この法師品第十の薬王菩薩への説法は、人間界としての法師の役割りを説いているのではないでしょうか。
この品の最初にどんな六道の衆生であっても心得さえあれば簡単に成佛ができることを釈迦は説いていましたね。
しかし、それに対し釈迦は六道の中でも唯一人間として生まれてくる尊さについても同時に説いているのです。
それは、人間こそ六道四生への哀れみの心が唯一ある生き物だからということなのです。
ところで、衆生への哀れみがあるから人間として生まれてくるということは一体どういう意味があるのでしょうね?
実に、このことをじっくり考えてみると、素晴らしい発想に巡り会えるということにお気づきでしょうか?
それでは、この世の衆生を救済したいと愍れむ人は、どうしてせっかくの清淨の業報を捨てることになるのでしょう?
また、その人がもし菩薩や佛としてこの世へ現われることができるなら、どうしてそのまま菩薩や佛の立場として衆生を救済せず、わざわざあえて人間として生まれて来て、人間の立場として救済しなければならないのでしょう?
そのように矛盾する疑問解明がこの法師品に詰まっているのであります。
その解明となる大きなヒントは、どうやらズバリ、如來と佛の違いにあるように思えるのです。
つまり、如來や菩薩になれるのは人間だけでしたね。
ですから、六道四生は皆成佛はできるのでしょうが、如來や菩薩になれるのはその中でも唯一人間だけだということが重要な鍵になっているのではないでしょうか?
なお、釈迦はただ一人へ法華経を説いてあげている人は如來の使いであり、如來の佛事の代理をしている人であるといって一旦は尊重させておきながら、次に薬王菩薩に対しては、多くの人へ広く説くことが必要であると説いている、この意味不明な矛盾のある疑問もまた、人間だけが成れる如來そのものが一体どういうものであるのかの性質や特徴に対する重要な意味を含んでいるようなのです。
⇒ HPブログへリンク;第4-10日-廣く人の為に説かんをや-法師品第十-二十一行-二十六行/
この品の最初にどんな六道の衆生であっても心得さえあれば簡単に成佛ができることを釈迦は説いていましたね。
しかし、それに対し釈迦は六道の中でも唯一人間として生まれてくる尊さについても同時に説いているのです。
それは、人間こそ六道四生への哀れみの心が唯一ある生き物だからということなのです。
ところで、衆生への哀れみがあるから人間として生まれてくるということは一体どういう意味があるのでしょうね?
実に、このことをじっくり考えてみると、素晴らしい発想に巡り会えるということにお気づきでしょうか?
それでは、この世の衆生を救済したいと愍れむ人は、どうしてせっかくの清淨の業報を捨てることになるのでしょう?
また、その人がもし菩薩や佛としてこの世へ現われることができるなら、どうしてそのまま菩薩や佛の立場として衆生を救済せず、わざわざあえて人間として生まれて来て、人間の立場として救済しなければならないのでしょう?
そのように矛盾する疑問解明がこの法師品に詰まっているのであります。
その解明となる大きなヒントは、どうやらズバリ、如來と佛の違いにあるように思えるのです。
つまり、如來や菩薩になれるのは人間だけでしたね。
ですから、六道四生は皆成佛はできるのでしょうが、如來や菩薩になれるのはその中でも唯一人間だけだということが重要な鍵になっているのではないでしょうか?
なお、釈迦はただ一人へ法華経を説いてあげている人は如來の使いであり、如來の佛事の代理をしている人であるといって一旦は尊重させておきながら、次に薬王菩薩に対しては、多くの人へ広く説くことが必要であると説いている、この意味不明な矛盾のある疑問もまた、人間だけが成れる如來そのものが一体どういうものであるのかの性質や特徴に対する重要な意味を含んでいるようなのです。
⇒ HPブログへリンク;第4-10日-廣く人の為に説かんをや-法師品第十-二十一行-二十六行/