建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

国上山良寛さん研究始めました。

2012-11-25 15:13:47 | まちづくり
私は幕末の有名な坊さんといわれる良寛さんが修行で過ごした地域で生まれ育ちました。
しかし、今まであまりにも良寛さんの名前は有名で知らない人はないくらいな人だと思っていたわりには自分自身は何も知らなかったことを不思議に思えてなりません。
今私が住んでいる家の近くに良寛資料館が出来たのは私が高校一年生になったばかりの頃でした。
実は私はその頃はまだ別な隣町に住んでいてその2年後くらいに今の所へ引っ越してきたのでした。
その当時のこの町はとても活気が無い何故か殺風景なだけの町でした。
この町は良寛さんが修行した国上山へは自転車で20分くらいで行ける所にあります。
そしてこの町は、江戸から続く三国街道の最終点の海の町、寺泊の一つ手前になる街道町であって分水町といいましたが、数年前の合併で燕市となりました。
なぜ分水町といったかといいますと、日本一長い川の信濃川が通っている地域であり、信濃川のたびたびの大氾濫で水害に脅かされていたため、
江戸時代から治水普請を地元の人間は長らく幕府に願い出ていたのですが、やっと明治時代になって大掛かりな分流工事がなされ、新たな新信濃川として支流を作った所の町なためにその頃から分水町という名前になったのでした。この河川工事は当時は東洋一の大工事といわれたそうです。この新信濃川は国上山の脇を通るように作られました。
この工事の請願は江戸時代中期から長らく行われてきたもので、良寛さんが国上山で修行されたのは江戸時代末期ですからほぼこの治水工事に対し、良寛さんは水害にあえぐ地元農民の苦しみと十分関わっていたはずです。
また、国上山のある国上村の隣の寺泊は古くからの港町でありますが、鎌倉時代に順徳天皇や日蓮聖人が佐渡ヶ島へ流された港だということは以外に知られていないようです。
日蓮聖人といえば法華経普及の第一人者としてあまりに有名ですが、良寛さんといえば実は何で有名なのだろうと考えても今まで解らなかったのです。
書の上手さでは有名ということですが実は実際に書を学び出したのは国上山に過ごしていた50歳くらいの時からだったという話です。
若く出家し曹洞宗の寺の師にもついたが、その後転々と放浪し何をして良いかわからないままに40歳くらいの時、故郷越後へ戻って来られたらしいです。
国上山の五合庵に住み、そこから少し登った所に真言宗の国上寺があり、現存の寺では越後最古といわれています。しかし、良寛さんはその国上寺には入らず孤高に過ごしていますが、過ごした五合庵は良寛が仮住する前は国上寺住職の隠寮だった庵だそうですから、あばら屋の庵といえど、そこに住まわされるだけの待遇は高かったのでしょう。
また、曹洞宗の僧であって良寛和尚といわれているわりに実は「和尚」という法位さえ貰っていない事実は曹洞宗の宗門から疎外されていたことによるからでしょうか。
そして、良寛さんは法華経をこよなく愛したらしく、法華経からお釈迦様のここが良い、ここが悪いを自由に表現できた人でもあったのです。
また、五合庵で20年位修行した後、晩年そのすぐ下にある乙子神社の宮守の空庵に過ごすことになりますが、そこでは偏澄という若い弟子と二人で過ごしていたということも初めて知りました。その偏澄はなんと鍛冶屋の息子であったというから、良寛さんへの謎は一層深まるのです。
これが世に言う良寛研究というものなのでしょう。
偏澄は、良寛さんが亡くなると共にまだ20代の若さで分水町地蔵堂の願王閣の主となります。願王閣とは平家滅亡の壇ノ浦の合戦の後、この地へ渡ってきた西行法師がもたらした地蔵様を祀った堂であり、そのいわれで地蔵堂という町が出来ました。
何故、鍛冶屋の息子が数年間、良寛さんに弟子入りしただけの若さで町の主要な歴史の主になれるのか、謎は深まるばかりです。


良寛さんは偉い

2012-11-06 23:56:37 | まちづくり
良寛さんはどういう功績のあった人だろう。
乱世の幕末の世に日本中の坊さんの集大成をしたかのような大人物であることは何となく知っているが、何か特別な仏教のあり方や生き方を詳しく後世へ残した人でもなさそうだ。
平凡すぎる人、そして平凡だからこそ貴重な人物だったということが窺える。
どんなに有能になろうと平凡な個人の人間として過ごす、これを貫いた貴重な人生と言うべきか。
号は大愚、辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」
これは神風特攻隊の心情になぞらえた歌としても著名らしい。
良寛さんがよほどいさぎ良い割り切り肌の性格だったらしいことはまざまざ感じるが何と哀しい人生を物語る歌だろう。
良寛という名前は鎌倉時代の日蓮聖人に対する第一の大敵だったとも知られる坊さんも良寛という名だった。
良寛さんと共に江戸幕府は衰退しだし、良寛さんの死後翌年に天保の大飢饉が起こり全国一斉に百姓一揆が相次ぎ一気に江戸末期を迎えた。
私のかつての古い先祖も良寛の過ごした国上山近辺の農村で暮らしていた。
しかし良寛さんと共に過ごしていたことは今ではほとんど伝わってはこない。
相当な庶民的であったと知られる良寛さんだが、その伝え話がこの地域の民族には実感としては何も残っていない。
今残るのはただ住んでいたとされる五合庵の建物がひっそりたたずむのみである。いかにこのあたりのその時代の庶民層の生活観とは大きく食い違っていたかが窺える。
良寛さん自身は地域の大きな土木事業などにも積極的に着手し、盛んに動き回ってもいる。そこには大層のんきに貧困に耐えて暮らしたという状況と大きく対比する二面性があるのだ。
坊さんらしからない実態も意外と記録されているのである。
良寛さんは大層恵まれた家柄の生まれでもあったということだが、そんな人があえて苦境な人生を生き抜いたというところに大きな論点が生ずる。
良寛さんへの莫大な評価はそんなところにあるに違いない。
書が達筆で大層優れた方だったことは間違いないが、無縁孤立な人生を選んだのは相当意味深いことであり、通常の人間にはあまり知られていない意味なのだ。
今一度、じっくり良寛さんの不思議を考えてみたい。
現代の人類にかけがえのないことを残している、それを知ることが現代を最大に救うことにつながるだろう。


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