建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

凶暴女人グループによる仏道守護〈陀羅尼品〉

2017-11-26 12:34:53 | 仏法
今品の十羅刹女という十人の凶暴な女人修行者は、いわゆる敵対に対する始末屋集団なのです。
これら女人修行者たちはグループを組み、その凶暴手段を用いて仏道修行への過酷な妨害に悩む一人一人の法師を守り抜くことを新たな宿命として自主的に編成され、さらにその行為を仏に認められた防衛組織なのです。
仏教においてこのような凶暴手段を用いた防戦を行なってよいのか?と強烈な疑問を生じると思いますが、この必要性を最初に仏に申し出たのは自らの焼身供養を仏に奉じた薬王菩薩でした。
 
私は近年、地域的な孤立無援による自殺があまりに多発していたことに対し、地域の自殺対策講習会などが開催され、そこへ幾度か参加したことがあります。
その講習会では地域の自殺対策を自主的に興味深く知りたい有志の人々が集まることで結構和気あいあいと様々な質問や意見が交わされていました。
その活発な意見交換は必ず地域のためになることですし、私はとても望ましい対策であると感じていました。
しかし、実際の自殺防止活動となる場合に、その活動組織づくりと運営自体が究極の難しさがあることに気付かされたのです。
 
どのような難しさがあるかと言いますと、地域としてはこれらの自殺防止対策の講習を精神医学医師へ依頼しているのです。
つまり、今すぐにも必要と考えられる地域自殺防止ネットワークづくりのための皮きりとなるこの講習会ですので、その求められているネットワークは講師の精神医学施設を保持している医師などの学識経験者が中心になる活動組織を意味するようです。
ところで、こういう動きに対し、これとまったく同じような助け合いネットワークづくりとしては、そもそも古くから地域に目指し存在している各寺院とその檀家グループ、その他、地域の神社の氏子崇拝グループが今後も義務的に、かつ有力に手掛けてきていくべきこととも言えるからです。
 
よって、それら旧来からの地域的な人道保護と助け合いによる住みながらの連携こそをその古くからの習慣として持続させていくべきことであり、その基本体制と心掛けを止めたら地域の寺院も神社も長い歴史に対し遂に幕を閉じるしかなくなることが結論と言えるからです。
長い物には巻かれろと昔から云われますが、その長い物の組織にこそ古くから十羅刹女のような防衛集団が存在しながら見守り、とかく孤立無援となりやすい寺院住職や神社神職の立場を守護してきていた秘密があるからです。
 
ですから、地域一般の孤立者を平穏に守ってあげるには寺院住職や神社神職との密接な連携と相談関係にないことには自殺防止ネットワークづくりはほぼ成立しないと言っても良いのではないでしょうか。
 
今日は少し長くなりましたが、陀羅尼品の凶暴な始末屋集団でありながら存在する十羅刹女のお話をさせていただきました。
 
(ぶっけん 成安田)
 第7-26日 Vol.194  爾の時に羅刹女等あり 【陀羅尼品第二十六】(四十二~五十行)

良いことも悪いことも因縁は神のみぞ知るのか?〈薬王菩薩本事品〉

2017-11-23 09:02:48 | 仏法
因縁というものは恐ろしくもあり、また不可思議な可笑しさでもあるようですね。
このように何となくそそっかしさを感じさせる、今日の薬王菩薩の前身の一切衆生喜見菩薩ですが、なぜ自ら身を燃やして捨て去るようなことまでに至ったのでしょう?
 
私たちは日ごろ、何気なく過ごしているようであっても、様々な奇怪な事件や悲しい事故などのニュースを知らされながら一生涯を過ごしています。
そういった私たちが自然に日常知る限りのあらゆる他人と思える出来事は何等かそれを知る私たち各々にとって、過去世に関係したかつての因縁が現世に現れているのかもしれないのです。
 
ですから、あらゆる知ることが他人事ではなく、今、インターネットやTVを通じて世界中に知らされる出来事が同時に多くの誰にも伝えられているというこの現実は、何を物語っているのかを先ずは知る必要があるでしょう。
それはその無量の情報の中から、どうしても自分に関係した情報をすぐにも感付いて探し出さなければならなくなった現代への警笛なのかもしれません。
 
つまり、かつての私たちが過去のことにあまりに無関心すぎたためかもしれませんし、また、有ること無いことの偽装な話が流行りすぎたためかもしれません。
 
ところで、薬王菩薩の前世の姿の一切衆生喜見菩薩の身を捨てた覚悟の話に皆さんは歓喜や隨喜ができますか?
もし、素直にそれができた方なら、この法華経を自分で修行していける人だと思います。
自分で、と言うことは佛に救済の負担をさせず、逆に仏を安樂させる供養ができるということです。
 
ところで、今の世の中は無量の情報が氾濫しているといいましたが、このありとあらゆる無量な情報の中から自分にとっての何かを得るために泳ぎ渡ることが無量義なのかもしれませんね。
世の中は自分だけにふさわしい情報を得たいと誰もが考えますが、各々がただ自分だけにと思っていたら、その一人一人の相に従ったあらゆる多種多様に工夫された方便説法を作りだす仏のほうもいちいち大変です。
 
だから私たちは一人一人にふさわしい情報がしっかり行き届きにくく、津波のような氾濫の中に漂っているだけなのです。
それが当たるも八卦な神様の主なる支配下のこの世界なのです。
ですから、その神様と有力な信頼関係を築ける者だけが大きな徳を得れるのがこの世の中の現実というものですね。
 
よって、是非とも、そのためには仏の智慧、つまり真実の神へのガイドブック或いはガイドラインやガイダンスが必需だということでしょう。
 
 
今回も最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
 
末永くご愛読いただけますよう、また無料メルマガの「ぶっけんの毎日ホッ法華経!」を何とぞよろしくお願いいたします。
 
                        (ぶっけん 成安田)

西暦1世紀から共に歩んだ神と仏〈如来神力品〉

2017-11-21 14:41:33 | ライフスタイル
いよいよ神と仏の教えの歩調を合わせ始めたイエス・キリスト誕生の西暦1世紀頃に今の私たちは一度、振り返ってみる価値があります。
それは西暦幕開け以降の私たちは、一人一人皆公平な世界の中の一人だからです!
 
真実の宇宙の神秘は文字では語り尽せない
 
人類誰もが平等に見上げてきた広大なる宇宙、その神秘なる真実を紀元前の大昔から追い求め続けて、それを全人類が公平に知るためを目標に普及を図ってきたのは聖書も仏教も同じです。
しかし、聖書であろうと仏教であろうと、広大な宇宙の究極の真実そのものをこの地球上における伝達手段を用いての言葉や文字だけで表そうとしても到底あらゆる真実の真相を表現し尽したはずはありません。
 
古代から大宇宙の神秘を知りたいと願い続けてきた私たち人類の先祖たちは数々の研究を続け様々な議論を裏付ける詳細な想定を繰り返してきただけです。
それら意欲果敢なる先祖たちは各々に平和な集団を築き、各々の地域や考えによる各々の角度で全く別々に挑んできていたのが西暦以前のことであったでしょう。
そして、これらの研究組織の中でもとりわけ宗教の根本を目指し公平な人類のために組織編成を繰り返してきたのが聖書と仏教であったといいうことと、その二大派閥が大きく分けて神と仏への各々の絶え間ない信仰だったのは間違いないことでしょう。
 
聖書が仏教へ働きかけていた秘密の歴史
 
ところで、神と仏への信仰のこの二大派閥間による人類への普及方法の特徴として大きな違いと言えば、聖書派閥が仏教派閥へ普及に出向くということは長い歴史上において古くから頻繁に行われてきていた実績があるようですね。しかしその反面、仏教派閥から聖書派閥へはほぼ普及に出向くということがなかったのは定説な習慣であったように思えることがなんとも不思議ではありませんか?
 
この神と仏の信仰間の往来として聖書から仏教へのみの一方向的な普及活動の流れがあったことに関して、例えば旧約聖書のアダムとイブがエデンから追放されて二人は行き場を失ったとするなら、その後の生き場を保護したのは仏教であったとしても可笑しくないことに思い至りませんか?現に仏教の釈迦に関する阿難や弥勒などはほぼ聖書側の教えイメージに似通って見えても何ら不思議ではありません。また、四大弟子と言われる声聞地位だった四人も皆、聖書の神に沿ったような感覚で方便比喩話を得意に作り上げては釈迦と同等に長らく修行に励んでいた仏道修行者たちであるはずです。
 
新聖書と共に歩んだ西暦の法華経
 
それは、紀元前にインド国で中心にまとめられていた仏教の法華経経典が初めて中国において最終的な編さん作業がされ出したのが西暦50年頃、即ち西暦1世紀だったのです。その編さん作業は数百年にも及び最終的に西暦406年に中国長安でほぼ今の状態に完成されたと言われているのです。
したがって、私はこの重大事実を今知って、今言わざるを得ません。
 
聖書と仏教はすでに暗黙にも紀元前から互いに勘案されてきていたのが自然であり、キリスト誕生以来の西暦1世紀を境に内容の混成と一体化を協約してきたはずなのです。
この地球上でたとえ神や仏に宿られた人間が宇宙のことを人類のために文書に変換して表わされてきたのだとしてもその文書は人類による人類のために活用されるためだけの目的で作られたのです。
ですから、私たち人類がこの地球上でたとえ宗教種類は違えど同等の宇宙の真実について推論してきている歴史があるのです。
その数々別々に存在してきた宗教派閥が互いに同じ普遍の宇宙の中で共存する同一な意義を同時一斉に確定させた西暦の幕開けはより一層、地球上の人類が宇宙の真実へ近づいたと言ってよいでしょう。
 
その真実なる宇宙へのさらなる未来への共存と地球の進化のすばらしさを維持していくための最善の仕組みは、私たちは宇宙人ではなく地球人なのであるがためにこの地球上であえて幾つかの議論に方向分けをしておく派閥保存が何より合理さなのではないかと言えるのでしょう。
 
(ぶっけん 成安田)
⇒ 如来神力品の「真実」 神様を祈る仏道修行者たち






常の精進とは自分自身のため〈法師功徳品〉

2017-11-19 11:01:14 | ネット経済

仏教で常の精進と一言でいいましても、それが一体何であるのかはちょっとピンとこないのではないでしょうか。
お釈迦様はこの精進とは自身の眼・耳・鼻・口・身体・心の六根に対してであることをはっきり特定して示されておられます。
ところで、私たちにとって精進とは自身のためになんて何となく恥ずかしくて、とかく世のため人の為ひたすら他者へ対する献身な努力であるように考えがちなのではないでしょうか。
 
それに対しお釈迦様ははっきり精進とは自身の六根を磨くことであるとし、その自身も社会のための自身ではなく、ただ自分自身を完全に清めるためであると教えてくれているのです。
自身に対する六根清浄こそ精進の賜物だったのです。
 
(ぶっけん 成安田)
第11-19日 Vol.296  聲聞の香・辟支佛の香・菩薩の香・諸佛の身の香 【法師功徳品第十九】(六十六~七十行)













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分別とは、信長の「人間五十、滅せぬ者のあるべきや」

2017-11-17 12:11:30 | コミュニティライフ
分別とは何でしょう?
お釈迦様はそれを解かり易く言えば、成仏即ち救われるまでの時間の違いであるとして説いているようです。
分別とは違いによる区分であって、それを知る年代を分別盛りとも言っていますね。
それは、自分と他者とは明らかに違うのであることを、歳を重ねるごとに物分かりが盛んに付き出す年代ということでしょう。
それは誰もが経験がなければ明らかにならない、そして予測だけでは真相は悟れない、つまり経験とは違いを知るための功徳と言えるのではないでしょうか。
 
違いを悟ることが平和につながる、それは信長の「人間五十、滅せぬ者のあるべきや」
信長一人だけですべての者を滅ぼせるという意味ではないですよね。

これは、人間が五十歳にもなってまだ分別を自ら知らない者が居るべきかと言っているのでしょう。

『俳句など、ひねってしまえ ホトトギス😪』
 
(ぶっけん 成安田)
▶第7-17日 Vol.185  劫數に於て 五波羅蜜を行ぜん 【分別功徳品第十七】(五十七~六十二行)






















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