ずっとそのまんまから一歩踏み出す

いつも同じところでつまずいてしまう自分。そのまんまから、ほんのわずかでもいいから、進んでいきたいがための日記

繰り返し繰り返し

2016-08-03 00:48:31 | 日記
あまり苦しい辛い思いはしたくない。


でも、どうしてもこれだけは、避けられない。





死なないとそこに行けなかったと・・・。


そのままそこに生き続けてたら、今の私は無かったと・・・。


あらたな気づきも、何も知らないまま死んでもよかったのか・・・。





そうなるくらいなら、そこの世界での自分の命が終了して良かったといえるのではないかと・・・。





私にもいいところがあるではないか。


でもそれは、私がどういう人間かということに繋がる。





上手かとか下手とかそういう問題ではなく、


誠意をこめて、心を込めて、何かをやり遂げて、


その結果、健康を害したこともあったけれど、


その後必ず、神様がご褒美をくださった。





その恵みの大きさに恐れおののくほどの。


神様の報い方はこうだ。


30円しか持ってなかったそのすべてを差しした。





そしたら、その人は持っているもの全てを差し出したということで、


その人の願いそのものになってくださる。


神様ご自身が。





そして、少しだけ差し出したなら、


その少しの分、わたしにも分けてくださる。





その人のしたように、主に差し出した分だけ、


主は報いてくださる。


メンタルな部分も含めて。





だから、窮地は逆に最大のチャンスにもなる。


リスクが高い中で、行ったことは、やはりそれなりの報いを受けるからだ。





どれだけのものを差し出したか、というのは


神様は人と比べたりなんかしないってところに感動した。





私がどれだけの勇気をもって決断して今の持っているものを投げ出したか、


それが実に正確に把握されてるのってすごいよね。





それに応じてだから。





だからこそ、ここぞっていうときは、


思い切ったことをしようと決断できるのかもしれない。





そうじゃない時はぬるま湯につかってるだけの私だけどね。





それならそれだけのものしか摘み取れない。


だから、危機的状況を与えられてる。





このままではいけない。


そして、主は恵みの時を待っておられる。





でも、私が行動を起こさないと主も与えたいものを与えられない。





リスクを伴った行動と決断。


でも、ダメだな。


そのリスクを払うまでの覚悟がいる。





それほどのことがあったときしか払えない。


そういうもんだ。





卓球の教室に行ったのだって、よっぽどの思いがあったから・・・。


そして、紹介してくれた人を信じたかったから。





行ったら、彼も来てくれた。


最初からじゃなかったからこそ、彼のありがたみがよくわかったね。


いつも楽しかった。


いてくれて。リードしてくれて。


それも、初めの1か月までがすごかって、後は距離できちゃったけどね。





懐かしい。


h神父様との出会いの時も、すごかったねー。


あの3か月は一生もんだったね。





もう二度と戻ってこない時だからこそ真剣だった。


でも、一番大事だったのは、


人が見てない時の自分だったと思う。





一人の時、必死で祈ったね。


初めてのチャレンジだった。


あの祈りの本を使って。





一時間かけて祈った。


もちろん、神父様方の前でも、


あの最中でも話ししに行ったり頑張った。


男性恐怖症のひどい時だったにもかかわらず、


そういう機会を与えていただいたからこそ、


私は大きく変われたんだ。





そして、神父様との別れがきた。





いつも、出会いがあるときは別れがある。


それは私にとって死と同然。


死を宣告されたも同然って時がある。





それでも、あの辛い辛い、死同然の別れを経て、


それから、また出会いがあり、


そこでまたさらに学び、


また別れがあり・・・。





その繰り返しだな。


いつも、同じことを繰り返してるけどね。





それでも、少しずつ変わってきてるよね。


きっとね。





衰えてきたものもあるし、


以前から変わらず繰り返されている悲しみの世界も存在するけれど、


私がそれらをはっきりつかめるようになってきたからね。


以前は漠然としてたけど・・・。








最新の画像もっと見る

コメントを投稿