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建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

「如来の使いと法師の違い」・・法師品第十【第四月】

2015-08-09 23:56:04 | 仏法
この法師品第十の薬王菩薩への説法は、人間界としての法師の役割りを説いているのではないでしょうか。
この品の最初にどんな六道の衆生であっても心得さえあれば簡単に成佛ができることを釈迦は説いていましたね。
   
しかし、それに対し釈迦は六道の中でも唯一人間として生まれてくる尊さについても同時に説いているのです。
それは、人間こそ六道四生への哀れみの心が唯一ある生き物だからということなのです。
   
ところで、衆生への哀れみがあるから人間として生まれてくるということは一体どういう意味があるのでしょうね?
   
実に、このことをじっくり考えてみると、素晴らしい発想に巡り会えるということにお気づきでしょうか?
   
それでは、この世の衆生を救済したいと愍れむ人は、どうしてせっかくの清淨の業報を捨てることになるのでしょう?
また、その人がもし菩薩や佛としてこの世へ現われることができるなら、どうしてそのまま菩薩や佛の立場として衆生を救済せず、わざわざあえて人間として生まれて来て、人間の立場として救済しなければならないのでしょう?
   
そのように矛盾する疑問解明がこの法師品に詰まっているのであります。
その解明となる大きなヒントは、どうやらズバリ、如來と佛の違いにあるように思えるのです。
   
つまり、如來や菩薩になれるのは人間だけでしたね。
ですから、六道四生は皆成佛はできるのでしょうが、如來や菩薩になれるのはその中でも唯一人間だけだということが重要な鍵になっているのではないでしょうか?
   
なお、釈迦はただ一人へ法華経を説いてあげている人は如來の使いであり、如來の佛事の代理をしている人であるといって一旦は尊重させておきながら、次に薬王菩薩に対しては、多くの人へ広く説くことが必要であると説いている、この意味不明な矛盾のある疑問もまた、人間だけが成れる如來そのものが一体どういうものであるのかの性質や特徴に対する重要な意味を含んでいるようなのです。
 
⇒ HPブログへリンク;第4-10日-廣く人の為に説かんをや-法師品第十-二十一行-二十六行/ 

『摩訶迦葉という釈迦の直弟子』・・受記品第六【第四月目】

2015-08-05 16:56:08 | 仏法
釈迦の大弟子摩訶迦葉とは、その名を梵語ではマハーカッサパというそうです。
彼は、王舍城の近くの村の裕福なバラモン信者の息子として生まれ、結婚もしましたが、世俗を離れる思いが強く、妻と共に釈迦の元へ弟子に入ったそうです。
そして迦葉は、衣食住に貪りを捨てる「頭陀行(ずだぎょう)」を実践し、頭陀第一と釈迦から称されたそうです。
                                            
なお、迦葉は釈迦よりも三歳年上で、釈迦教団の大番頭的な存在だったそうです。
釈迦が亡くなった時、迦葉は遠くに居て、一緒には居なかったらしいですが、急遽、駆けつけ、葬儀は迦葉が執行したそうです。
迦葉は次第に教団を統括する立場になったということですが、釈迦の死後、すぐに釈迦の悪口をいう者などが現われだす最中、長老比丘を集めて第一結集を主催したのも迦葉だったといわれています。
                                        
そういう責任感の強い迦葉を、釈迦はこの品ではとてもおだてて褒めているように思えますが、釈迦は迦葉の裕福な生まれによる甘えや得策、そしてバラモン教に対する執着が抜けきれないところをよく見抜いて、いかに迦葉へ本来の正しい佛法に対し本腰でヤル気を出させて護持していくようになるよう上手く方便で説いて誘導していたと考えられます。
                                     
釈迦は誰に対しても大乗佛教の正しさを新しい試みを持って力説で説いてきたのでしょうが、なかなか本格的な佛教初代目くらいの弟子たちへの修行の仕込みだけに、しっかりとした理解を把握できる弟子は一人も居なかったのでしょう。
                                      
釈迦は、筆頭弟子の迦葉が未來世に成佛するというその光明如來はどういうものかについて、端的に偈頌を用いて知らせているのは、諸佛の大乗経典ということについて、釈迦だけの説く大乗という感覚より、過去諸佛のすべてが貴重に運用してきた大乗の大切さを迦葉へ言いたいのではないかと思います。
                                        
また、その国に如來と共に住む声聞衆は、無漏の最後身と法王の子が混在するということでしょうか? どうやら、無漏の最後身であるとともに法王の子でもある両方である身、或いは同等に大切にすることが大事であることが正解と思えます。

⇒HPブログへリンク;第4-6日-無漏の後身-法王の子なる-授記品第六-十八行-二十六行/


最後身に於て成佛するとは?・・授記品第六【第三月目】

2015-07-29 21:59:30 | 仏法
最後身での成佛という意味は、たとえば釈迦は何万回と生まれ変わってその都度、世尊をしてきたように記されています。
つまり、釈迦はすでに最初の大昔に成佛してその後は佛であるままに世尊として生れ続けてきていたと考えられるのです。
   
そして、この度はその佛としての世尊を最終的に役割る最後身、つまり、もう二度とこの世に生を受けない身なのだとも考えられるのです。
ですから、この度釈迦は滅度すれば本当の涅槃に入り、ほぼ永遠にあの世だけに住む佛として、あとはあの世の佛としての残りの寿命ある限り、あの世の佛として完全に滅盡するだけの状態だと思えるのです。
   
ですから、佛が更に最後身としてこの世へ現れるということが、そのことを如來といって、佛がこの世へ現れる最期の決断のお姿ということなのではないでしょうか。
   
そうであるなら、最後身で成佛するという摩訶迦葉に対する授記の未來佛の名も如來と名付いているということに意味があるのかもしれません。
ところで、釈迦が迦葉へあえて最後身ではじめて成佛するであろうと言い伝えている意味は一体どういうことでしょう?
   
これは、摩訶迦葉がいつまでもこの世へ生れて来れること自体に幸せを感じる未練が強いということでもあると思います。
つまり、自身だけの幸せに強く執着しているということにも取れます。
   
ですから、そういう修行者は目一杯、生れてくる度にその都度、衆生の修行者として多くの諸佛世尊と巡り会い、諸佛世尊がどのようにこの世へ現れていたのかをその計り知れないお気持を十分に理解する必要があるということでしょう。
   
前回のこの品での迦葉への未來授記に於て、最後身に於て佛と成って君臨するその国は物凄く目が眩むほど素晴らしく、宝石一杯に荘厳されたような国が与えられるとして、釈迦は迦葉を一見喜ばせているかのようでしたね。
   
しかし、釈迦は本来、摩訶迦葉の豪華な宝石の世界に憧れて我を見失うほど、自惚れの強い性質があることをしっかり見抜いて、そのような現実に適うような豪華な未來をあえて予見してみせたのかもしれませんね。   
        
「5. 今 日 の 解 脱 !(解)」より

  
HP【ぶっけんの法華経済ぴらみっど】へリンク⇒第3-6日  最後身に於て佛に成る  【授記品第六】(十二行~十八行)
 

最期に釈迦を勝たせた支持者たちの思い掛けない連係プレー【普賢菩薩勸發品第二十八:第二月目】

2015-06-27 16:40:11 | 仏法
   
普賢が釈迦に会いにやってきたのは、普賢の住む宝威徳上王佛の国(観普賢行法経には東方の淨妙国とあります)の今までの習慣による佛法が、釈迦の説いた法華経の真実に比較して、違いや疑問を生じたために、おそらく、弥勒菩薩のように他国からそれを見聞するためにやって来たということかもしれません。
                                    
ところで、宝威徳上王佛の国は計り知れないほど多くの大菩薩に囲繞された国であり、宝威徳上王という名前からも財宝も限りなく保有している非常に豊かな経済大国のように連想されますね。
                                      
また、普賢の国は淨妙国という名でありますが、その名は以前から私が話題にしておりました淨と妙との違い関係の両方を合併したような国のようでありますね。
                                      
このようにどちらかに片寄らず、公平にどちらも取り入れる考えが釈迦の感覚ともとても合っている進んだ智慧のある宝威徳上王佛や淨妙国なのだと思います。
                                        
そして、ある意味では普賢は釈迦の娑婆国よりも進んでいるというライバル心を持ってやって来たのだと思います。
ところで、釈迦にすれば、再びかつての弥勒菩薩などのように他国間問題を発生させる危険を生じたものとも思えますね。
                                    
また最悪には、弥勒の時よりも遥かに越える規模数の大菩薩が乗り込んできたのですから、釈迦にとっては本当に最期の最後まで、またしても落ち着けない、今度こそ最後と思うほど、いつまでも同じことの繰り返しで、やるせなくわからないことになってしまうようで、ハラハラさせられますね。
                                     
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またある意味では、宝威徳上王佛や普賢菩薩は本当に思いやりやデリカシーがないのかと疑問にも思わせますね。
まるで最期の最後まで見栄の張り合いやハッタリ勝負に明け暮れるのかとあきれてしまいそうです。
                                      
しかし、一昨日の陀羅尼品の薬王菩薩の清らかな決断を覚えていますね。
最後ギリギリに薬王菩薩から思いがけず示された決断覚悟は、せめて滅度近い釈迦にとって僅かでも今までの指導の甲斐を感じさせてくれる、ささやかな満足感を得れたのでしょう。
                                      
そのように、思いがけずに得れた満足と次に備える作戦力は、この品での最後の強敵勝負に釈迦を勝ち取らせる劇的な逆転勝利が描かれていくのではないかと予測できてくるようです。
                                      
そのように、なんとも言えない感動がこの最終品には詰まっているようです。
弟子や菩薩の指導に明け暮れた如來の釈迦像だけがこの法華経の主内容のように認識させられていましたが、実は釈迦こそが最期の最後まで自ら戦う、或は戦わされる男の一人物だったようです。
   
この法華経の感動巨編は、年老いた釈迦が入滅前に言い残した将来へ引き継ぐ貴重な教えの記録みならず、みんなで実は釈迦の勝利を大応援していたのだという、みごとな連係プレーによる人間味の結論を感じさせてくれるのです。
                    
「 5. 今 日 の 解 脱 !  (解)」より

                                     
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第2-28日 Vol.56  遥か、法華経を聴受するために来たり 【普賢菩薩勧発品第二十八】(二行~八行)
   

『三昧と禅定』☆彡★妙音菩薩品第二十四その2

2015-06-23 18:14:35 | 仏法
三昧とは、対象が正しくとらえられるよう、心をその一つの対象に集中させて動揺しない状態をいうのだそうです。
また、心を一点に集中統合して静かに理想をありのままに知ることから、結合という意味もあるそうです。
                                     
そして、三昧とは禅定と同様に雑念を取り去る精神修行のうちの一つです。
なお、三昧と禅定は同義語という概念があるようですが、両者は基本的にその修行系統が異なる別々のものだと考えられます。
                                      
また、漢字の話になりますが、三昧は文字からして、その三は三宝や三乗といった三つあるという数値的意味であって、三昧は複数の集まりを統一させて、それからある一つの対象を知ろうとする結合瞑想であるといえると思います。
                            
そして、禅とは文字からして単独なイメージが浮かびますね。
ですから、禅は他を廃絶した、元々有る己自身のことを定める意味ではないかと思うのです。
                                      
つまり、三昧とは、その目的とする対象が己の外に散在していることを統合して一つにすることに対し、禅定はその目的が己の内に散在しているさまざまなことの中から一つを選んで定めるという分離瞑想ではないかと思います。
   
第2-24日 Vol.52  白毫相の光、妙音菩薩を照したもう 【妙音菩薩品第二十四】(六行~十三行)
  

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