今年のグラミー賞は日本人の受賞ラッシュでした。
ポップス、ジャズ、クラッシック含めて、インストゥロメンタルなものに限っては、日本の音楽は十二分に世界基準であることが証明されたように思います。そう、あくまでも「インストゥロメンタルは・・・」ってとこなんですよね。言葉の壁のある”歌モノ”が、海を渡るのはやはり難しいのでしょうか?
今回、つらつらとそのあたりを考えてみたところ、どうも問題は「言葉の壁」だけではないような気がしてきました。
高校生の頃、国語の授業で印象に残っている話があります。
島崎藤村の有名な詩『小諸なる古城のほとり』について習っていた時のことなんですが、先生曰く、
「この詩をどれだけ上手く英訳したとしても、欧米の人には全く面白くないんや」と。
なぜならば、「”否定形”のオンパレードだから」なのだそうです。
「緑なすはこべは萌えず
若草も籍(し)くによしなし」
「あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず」
「暮行けば浅間も見えず」
・・・確かに否定形だらけ
欧米人からすれば「結局、なぁんもあらへん景色やないかい!どこがオモロイねん?」という感想になるのだそうです
島崎藤村から話はいきなりフォークへ飛びますが、泉谷しげるさんの『春夏秋冬』もそうですよね。
「季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち
夢のない家を出て 愛のない人に会う」
これまた、”ないないづくし、ないづくし~”で、欧米の人からすれば"So,what?"なのではないでしょうかね。
でも、日本人はこの「何も無さ」の中に、何かを感じ取る感性を持っている。この感性の部分、情緒的なるものっていうのは説明してわかってもらうのは難しい。その辺に「日本人アーティストがアメリカで成功できない」ひとつの理由があるのではないか?と思うわけです
この感性の違いがある限り、どれだけ正確な英語で歌詞を書き、完璧な発音で歌ったところで、意味は伝わっても心には響かないのかもしれません。藤村や泉谷さんの歌ほど明確なものでないにしても、歌詞に「日本的なる情緒」がDNAのごとく潜んでいる限り、欧米のヒット曲と同様な売れ方をすることはないのかな、と。
かつて、オフコースもアメリカ進出を狙って『Back street of Tokyo』という全編英語のアルバムを出しました。
結局アメリカで販売されることはなかったのですが、この時の歌詞は、原曲の歌詞のニュアンスを作詞者のランディ・グッドラム氏に伝えた上で書いてもらったものであったと当時の雑誌記事で読んだ気がします。
確かに『Eyes in tha back of my heart』(原曲:君が、嘘を、ついた)にせよ『SECOND CHANCE』(原曲:Call)にせよ、オリジナルの世界観に忠実な歌詞になってますね。
・・・これ、もしも、向こうの作詞家が(それが別にグッドラム氏でもかまいませんが)、全く自由に詞をつけていたなら、果たしてどうなっていたでしょうか?
私ごときの英語力で、オフコースの全米進出が実現しなかったのは歌詞のせいだなどという大それたことを言うつもりは全くもってありません。契約関係でも色々あったのだと思います。が、今回のグラミー賞のニュースを受けて、島崎藤村の話を思い出した時に、ふと考えてしまったのでありました
そうはいっても、世界は年々狭くなっています。いずれこの壁をも軽々と乗り越える曲が、アーティストが出てくることでしょうね。近いうちにきっと
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