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建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

~ MailING!日月説法 ~ おやじギャグ風に楽しめる法華経全28品  メールマガジン創刊5月1日発行 

2014-03-15 11:37:49 | 社会福祉
はじめてメールマガジンを創刊します!
名づけて、『~ MailING!日月説法 ~ おやじギャグ風に楽しめる法華経全28品』です。

私が法華経をはじめて手にしたのは確か今から20年位前のことでした。
当時私は建築士の仕事をしていましたが、仏教にも少し関心を持っていたので、なんやら法華経の内容をはじめて目を通した時、なぜか建築構造力学の専門技術書のように意味もちんぷんかんぷんのままに読んでみた覚えがあります。何故専門技術書かといえば、言っていることがさっぱり筋道がなくわからないという感覚が実に似ていたのです。
大事な教えというよりは、ただ乱雑に読んでもためになるという感じでした。そして、意味などわからなくてもいい、逆にわかろうとするだけ無駄でしっかり解読できた人など歴史上一人も居なかっただろうなどと納得していました。つまり、お経というものはあえて意味がないところでよいのだろう、確かな意味があったら頭が固くなってしまう危険を誰が責任取れようと・・・・。

何気なく設計事務所をしていた私だったのですが、地元の宗教団体から信心が必要であると言われては無理やりにもその都度引っ張られて、断ろうにも断る伝手のない究極ともいえる恐ろしさを知り、どうしたらよいのやら他の幾つかの宗教団体からも勧誘を受けるやらで、逃避するように複数の団体にまたがって加盟することであくせく凌げていたように思えます。仏教そのものは自分自身だけの信心のみにあると確信していた私は、たとえ先祖のお墓のある菩提寺ですら仏教上は何の意味もないものに思えてなりませんでした。結局、人が特に真面目なテーマで集ればすぐお金が目的となる世の中には生きる気力も失いうんざりしていました。

信心は大事、人付き合いも大事な意味が個人的な内面なものでしかないのであれば、それを悪いお金の社会がその個人の内面的なものすらをもダメにしてしまっているのです。そんな最中、また別の宗教団体が勧誘に訪れました。最初は、もういくつも入っているし、自分でも心がけてやっているから大丈夫といって断ろうと思いましたが、その人は「必ず儲かるから!」と言うのです。その言葉は意外であり、新鮮に心に残ったのでありました。話をしてみると今までの私自身の信念である個人的な信心と人付き合いの大切さがピッタリ合ったことにたいし入会を決めました。

実にその人に会って以来、人生が本当に変わったのです。いわば今時珍しい、私が切に求めていた生き方そのものだったのです。その人の中には理想の宗教がありました。それ以来はその人の為に仏法を学びました。その人はその団体に非常に熱心なのですが、過去人一倍いやな思いをしている私にとっては団体などどうでも良かったのです。その人がたとえば日蓮聖人様が一番良いというならその人の為に日蓮聖人様の歴史などを根本から私は自分なりに勉強しました。それが本当に幸せに変わっていく毎日は驚くほどでした。

私はその後しばらくして設計事務所をすんなり廃業を余儀なくしました。そしてこれといって就職先もなくホームヘルパーに転職しました。ところがそれが私にとって思いがけない大転機だったのです。ヘルパーの地域福祉業務などは建築畑の私にとっては完全に未知なる航海への船出でした。年配のおばちゃん部隊に叱られどうしの中、得たものは唯一法華経だったのです。何を叱られるかビクビクしながら僅かなパートタイマーで過ごす中、図書館で日蓮聖人の本を探し出してすがるように読みました。そして、日蓮聖人こそ法華経全巻を解き明かした歴史上唯一の人であると確信することができたのでした。これは私にとって素晴らしい発見でした。法華経をすべて解き明かした唯一の日蓮聖人をたどることでなんと法華経がすらすら読めるではないですか。その日から私は毎日欠かさず法華経の1品1品を解読できるという不思議さと喜びを一気に得たのでした。

建築士だとか設計事務所などといって肩書きを気にしていた頃の私にはとうてい読むことの意味すらも思いつかなかった法華経がすらすら通常の本のように読めるようになるなんて、本当の幸せとは間違いなくこれだと思いました。読めば読むほどに法華経は雑誌であることに間違いなく思えました。決してけなしているわけではなく、雑誌つまり雑種こそ真実の自然であり宇宙なのです。仏の知恵の真実は雑種に読ませるための雑誌であることを理解できなければ宇宙の真実は解き明かされることはないでしょう。雑誌による自然な巧妙さ、これは釈迦や人間の造った力ではないと思います。この雑学の力を解き明かすことに最大な意味があるのです。

どうですか?どんな立派な科学者にも解き明かされない、雑種である私たちだけにある程度簡単に解き明かせる可能性がある、この不思議な法華経を一緒に毎日解き明かしてみませんか?

是非、気軽に出したこのメールマガジン~MailING日月説法~を購読してみてください。 どんな人にも必ず興味と確信を得ることができますよ!

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列島改造は古い、ジャンクションの時代

2014-02-12 14:22:09 | 社会福祉
 かつて田中角栄元首相の打ちたてた日本列島改造論は、当時子供だった私には強い印象があった。日本全国をやり直させるという発想は田中角栄氏以外誰も考えることのなかった国の再建だったろう。その改造論により全国に高速道路や新幹線がたちまちのうちに張り巡らされた。しかし、国中の地域がつながりのない味気ないものになっていったことは非常に残念であった。とにかく当時の日本にとっては単なる田中氏の超大人物たる威力の発揮や見栄による存在性を見せつけるだけではなかった。本当に日本の大改革が必要だったのだろう。それはそれで田中角栄氏の時代は特別だったはずだ。そしてそれを蔑ろにしてしまってはならない。その時代は何を必要としていたか?本来、当時から人間性の疎外や協力や助け合いがなくなるという社会問題も抱えていたが、それより先に日本を早急に進化させなければならなかった。あとはその後に人間関係をどう復活させていくかは地域や個人的な課題として国民自らに心がけていくだろうと考えていたと思う。それはそれで良いのではないか、人間らしく共存を図るかは国民や地域としての重要な課題なのであろう。
 地域がそれぞれの特色さえ保持して地域だけでやっていければよいということであれば、田中氏の思い切った改造論など何の意味もない無駄なものになってしまうだろう。田中氏の目指した国のあり方は最終的には繋がりある世間づきあいなのであることは間違いない。今、私たちが目指すべきは、国民どうしだけの力で繋がりをとり戻すことだけである。そのために繋がりに障害となっているものが何であるかを取り組んでいかなければならない。しかしながら、問題解決を地域的に取り組んでいくことは今の時代は非常に難しくなってきている、そこでもっとも取り組み易いのはジャンクションを作ることであると思う。交流地点であるジャンクションを大規模に作れば小さな繋がりも自然に付随するだろう。分野と分野、機関と機関、地域と地域、と似たもの同士、似た意見から徐々に繋げていき、その後に別分野を繋げる。例えば、NPO法人は政治活動や宗教活動を主とした事業としては行なってはならない法律上の原則になっている。しかし、それは元からその分野で活動してきている専属の政治家や宗教家、そしてそれらの派閥による問題や混乱を懸念するからに他ならないからだと思う。逆に言えば、両者をミックスさせてしまい、上手く同時に考えていくということは不可欠なのであり、NPOやボランティアの運営にとって、政治や宗教の根本思想は抜かしては成り立たないはずである。つまり、日本国憲法での政教分離の原理とはその分野派閥の言い分の問題に相違ないはずだ。両者を一緒に取り入れることに何等問題はないはずであり、最も望ましいことである。憲法改正の根本理由はこんなことにあるのかもしれない。政治と宗教、歴史と文化などを繋げて、関連付けていくということが今後、最も重要な課題となると思う。

しばらくお休みした私の変化・・・

2013-11-27 03:10:53 | 社会福祉


丁度一年前からお休みしていました。
最初、このブログを始めたのは2010年でしたから今からほぼ3年前です。
当時は、自宅で設計事務所をしていました。ですからブログ名も『建築デザイナーになりたい!』なんて感じだったと思います。その後、設計事務所を廃業し、しかたなく?地域の社会福祉で介護ヘルパーに転職したのでした。そこでブログ名も『建築と福祉』に変えました。まだまだ30年くらいやって来た建築に未練があったのでしょう。ところで、しかたなく転職したとはいっても、実は私にとって地域福祉介護は思いがけなく素晴らしい仕事に思えたのです。
転職したきっかけは、母の入院でした。幸い軽い入院で済んだのですが、退院と同時に市役所に介護申請し、母は週2回のデイケアへ通うことになりました。実際、家族がいきなり入院でもしなければ地域の老人介護福祉がどうなっているかなんて予想もつかないものです。この時ばかりは地域の市役所や福祉関係の機関の存在にありがたいと実感しました。老人の事となれば近くの親戚すら実は何の当てにもなりません。入院中はこの先どうやって行けばよいのか途方にくれました。これが私の人生再出発の始まりでした。
今までの設計事務所の経営状況ではとうてい暮らしてはいけません。思い切るどころか義務的に新しく職を探して収入をとりあえず作らなければなりません。もう今まで住んできた世間も何もない、一世一代の船出でした。
その時、私は49歳で、再就職としては必然的に地域の介護ヘルパーのそれもパートくらいしか望めない状況でした。それでも微かな収入の道の介護ヘルパーへ何もかも捨てて、何の迷いもなく進みました。
ハローワークで介護ヘルパー資格をとるための受講料などの援助を受けるには今までの自営の設計事務所を廃業することが条件でした。そこで思い切って廃業したのです。そしてすぐ資格受講機関へ通いました。3ヶ月間一日も休めないそうです。当時の資格受講は週5日で毎日朝から晩まで3ヶ月間みっちり拘束されます。しかし、設計事務所を廃業し、その受講機関へ通いだした時、今までの自営の辛さが嘘のように、福祉社会の制度のしっかりした状況に、どんどん希望が湧いてくる、不思議なくらいでした。自分にとっては夢のように目を見張る素晴らしい世界があったことに感動し、確かにこれが私の求めていた社会だ、いやそれ以上だ!という実感を確信しました。これから始まる未知な職業世界への不安で自分の考えも定まらないものでしたが、それを遥かに超える大きな確信が自分に冷静さを与えてくれました。
最初に勤務したのは、地域の社会福祉協議会の訪問入浴介護の臨時パートでした。案の定、就職者の交代競争が激しく、週に2日だけなら仕事があるということで勤めさせていただきました。しかし、女性ばかりの職場で勤務最初から人間関係が波乱含みです。初っ端からこれは今までにない大変なことになったと、かなり焦りました。それから私のたった週2日のパートの貴重な収入源も失敗の都度どんどん減らされていくのです。しまいには3ヶ月のうちに私の働く時間はあっという間にゼロにされてしまいました。それで解雇を言い渡されるわけでもありません。はっきり言ってこんな惨い仕打ちは思いがけない初めての経験でした。ただ唖然と目を丸くするばかりで、こんなことは願っても経験できないことだと今でも思います。当然の如く、私はそこを辞めることになりました。といっても当初の臨時雇用期間が1年間契約のその期間を満たないうちに終わってしまったのです。

とは言っても、その場は地域の社会福祉協議会です。何らかでその後も喰らいついて行くしかないのです。なにしろ私だってこの地域の住民だからです。その場で挫折したら住民すらやっていけないのですから。そこで私がどうやってその境遇を乗り越えたか・・・・その状態の私に道を知らしめてくれた、それがこのブログで紹介したい法華經との極めて奇跡的な巡り会いだったのです(それも極個人的に)。それ以来、私にとって法華經は無くてはならないかけがえのないものになりました。そして、このブログテーマも『建築と福祉と宗教』に変えて再スタートです!
前置きがだいぶ長くなりました。しかし、この私自身の大変化が最もこれから伝えたいテーマなのです。是非これからも宜しくお願いします!

ソーシャルと建築

2012-05-25 20:30:32 | 社会福祉
ソーシャルという意味をあらためて知ったのですが、「社会的な」という意味に意外な感覚を受けています。
ソーシャルビジネスというものがあるらしいですが、社会的な第三者の目を取り入れるビジネスであるということに感銘しました。
リアルビジネスとは、お互いが単純に買い手売り手の立場で欲しい物を交換するものである事にたいし、ソーシャルでは取引することで第三者的にはそれがどうなるのかなどを考慮するビジネスです。
この考えを建築に取り入れたらどうなるでしょう?
自分の住宅を造るということが社会的にはどういう意味があるのかということになるでしょう。
たとえば周辺の居住環境に合わせて造るのもソーシャルな考えといえるかもしれません。
自分がその地域に生活していくということが、自分だけではなく社会的に意味があるということでしょう。
ある有名な建築家が造った住宅と言うよりも、住み手がどう社会と関連していくかのために作られたと考えることです。
悪い社会環境から離脱したいと、良い社会環境を持続したいと、両方あると思いますが、良い面と悪い面を両方同時に考えていかなければソーシャルといえないと思います。
どちらかだけに偏っていれば、社会的には欠陥があると言えます。
欠陥があるところを他の家と支えあっていくのですか?残念ながらこれからはそのような地域コミュニティにはならないと思います。
だから地域社会が支えあっていくコミュニティとはこれからは特殊な考え方が必要になるのではないでしょうか?
各々に自立が呼びかけられていますが、それはソーシャルが目指す社会なのだと思います。
それは、一人一人の人間が考えても解明できない奇跡的なものを実現化する社会を目指すことではないのかと思うのです。
だから先には何が起こるか、どう変化していくかがわからない、それがソーシャルビジネスの可能性なのだと思います。

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