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建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

神なのか、仏なのか?自分のことなのか、他人のことなのか?この二重苦の謎! 〖序品第一〗

2015-01-01 00:00:00 | 仏法
四諦における苦・集・滅・道に於ても、いわば物事は苦から始まっているのです。
この苦しみについて、今日、元旦早々に自らの苦と他からの苦といった二つの道
の岐路を知ることになったようです。
 
今日の説法のように、たとえば弥勒菩薩のように自分自身にとって、大した関係
のない事柄ばかりに疑念を懐いて、それを自分自身に関することとばかりに執着
して解決を欲していることは、原因は他からの苦だったものがいずれ結果的に自
らの苦になってしまっていると同じですね。
 
つまり、弥勒菩薩のような場合の自分の苦しみとは、本当は自分の苦しみではな
いのですよね。
しかし、現実に元は自分には関係しないことだった苦しみが、自分に降りかかっ
てくることにより自分自身の苦しみとして実感が生じてくるのです。
 
ですから、先ず何事も苦から始まりだすことを前提とすれば、その苦が何である
のか?
簡単な話、自ら生じたのか、他から生じてきたのか、この2種類の区分が最初の
解決への第一歩らしいですが、その一歩が自分の判断だけでは躊躇して踏み出し
難いわけですよね。
そこで釈迦が考案したのは、無量義という自分らしさ発見への旅だったのです。
つまり、苦しみという苦しみを一切払い除け、自らに作った苦しみだけを知る自
分自身を作り上げるということです。
 
そのように無量義處に身を置くということは、他からの苦しみを排除するという
ことであり、その他からというのは同じ衆生の種類ではない天神からの日頃の裁
きや現象によるものも他からの苦しみに含まれると考えられるということです。
 
ですから、神ではない釈迦佛自らが神通力を示すということは、神が最初の衆生
を創られたのなら、その最初の衆生が最初から完成させている各々の自分らしさ
を既に装備されているのであり、ただ単に条件反射的に神の裁きや現象だけを恐
れている形態では最初に神が創った自分自身というものを見失っているだけの流
されている状態なのでありますから、本来は元々の自分らしい威力を発散する必
要があるということであり、それが同時に行える法華経ということなのでしょう。
 
よって、無量義経を最初に置くということは、他の事を考えない自分自身とは先
ず何者かなのです。


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仏の寿命について

2014-12-05 22:17:51 | 仏法
佛の寿命とは一旦衆生の王子などとして過ごしながら、その後に佛道に入
り修行し出した時から佛に成ったと見なされるような衆生への指導を行ない、そ
の衆生として生まれた人生に於て成道後を佛の道に捧げることでその一代の内に
生きながらにしての成佛なのかもしれません。
 
つまり、作佛後の佛の壽というのは、釈迦でいえば、八十歳で滅度するまでの年
数から十九歳まで王子だった年数を除いた残りの六十一歳が釈迦の佛の寿命とい
うことになるのかもしれません。

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