言えるからです。
 
よって、それら旧来からの地域的な人道保護と助け合いによる住みながらの連携こそをその古くからの習慣として持続させていくべきことであり、その基本体制と心掛けを止めたら地域の寺院も神社も長い歴史に対し遂に幕を閉じるしかなくなることが結論と言えるからです。
長い物には巻かれろと昔から云われますが、その長い物の組織にこそ古くから十羅刹女のような防衛集団が存在しながら見守り、とかく孤立無援となりやすい寺院住職や神社神職の立場を守護してきていた秘密があるからです。
 
ですから、地域一般の孤立者を平穏に守ってあげるには寺院住職や神社神職との密接な連携と相談関係にないことには自殺防止ネットワークづくりはほぼ成立しないと言っても良いのではないでしょうか。
 
今日は少し長くなりましたが、陀羅尼品の凶暴な始末屋集団でありながら存在する十羅刹女のお話をさせていただきました。
 
(ぶっけん 成安田)
 第7-26日 Vol.194  爾の時に羅刹女等あり 【陀羅尼品第二十六】(四十二~五十行)

良いことも悪いことも因縁は神のみぞ知るのか?〈薬王菩薩本事品〉

2017-11-23 09:02:48 | 仏法
因縁というものは恐ろしくもあり、また不可思議な可笑しさでもあるようですね。
このように何となくそそっかしさを感じさせる、今日の薬王菩薩の前身の一切衆生喜見菩薩ですが、なぜ自ら身を燃やして捨て去るようなことまでに至ったのでしょう?
 
私たちは日ごろ、何気なく過ごしているようであっても、様々な奇怪な事件や悲しい事故などのニュースを知らされながら一生涯を過ごしています。
そういった私たちが自然に日常知る限りのあらゆる他人と思える出来事は何等かそれを知る私たち各々にとって、過去世に関係したかつての因縁が現世に現れているのかもしれないのです。
 
ですから、あらゆる知ることが他人事ではなく、今、インターネットやTVを通じて世界中に知らされる出来事が同時に多くの誰にも伝えられているというこの現実は、何を物語っているのかを先ずは知る必要があるでしょう。
それはその無量の情報の中から、どうしても自分に関係した情報をすぐにも感付いて探し出さなければならなくなった現代への警笛なのかもしれません。
 
つまり、かつての私たちが過去のことにあまりに無関心すぎたためかもしれませんし、また、有ること無いことの偽装な話が流行りすぎたためかもしれません。
 
ところで、薬王菩薩の前世の姿の一切衆生喜見菩薩の身を捨てた覚悟の話に皆さんは歓喜や隨喜ができますか?
もし、素直にそれができた方なら、この法華経を自分で修行していける人だと思います。
自分で、と言うことは佛に救済の負担をさせず、逆に仏を安樂させる供養ができるということです。
 
ところで、今の世の中は無量の情報が氾濫しているといいましたが、このありとあらゆる無量な情報の中から自分にとっての何かを得るために泳ぎ渡ることが無量義なのかもしれませんね。
世の中は自分だけにふさわしい情報を得たいと誰もが考えますが、各々がただ自分だけにと思っていたら、その一人一人の相に従ったあらゆる多種多様に工夫された方便説法を作りだす仏のほうもいちいち大変です。
 
だから私たちは一人一人にふさわしい情報がしっかり行き届きにくく、津波のような氾濫の中に漂っているだけなのです。
それが当たるも八卦な神様の主なる支配下のこの世界なのです。
ですから、その神様と有力な信頼関係を築ける者だけが大きな徳を得れるのがこの世の中の現実というものですね。
 
よって、是非とも、そのためには仏の智慧、つまり真実の神へのガイドブック或いはガイドラインやガイダンスが必需だということでしょう。
 
 
今回も最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
 
末永くご愛読いただけますよう、また無料メルマガの「ぶっけんの毎日ホッ法華経!」を何とぞよろしくお願いいたします。
 
                        (ぶっけん 成安田)

立宗記念日の日蓮聖人さまを拝して

2017-04-29 17:26:16 | 仏法
日蓮聖人がお生まれになった1222年の前年1221年には承久の乱がありました。
この戦いの原因と結果こそが決定的に日蓮聖人を立正安国論へと駆り立てて行った最大の動機だったのです。
ところで、この戦いは日本史上稀にみる国を司る政治権力が時の天皇軍側と幕府軍側とに二つに分岐して奪い合う熾烈な天下分け目であったことは実際のところあまり多くは知られていないのではないでしょうか?
そして更なる謎は、なんとその乱で幕府軍の北条氏が天皇軍を敗北に追いやって国の政権を完全に奪い取ったという史上最大の革命的で不可思議な権力達成の事実のことです。
 
また、1192年に天皇政権を廃し、初の武家政権による鎌倉幕府が源頼朝により始まりましたが、実質上の武家政権で国を握ったのは執権北条氏であり鎌倉幕府設立者でありました。
ところで、かつて平家一族の反乱で初めて天皇を勝ち取った武士としては平将門が有名で、武士として天皇の座をものにするという快挙を得ましたが、それは武家政権で国を築けたのではなく、あくまでも天皇政権を勝ち得ただけであり、本当に武家が天皇政権をはく奪し国政治の支配権を完全に獲得したのは鎌倉幕府が初めてだったのです。
 
その1185年に起きた源平合戦の壇ノ浦の最期の戦いとは、天皇勢が平家側に付いたままに源氏との戦いに負けたのであり、その時、源氏勢力に押された天皇勢率いる平家一門はまだ幼くして即位した安徳天皇がいました。
すでに勝ち目を失った天皇勢は平家と共に壇ノ浦の船上において追い詰められ、その時7歳の安徳天皇はついに祖母と母に抱えられたまま入水し、御崩御されたということです。
なお、承久の乱についてですが、そのように武家に国の政権を奪われた天皇一族は当然の如く反乱を起こし鎌倉幕府を討つための兵を挙げて挑んだのです。
 
しかし、ここに時の天皇勢が初めて自ら兵を挙げて戦争を起こし、そのうえに即座に完敗という考えられないことが起きたのです。
その結果、今度こそ国を決定的に勝ち取った幕府勢力は、乱の決着わずか2か月後にその時の順徳天皇を佐渡へ島流しにしたうえ、乱の首謀格の後鳥羽上皇を隠岐島へ、土御門上皇は自ら望んで土佐国へ各々を島流しにしたのでした。なお、後鳥羽上皇は順徳天皇と土御門上皇の父親でしたから親子バラバラに流されたのでした。
 
そして、3人は各々流され先で崩御されてしまいましたが、佐渡へ流され最後に一人残った順徳天皇は流されて21年後の1242年に御崩御されています。
崩御の説はいくつかあるようですが、流された佐渡の地であまりの悲しさと怒りで自殺されたのだと私は本で読みました。
順徳天皇の御崩御された頃、日蓮聖人は20歳であり故郷を離れ鎌倉・京都へ巡り始めた頃であり、その後、日蓮聖人が鎌倉幕府により同じく佐渡へ流されたのは順徳天皇御崩御後29年経った、日蓮聖人49歳の時でした。
 
日蓮聖人が生まれる前年の承久の乱で天皇家が敗れたという事実の疑問を日蓮聖人自身が幼い頃から深く悩まれていたのは確かであり、時の天皇と日蓮聖人の因果関係はかなり根深かったといえるでしょう。



話題の自然素材「石垣産ユーグレナ(和名:ミドリムシ)」入り健康ドリンク
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
                 ユーグレナ・ファームの緑汁
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◎59種類の栄養素!DHAなど魚の栄養も、ビタミンCなど野菜の栄養も!
◎おいしい一杯が、あなたのカラダの偏りを整えます!
◎初回お試し「1週間セット」(500円)もあります!
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
未来農業ユーグレナ・ファームは石垣産ユーグレナを使ったおいしい飲み物、
食べ物、バイオ燃料でこの星に住むあなたへ素敵な未来をお届けします。
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=2TGVXB+1RPEIA+2L20+60WN7





奈良の老舗そうめんメーカー届けるこだわりの三輪そうめん【三輪そうめん】




「釈迦の姨母驕曇弥は一体いつ授記されていたのか?」・・勧持品第十三【第四月の1】

2015-08-13 11:12:37 | 仏法
姨母驕曇弥および羅候羅母耶輸陀羅の両者とも釈迦へ不満を交えた不公平を感じているような催促を講じたことに対して、釈迦は、忙しいのにしょうがないという感じで、とりあえず授記を与えているように思えませんでしょうか?
                                         
ここでは、釈迦の親族の姨母らへ対する嫌味な気持が表現されていると仮定しますと、それを裏付けるいくつかの複雑な原因が考えられます。
それがまず表われているのは、釈迦が驕曇弥に対し、なぜ憂い無い顔をして如來を見るのか、と疑問を示しているところですね。
そして、釈迦は驕曇弥に対しては、すでに驕曇弥も含めて一切の声聞に対し総じて授記した時に同時に与えているはずであると言いました。
                                       
実は、この釈迦の言い方が驕曇弥への心がけ作りなどに対する方便であると考えると、判断は異なってくるかもしれませんが、ただ素直に釈迦は驕曇弥の態度に疑問を感じ、驕曇弥は明かに不公平な妄想を起こして勘違いをしているのが本来とすれば、驕曇弥は確かに授記を過去すでに受けているはずなのでしょう。
                                     
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                                        
その場合、お互いが不信感を懐いたままに勘違いが解決されず、気持ちが曖昧な状態でしか成り得てないと考えられますね。
そのせいか、いつもなら釈迦は授記を授けた後に念のためか心地よく、その内容を明かにしておこうと偈を用いて繰り返しているのですが、今回の驕曇弥と耶輸陀羅の授記に関しては言い渡した切りその後に偈は説かれていないのです。
おそらく、それだけでも曖昧な授記の言い渡しだったように思えるのです。
                                         
それでは、今ここでどういう行き違いが起きたのかをもう一度じっくり探ってみることにしましょう。
                                          
それではまず、釈迦は驕曇弥にはすでに授記は済ましているのが事実かということについて調べてみましょう。
ここで、釈迦は驕曇弥については、総じて一切の声聞に皆すでに授記すると説いていたと言っていますね。
                                       
この一切の声聞というのは、序品第一の最初のほうを調べますと、「佛、・・・大比丘衆萬二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に盡くして復煩悩なく、・・・・是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。
復學・無學の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。菩薩摩訶薩八萬人あり。」とある所です。
                                        
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                                           
この序品の部分は重要な意味を含んでいまして、まず釈迦は王舍城で一時、大比丘といわれる一万二千人と共に過ごしていたということで、それらは皆阿羅漢、つまり他人から尊敬や奉仕を受けるに値する地位を持つ者たちばかりであり、その阿羅漢の中でも最初に特に名前を紹介されている阿若驕陳如・摩訶迦葉をはじめ、富楼那・阿難・羅候羅など著名な者たちは阿羅漢の中でも特に大阿羅漢であり、煩悩をすべて解決し終えている修行上達者であるということです。
                                       
また、それに対し通常の阿羅漢としての學・無學の二千人が内訳に居るということですが、この學・無學とは声聞の階級のことだと思います。
とりあえず、全体の一万二千人からこの声聞階級、つまり通常の阿羅漢の数を差し引くと残り一万人ですね。
                                        
更にそれに対し、全体の中では摩訶波闍波提比丘尼が六千人の通常の阿羅漢の眷属と伴っており、そして、羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼も数は記されてませんが眷属と伴っているということです。
ですから、全体の残り一万人から摩訶波闍波提比丘尼つまり驕陳如の眷属数六千人を差し引きますと、更に全体の残りは四千人となります。
おそらくこの四千人が羅候羅の母耶輸陀羅の眷属数になるのではないでしょうか。
                                           
なお、菩薩摩訶薩八萬人あり、については釈迦と実際に過ごしている最初の全体の阿羅漢比丘衆一万二千人とは別枠の八萬人と考えられます。
                                          
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                                          
ところで、本題に戻りまして、驕曇弥に対して総じて授記を済ませていたということについて、それはどこに記されているかということになりますね。
また、耶輸陀羅の場合も同様と考えて、同じく調べてみましょう。
そこで、集団で授記されている所は、とりあえずは五百弟子受記品第八と授學無學人記品第九の二つです。
                                        
それではまず、五百人弟子受記品に登場するのは、富樓那彌多羅尼子と釈迦の最初の弟子驕陳如(きょうじんにょ)比丘ですね。
富楼那は漸漸に菩薩道を具足して、無量阿僧祇劫の後に法明如來として成佛し、劫を寶明、国を善淨と名け、その佛の寿命は無量阿僧祇劫であるということで、その寿命の長さは耶輸陀羅へ授けた授記の寿命と同じであり、また、耶輸陀羅の国の名の善国とはもしかしてこの富楼那の善淨国と同じ国に住むことになることを示唆しているのかもしれず、おそらく、耶輸陀羅はこの五百弟子受記品の集団の中で授記されているのではないかとも思えます。
                                         
それでは、この五百弟子受記品の中での集団授記はといえば、驕陳如が受けた普明如來という一號にして皆同じというものでしょうか?
驕陳如とは釈迦の最初の弟子だったですね。その点は羅候羅の母耶輸陀羅とは釈迦の妻でもあるのでしょうから、最も側近の関係同士を組ませたと考えられるのでしょうか?
                                     
そして、普明如來はその佛の住む国が記されていませんが、おそらく法明如來の住む善淨国に一緒に法喜食の佛として住むのでしょうか?
なお、富楼那の法明如來とは法喜食と考えられますが、それは法師の修行と関係しているのでしょうし、耶輸陀羅が成佛するまでは大法師となってようやく佛道を具足することに当てはまると思えます。
                                           
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                             
それでは次に、授學無學人記品を見てみましょう。
ここでの阿難や羅候羅は釈迦とは血を分けた最も近い親族ですが、どういうわけか、學・無學の二千人と伴っています。この學・無學の二千人とはおそらく序品第一に紹介されているそのまま二千人のことでしょう。
                                           
この學・無學人とは、ある意味では釈迦と従兄弟の阿難が若い頃に羅候羅と共に釈迦から分派していた特定の声聞集団なのではないでしょうか。
                                           
この二千人は共に一號にして寶相如來となると授記されていますが、寶相とは宝の相ということでしょうね。
もしかしてここで、姨母驕曇弥は共に授記されていたのかと考えますと、一応、驕曇弥も一旦は耶輸陀羅と同じく大法師と成って漸漸に菩薩道を具してから成佛するとありますから、どうも大法師と宝相の阿難たちの率いる声聞集団とは異なる考えではないかと思えます。
                                        
ところで、序品の摩訶波闍波提比丘尼(姨母驕曇弥)の眷属六千人とはこの品では學・無學の比丘尼六千人のことのようですが、これら六千人の声聞比丘尼も将来、驕曇弥と共に法師と成って菩薩道を具し作佛するとありますが、これらは阿難たちの声聞集団とはまた別々の考え方の声聞集団だと考えられます。
                                         
また、阿難たちと姨母らは歳層が違うでしょうし、一歩先を進んだ釈迦の教えを引き継ぐ立場は姨母らの方が優先的にまた模範的に与えられているかもしれません。
このような理屈から、姨母驕曇弥への授記は声聞二千人と一緒の授記ではなく、やはり耶輸陀羅と共に富楼那の法明如來のほうに着いて行くべきの普明如來ということになるのではないでしょうか。
                                         
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                                        
なお、富楼那の法明如來への成佛は無量阿僧祇劫の後ですから、ずいぶんと遥か先のことであります。
そして、驕曇弥や耶輸陀羅はいつ頃作佛できるかははっきりとは示されていませんが、漸漸に、或いは漸(ようや)く菩薩道を具した後、となっていますから、やはりかなりの劫が過ぎ去った後という意味なのでしょう。
                               
これに対し、阿難と羅候羅は來世には作佛できるとあります。
このように世代が下の阿難たちが先に成佛できるということは、どういう意味かまだ全く不明なのですが、たとえば姨母らの女性陣は罪障があって、その分だいぶ遅いという意味なのでしょうか。また、この点からも富楼那はやはり女人ではないかという推測も立ちやすいのではないでしょうか?
 
 
⇒ 関連ブログ・・「女人の罪障とは感性の違い?」
 
⇒ 本日のHPブログ:第4-13日号-独我が名を説きたまわず-勧持品第十三-二十一行-二十七行/
 

仏教アンケート

アンケート

みんなの編集局 ぶっけん