主砲論:なぜ新井を応援するのか
迫 勝則著
徳間書店
1200円+税
2016年6月30日
この本が発行される前、6月26日対阪神戦、
私は新井の背番号25の赤いユニフォームを着て
マツダスタジオに応援にいきました。
すると、新井が先制のホームランを打ちました。
目がうるむほど感激しました。
この本は、私にとって、非常に教訓的でした。医学の世界でも、どこの世界でも、共通する、
「一途な努力は必ず報われる」を実例で教えています。
この本の紹介に替え、印象的な一部を抜書きします。
「初めて硬式ボールを握ったのは、広島県立工業高校に入ってからのことである。」
「ようやく新井貴裕の名前が呼ばれたのは、すでに一部の球団が全選手の指名を終える頃だった。
カープの6位指名が発表された。『新井貴裕、駒沢大学、広島東洋カープ』」
「彼は阪神球団の了解を得て、すぐの鈴木清明本部長のところへ電話を入れた。
『ボクは本当にカープに戻ってもいいんですか?』鈴木ははっきりといった。
『戻ってこい。それは前にも言っただろ!』」
「最初に彼の背中を押したのは、当時、同じ境遇にあった黒田博樹からの携帯電話だった。
『関係ない。お前のプレースタイルはカープにとってプラスになる。
それはファンの人たちにも必ず伝わる。』」
「2014年の師走のことだった。広島にアッと驚くニュースが流れた。
『新井貴裕、年俸2000万でカープに復帰!』」
「彼自身、著書の中でこう書いている。
『そもそも野球というのは、失敗のほうが多いスポーツである。
打者でいえば、3割打てば一流呼ばれる世界で、残り7割は失敗しているということだ。
何回失敗しても、立ち上がって前へ前へと進む。倒れる時も後ろではなく、
前のめりに倒れる。それが自分の野球観であり、人生感である』」
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経歴
プロ入り前
県立広島鋼業高校では3年時に夏の県大会でベスト16に入った。
その後、駒澤大学に進学し、4年時に日米大学野球で打率5割を記録。
同年秋のリーグ戦では打点王とベストナインを獲得した。
1998年のドラフト会議前に、新井は大学の先輩である野村謙二郎の自宅を訪れ、
自らのバットスイングをアピールした。この縁で、ドラフトでは野村からの強い推薦があり、
広島に6位で指名された。入団後は「将来の4番候補」として期待され、
自身もその意気込みを「空に向かって打つ」と宣言した。
広島時代
1年目の1999年は53試合に出場し、105打席で7本塁打を放つなど1年目からその長打力を見せつけた。
翌2000年は92試合に出場し、前年を上回る16本塁打を記録した。
2001年はレギュラーに定着し124試合に出場。
打率.284・18本塁打・56打点の成績を残した。
2002年は140試合にフル出場し、自己最多の28本塁打を記録し、オールスターにも初出場。
2003年、前年オフに阪神に移籍した金本知憲の後を継ぐ形で開幕から4番に座ったが、
打撃不振に陥って後半戦からはアンディ・シーツに4番を譲り、打率.236・19本塁打と成績を落とした。
2004年も前年に引き続いて不振が続き、打率.263・10本塁打に終わった。同年12月に結婚。
2005年、自身初の3割となる打率.305を記録し、
対阪神戦では球団タイ記録の6試合連続本塁打を放ち、43本塁打で本塁打王を獲得。
2006年1月、本塁打数は25本と減少したものの、前年を上回る100打点を記録した。
2007年は自己最多の55の四球を選び、28本塁打・102打点を記録した。
シーズン終了後、北京オリンピックアジア予選兼第24回アジア野球選手権大会に4番・一塁手として出場し、
日本代表の五輪出場権獲得に貢献した。この年にFA権を所得。
オフにFA権の行使を宣言。「残留に傾いた日もあれば、宣言しようとした日もある。
その繰り返しで焦っていた」という状況の中で、1か月間悩み抜いた末
「残留したら、いつか後悔するかもしれない」との考えに至った。
記者会見の席では「辛いです……カープが好きだから」「喜んで出て行くわけではない」
「FAなんてなかったら良かったのに……」と涙ながらに発言した。
阪神時代
2008年、古巣・広島と移籍後初めて対した広島市民球場での公式戦(4月1日)に、
「3番・一塁手」としてスタメンで出場。
広島時代のレプリカユニフォームがグラウンドに投げ込まれたほか、
広島ファンから大きなブーイングを受けながらも、3打数2安打2四球でチームの勝利に貢献した。
このシーズンの前半戦は好調で高打率を維持し、チームの首位独走に貢献した。
しかし、前半戦終了間近になって腰痛を訴え、一時登録を抹消されて以降は不振に陥った。
シーズン成績も8本塁打・59打点と大きく落ち込んだが、
守備では自身初となるゴールデングラブ賞を一塁手部門で受賞。
12月には宮本慎也から日本プロ野球選手会会長職を引き継いだ。
2009年、全試合スタメンでフル出場し、15本塁打・82打点を記録したが
、一方でリーグワーストの20併殺打、出塁率.299・OPS.700に終わった。
2010年、それまで長らく阪神の4番を務めてきた金本が4月18日の対横浜戦で
スタメン落ちしたことにより、移籍後初めて4番に座った。
それ以降ほぼ全ての試合で4番を打ち続け自己最高の打率・打点・盗塁を記録した。
オフにトレードで弟・良太が阪神に移籍し、
自身が阪神を退団する2014年まで共に同じチームでプレーすることになった。
2011年、この年3月に発生した東日本大震災後、当初予定通りの日程でシーズン開幕すると
発表したセントラル・リーグに対し、労組プロ野球選手会会長として開幕の延期を強く要望し、
問題解決のため奔走した。
震災被災地支援のため、2011年シーズンに放った本塁打1本につき10万円、
打点1点につき5万円の義援金を送ると開幕前に発表。
2度にわたって4番から外れる経験をしたが、最後は4番に戻り、
リーグトップの93打点で打点王のタイトルを獲得した。
オフに再取得したFA権を行使した上で新たに3年契約を結び残留した。
2012年9月に右肩痛で登録抹消されるなど同年は122試合の出場にとどまり、
2008年以来4年ぶりに全試合出場を果たせなかった。
また規定打席に到達しながらも打率.250・9本塁打・52打点で阪神移籍後最低の成績に終わった。
2013年後半戦は徐々に成績を落とし、スタメン落ちすることもあった。
シーズンを通して140試合に出場したものの、8月25日を最後に本塁打は1本も放てず、
最終的に15本塁打に終わった。
2014年シーズンに入るとゴメスが4番・一塁に定着し、新井は代打や三塁の控えに回った。
シーズン通算では94試合出場で、打率.244・3本塁打・31打点の成績に終わりシーズンオフには、
規約を上回る大幅減俸通告を受け、また翌年も代打中心になることが確実視されていたこともあって、
新天地を求めて11月4日に球団に自由契約を申し入れ、了承された。
広島復帰後
2014年11月14日には、広島との契約合意が球団から発表されるとともに、入団記者会見が開かれた。
自由契約前に阪神から提示されていた年俸は7,000万円で、
広島との契約はそれをさらに下回る2,000万円だったが、新井はこの条件を即決で受け入れた。
2015年は、開幕直前に右肘関節炎を発症してしまったため、
開幕ベンチスタートとなり、右の代打起用がしばらく続いた。
4月7日の巨人戦(マツダスタジアム)で、復帰後初の「4番 一塁」でスタメン入りを果たしてから。
後半戦から終盤戦にはスタメンでの起用が増えたため、
最終的には規定打席にも到達し、打率.275と、3割5分に近い出塁率をマークした。
なお、シーズン終了後の12月16日には、は、
故障したグスマンに代わって4番に定着した。
5月9日の古巣阪神戦(甲子園)で、復帰後初ホームランを放った。
それでも、規定打席未到達ながらも一時的に首位打者になったり、
得点圏打率リーグ1位になることもあった。
8月18日に3度目のFA権を取得した復帰時点から3倍増の推定年俸6,000万円で契約を更改。
2016年から再び背番号「25」を着用することも発表した。
2016年4月26日、対東京ヤクルト3回戦(明治神宮野球場)の第二打席、
ヤクルト先発の成瀬善久からレフト線への適時二塁打を放ち、NPB47人目の2000本安打を達成した。