姨母驕曇弥および羅候羅母耶輸陀羅の両者とも釈迦へ不満を交えた不公平を感じているような催促を講じたことに対して、釈迦は、忙しいのにしょうがないという感じで、とりあえず授記を与えているように思えませんでしょうか?
ここでは、釈迦の親族の姨母らへ対する嫌味な気持が表現されていると仮定しますと、それを裏付けるいくつかの複雑な原因が考えられます。
それがまず表われているのは、釈迦が驕曇弥に対し、なぜ憂い無い顔をして如來を見るのか、と疑問を示しているところですね。
そして、釈迦は驕曇弥に対しては、すでに驕曇弥も含めて一切の声聞に対し総じて授記した時に同時に与えているはずであると言いました。
実は、この釈迦の言い方が驕曇弥への心がけ作りなどに対する方便であると考えると、判断は異なってくるかもしれませんが、ただ素直に釈迦は驕曇弥の態度に疑問を感じ、驕曇弥は明かに不公平な妄想を起こして勘違いをしているのが本来とすれば、驕曇弥は確かに授記を過去すでに受けているはずなのでしょう。
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その場合、お互いが不信感を懐いたままに勘違いが解決されず、気持ちが曖昧な状態でしか成り得てないと考えられますね。
そのせいか、いつもなら釈迦は授記を授けた後に念のためか心地よく、その内容を明かにしておこうと偈を用いて繰り返しているのですが、今回の驕曇弥と耶輸陀羅の授記に関しては言い渡した切りその後に偈は説かれていないのです。
おそらく、それだけでも曖昧な授記の言い渡しだったように思えるのです。
それでは、今ここでどういう行き違いが起きたのかをもう一度じっくり探ってみることにしましょう。
それではまず、釈迦は驕曇弥にはすでに授記は済ましているのが事実かということについて調べてみましょう。
ここで、釈迦は驕曇弥については、総じて一切の声聞に皆すでに授記すると説いていたと言っていますね。
この一切の声聞というのは、序品第一の最初のほうを調べますと、「佛、・・・大比丘衆萬二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に盡くして復煩悩なく、・・・・是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。
復學・無學の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。菩薩摩訶薩八萬人あり。」とある所です。
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この序品の部分は重要な意味を含んでいまして、まず釈迦は王舍城で一時、大比丘といわれる一万二千人と共に過ごしていたということで、それらは皆阿羅漢、つまり他人から尊敬や奉仕を受けるに値する地位を持つ者たちばかりであり、その阿羅漢の中でも最初に特に名前を紹介されている阿若驕陳如・摩訶迦葉をはじめ、富楼那・阿難・羅候羅など著名な者たちは阿羅漢の中でも特に大阿羅漢であり、煩悩をすべて解決し終えている修行上達者であるということです。
また、それに対し通常の阿羅漢としての學・無學の二千人が内訳に居るということですが、この學・無學とは声聞の階級のことだと思います。
とりあえず、全体の一万二千人からこの声聞階級、つまり通常の阿羅漢の数を差し引くと残り一万人ですね。
更にそれに対し、全体の中では摩訶波闍波提比丘尼が六千人の通常の阿羅漢の眷属と伴っており、そして、羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼も数は記されてませんが眷属と伴っているということです。
ですから、全体の残り一万人から摩訶波闍波提比丘尼つまり驕陳如の眷属数六千人を差し引きますと、更に全体の残りは四千人となります。
おそらくこの四千人が羅候羅の母耶輸陀羅の眷属数になるのではないでしょうか。
なお、菩薩摩訶薩八萬人あり、については釈迦と実際に過ごしている最初の全体の阿羅漢比丘衆一万二千人とは別枠の八萬人と考えられます。
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ところで、本題に戻りまして、驕曇弥に対して総じて授記を済ませていたということについて、それはどこに記されているかということになりますね。
また、耶輸陀羅の場合も同様と考えて、同じく調べてみましょう。
そこで、集団で授記されている所は、とりあえずは五百弟子受記品第八と授學無學人記品第九の二つです。
それではまず、五百人弟子受記品に登場するのは、富樓那彌多羅尼子と釈迦の最初の弟子驕陳如(きょうじんにょ)比丘ですね。
富楼那は漸漸に菩薩道を具足して、無量阿僧祇劫の後に法明如來として成佛し、劫を寶明、国を善淨と名け、その佛の寿命は無量阿僧祇劫であるということで、その寿命の長さは耶輸陀羅へ授けた授記の寿命と同じであり、また、耶輸陀羅の国の名の善国とはもしかしてこの富楼那の善淨国と同じ国に住むことになることを示唆しているのかもしれず、おそらく、耶輸陀羅はこの五百弟子受記品の集団の中で授記されているのではないかとも思えます。
それでは、この五百弟子受記品の中での集団授記はといえば、驕陳如が受けた普明如來という一號にして皆同じというものでしょうか?
驕陳如とは釈迦の最初の弟子だったですね。その点は羅候羅の母耶輸陀羅とは釈迦の妻でもあるのでしょうから、最も側近の関係同士を組ませたと考えられるのでしょうか?
そして、普明如來はその佛の住む国が記されていませんが、おそらく法明如來の住む善淨国に一緒に法喜食の佛として住むのでしょうか?
なお、富楼那の法明如來とは法喜食と考えられますが、それは法師の修行と関係しているのでしょうし、耶輸陀羅が成佛するまでは大法師となってようやく佛道を具足することに当てはまると思えます。
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それでは次に、授學無學人記品を見てみましょう。
ここでの阿難や羅候羅は釈迦とは血を分けた最も近い親族ですが、どういうわけか、學・無學の二千人と伴っています。この學・無學の二千人とはおそらく序品第一に紹介されているそのまま二千人のことでしょう。
この學・無學人とは、ある意味では釈迦と従兄弟の阿難が若い頃に羅候羅と共に釈迦から分派していた特定の声聞集団なのではないでしょうか。
この二千人は共に一號にして寶相如來となると授記されていますが、寶相とは宝の相ということでしょうね。
もしかしてここで、姨母驕曇弥は共に授記されていたのかと考えますと、一応、驕曇弥も一旦は耶輸陀羅と同じく大法師と成って漸漸に菩薩道を具してから成佛するとありますから、どうも大法師と宝相の阿難たちの率いる声聞集団とは異なる考えではないかと思えます。
ところで、序品の摩訶波闍波提比丘尼(姨母驕曇弥)の眷属六千人とはこの品では學・無學の比丘尼六千人のことのようですが、これら六千人の声聞比丘尼も将来、驕曇弥と共に法師と成って菩薩道を具し作佛するとありますが、これらは阿難たちの声聞集団とはまた別々の考え方の声聞集団だと考えられます。
また、阿難たちと姨母らは歳層が違うでしょうし、一歩先を進んだ釈迦の教えを引き継ぐ立場は姨母らの方が優先的にまた模範的に与えられているかもしれません。
このような理屈から、姨母驕曇弥への授記は声聞二千人と一緒の授記ではなく、やはり耶輸陀羅と共に富楼那の法明如來のほうに着いて行くべきの普明如來ということになるのではないでしょうか。
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なお、富楼那の法明如來への成佛は無量阿僧祇劫の後ですから、ずいぶんと遥か先のことであります。
そして、驕曇弥や耶輸陀羅はいつ頃作佛できるかははっきりとは示されていませんが、漸漸に、或いは漸(ようや)く菩薩道を具した後、となっていますから、やはりかなりの劫が過ぎ去った後という意味なのでしょう。
これに対し、阿難と羅候羅は來世には作佛できるとあります。
このように世代が下の阿難たちが先に成佛できるということは、どういう意味かまだ全く不明なのですが、たとえば姨母らの女性陣は罪障があって、その分だいぶ遅いという意味なのでしょうか。また、この点からも富楼那はやはり女人ではないかという推測も立ちやすいのではないでしょうか?
⇒ 関連ブログ・・「女人の罪障とは感性の違い?」
⇒ 本日のHPブログ:
第4-13日号-独我が名を説きたまわず-勧持品第十三-二十一行-二十七行/