
其の壱の続き
モンゴルの燃料は薪(1)
■モンゴル高原は大雑把に言って東の大興安嶺から西のアルタイ山脈に挟まれた、標高1000メートル前後の草原とその南に広がるゴビ砂漠へと続いています。ゴビの南が「漠南」で、今の中華人民渠和国の内モンゴル自治区に当たります。ゴビの砂漠は、ユーラシア大陸を東西に貫く恐るべき大乾燥地帯の東端に位置する不毛の大地なので、東アジアの歴史は大まかに言ってゴビの北に展開した北方遊牧民の抗争と、その南に出現する農業主体の大帝国の興亡との対象性を持っています。どちらかが圧倒的な優位性を獲得した時、ゴビを越えて相手を併呑しようとする大遠征が始まり、互いの文化の決定的な違いに耐えられなくなる時が来ると再び分裂するように歴史は流れて来ました。
■800年前に出現したチンギス汗の大帝国も、その発展過程を地図上に追いますとゴビ砂漠を越えて南下したのは大遠征の最後の段階だった事が分かります。今の首都ウランバートルも、その300キロ西に位置する古都カラコルムもモンゴル高原の北半分に広がる大森林地帯の南端に有り、先行帝国の遼が滅亡した後を受けて権力の空白を埋めるべく始まった諸部族の統一抗争の中で核となったのがモンゴル部族だったのでした。オングート、ケレイト、ナイマンなどの近隣部族を統一して戦闘部隊を編成した時に、テムジンはチンギス汗になったわけですが、チンギス汗の大軍団は迷わず西進を開始しています。つまり、ゴビ砂漠の北端を通って中央アジアに君臨していた西遼を滅ぼしてゴビの北を統一しようとしたのでした。アラル海の東に位置するオトラルというオアシス都市が遠征の最終目的地だったとも言われています。
■チンギス汗の悲願は漠南の地に繁栄していた金王朝の打倒だったのですが、歴史の悪戯で西遼を滅ぼした直後にアフガニスタンとイランを支配していた大国ホラズムとの抗争事件が勃発したために、中東のイスラム圏を席捲し東ヨーロッパまでを踏み荒らす大戦争に繋がって行ったのでした。単なる通り道だったロシアの地は、たまたま草原と森林がモンゴルから連続していたために酷い目に遭ったのでした。そのお返しがソ連時代のモンゴル文化の大破壊となって現れるのは700年も後の事でした。
■目を東に転じますと、モンゴル帝国の東端には金帝国と西夏とが境を接してモンゴルとはちょっとした『三国志』状態になっていました。三国鼎立となれば、お決まりの「2対1」の原理が働きます。選択を間違えたオルドスを征していた西夏は、モンゴルを裏切って金と結んだためにチンギス汗の生涯最後の獲物となって滅ぼされてしまいます。そのまま東に転じて悲願の金打倒に向かう途中、1227年、六盤山で稀代の英雄チンギス汗は逝去したのでした。2代目大汗に即位したオゴタイが父の遺志を継いで万里の長城を破って金帝国を滅ぼします。それからはチンギス汗帝国の分裂時代となって、東アジアの征服を担当していたフビライが南宋を滅ぼして元王朝を建てるという流れです。
■こうして歴史を振り返りますと、モンゴルは沙漠の民ではないのは勿論、純粋な草原の民でもなかった事が分かります。モンゴル族の故地は北の森林地帯だったと言われる通り、彼らには木が必要だったようです。遊牧の国と聞いて、ついついチベットと多くの共通性が有るかと思って訪ねると、その風景には無闇と樹木が目に付きます。滞在したゲル・キャンプでも、達磨ストーブの燃料は立派な薪で焚き付けは白樺の樹皮なのでした。家畜の糞など欠片も出て来ませんでした。キャンプの近くに居る牧民一家を訪ねた時も、乾燥した牛や羊の糞とは出会いませんでした。乾燥した平べったい牛糞もちょっと大きめの正露丸みたいな羊の糞も、燃やすととても良い香りがするのですが……。森林の民だったモンゴルは、広大な草原地帯に進出しても樹木から離れることは無かったのではないでしょうか?
■今年2006年8月22日から28日まで、第14世ダライ・ラマ法王が招待に応じて7回目のモンゴル訪問をしています。
「モンゴルとチベットは神聖なる誓いで結ばれ、つきあいの深い国民であります。私は1979年に初めてモンゴルを訪れて以来、何回も再訪している事を大変嬉しく思います。民主後、モンゴルでは仏教に対して大変化が表れており、文化・教育・宗教を発展させている事にも大いに感謝します。国の発展は国民と深い関わりも持っています。発展の一つの柱は国民の信仰であります。モンゴル人の皆様はチンギス汗の子孫、ユニークな歴史を持つ国民です。チンギス汗時代には馬に乗って武器を携え、世界を征服しました。今こそモンゴル人は勇気や心の力、努力で教育を受けるのが大切です」
■これはウランバートル市内のガンダン寺で法王が行った法話の一節です。含蓄の有る意味深な重要単語が鏤(ちりば)められているダライ・ラマ法王の発言からは、チベットとモンゴルの現状が偲ばれますが、13世紀以降の両国の関係は切っても切れない深いものがあります。チンギス汗が大活躍していた頃、ゴビ砂漠のずっと南に位置していたチベットは世界中が大騒ぎしているのを天空の地から見下ろしていたようですが、いくら標高が高くとも地続きである限り大蒙古軍団の隣で無事に済むはずは有りません。金帝国を滅ぼした後、モンゴル軍は南下して四川方面から南宋を圧迫する別働隊を派遣します。四川は南宋とチベットの境界地帯で、長江沿いに東進すれば南宋攻略戦の拠点となり、西の高原地帯に攻め上ればチベット侵攻が可能な場所です。実際に中国人民解放軍はその経路を通ってラサを襲撃しましたし、毛沢東の大逃走(長征)でも同じ道を北上しています。
モンゴルの燃料は薪(2)
■2代目オゴダイ大汗の次男にグデンという王子が居ます。南宋を西側から圧迫しようと西夏の地を通って蘭州を拠点にして周囲を威圧する重要な任務を帯びていました。大モンゴル帝国の南隣に位置している自分の立場を自覚しなかったチベットは分裂状態で、朝貢も滞りがちとなって明確な帰順の意思を示さないと疑われてしまいます。まだチベット仏教に帰依していなかったモンゴルでしたから、東から攻め上ってラサ近くの二つの大寺院を見せしめに炎上させたのが1239年でした。500人の僧侶と多数の市民が殺害されたそうです。情けないことに、難を避けられた他の寺院は、事前に危険を察知していた檀家の氏族達が行った裏工作を御蔭で生き残りますが、グデン王子はチベット全域を代表する使節との交渉を要求して来ます。
■チベット地域は西遼、西夏、金に続いて滅亡する瀬戸際に追い詰められます。7世紀には大唐帝国を震撼させた吐蕃の面影も無くなっていたチベットに残されていたのは仏教文化だけでしたから、この絶体絶命の危機を回避する大任を果たしたのは一人の老僧でした。その名をサキャ・パンディタと言います。サキャは出身地の大地が灰色がかっている事から付けられた名前で、出身地の名で呼ぶのは最高の敬意の表現です。パンディタはインドの言葉を語源とする大学者を意味していまして、後にモンゴルにもこの慣習が伝わります。
このサキャ・パンディタが62歳の高齢を押して2人の甥を伴って蘭州にやって来ます。グデン王子に拝謁したのは1247年の事でした。
■黄河が泥で黄色く濁る前の上流、その川岸に有る蘭州にサキャ・パンディタが到着して見ると、何とグデン王子は「口減らし」と称して毎日毎日、漢族を黄河に投げ込んで溺死させていたそうです。チベット全権代表のサキャ・パンディタは仏教の慈悲と因果応報の道理を説いて、まずは無益な口減らしを止めさせ、グデン王子を徐々に仏教徒に変えて行く一方で、モンゴル軍団の恐るべき実力を見抜いたサキャ・パンディタはチベット各地の有力氏族に密書を送って「恭順」を説きます。この外交工作が成功してチベットはモンゴルの直接支配を受けずに自治が認められたのでした。寺と檀家の関係が生まれたというわけです。
■サキャ・パンディタは蘭州の地で1251年に70歳で没し、彼に心酔していたグデン王子もそれを追うように同年に死亡します。サキャ・パンディタに後事を託された甥のパクパは、雲南の大理国を征服して北上して来たフビライを迎える事になります。南宋とチベットを抑える要衝であった蘭州に拠点を定めたフビライは、グデン王子が果たせなかった両国の征服を完了する事に役回りを演じ、その業績を誇示して1260年に大汗に即位したのです。この第5代大汗から絶大な信頼を得ることに成功したパクパは、元朝の「帝師」の地位に就きます。フビライも仏弟子となりましたから、本当は師のパクパの下座に着かねばならないのですが、それでは大汗の権威が傷つくので内緒の相談で公式の場だけでは師の上座に着く事を了承して貰ったそうです。
■当時のモンゴルには独自の文字が無かったので、多種多様な宗教書や文学作品を持っている諸民族の上に君臨する場合、命令書や詔勅を被支配民族の文字で書くのは体裁が悪く、権威が保ち難いと考えたフビライは、パクパに公式文字の制定を依頼します。それに応じてチベット文字を基礎として工夫されたのがパクパ文字と呼ばれる縦書き用の文字です。パクパ文字は1269年に公布されて、全ての詔勅はこの文字で書かれる事が定められ、宛先の地域別に現地の言語の訳文を添える法令が出されています。今も、チベット人の中には現行のモンゴル語は、この時に定められたパクパ文字の草書体の一種だと主張する者が居るのですが、残念ながら商取引と契約書類に普及していたウイグル文字を流用したのが現在のモンゴル文字の出自です。
■パクパ文字はその性質上、簡便な行書体や流麗な草書体を生み出せない真四角の文字だったので元朝の消滅と共にモンゴル文化の中から消え去って行きました。現行のモンゴル紙幣にパクパ文字によくした四角い縦書き文字が印刷されているのですが、実はこの文字はウイグル文字から発達したモンゴル語独自の書体なので、パクパ文字の知識ではまったく読めません。でも、字体の雰囲気はパクパ文字に良く似ています。短命に終わったパクパ文字ですが、不思議な縁で今のハングル文字の先祖に当たるのです。元朝の支配を受けていた高麗の王子が大都(北京)に人質として長期間滞在していた間に、その表音システムを学んで祖国に伝えたのです。高麗の後に建国された李氏朝鮮の世宗が1446に公布した『訓民正音』は、チベット語を基にして工夫された縦書きのパクパ文字にサンスクリット語の音声構成理論を加味して朝鮮(韓国)語の音声に適するように体系化された世界で最も科学的な表記体系なのです。サンスクリット語を学んで創作されたチベット文字は横書き専用でしたが、それを参考にしたハングル文字も横書きが美しく、パクパ文字を参考にしたから縦書きも可能なのです。
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ちょっとモンゴルの勉強
モンゴルの燃料は薪(1)
■モンゴル高原は大雑把に言って東の大興安嶺から西のアルタイ山脈に挟まれた、標高1000メートル前後の草原とその南に広がるゴビ砂漠へと続いています。ゴビの南が「漠南」で、今の中華人民渠和国の内モンゴル自治区に当たります。ゴビの砂漠は、ユーラシア大陸を東西に貫く恐るべき大乾燥地帯の東端に位置する不毛の大地なので、東アジアの歴史は大まかに言ってゴビの北に展開した北方遊牧民の抗争と、その南に出現する農業主体の大帝国の興亡との対象性を持っています。どちらかが圧倒的な優位性を獲得した時、ゴビを越えて相手を併呑しようとする大遠征が始まり、互いの文化の決定的な違いに耐えられなくなる時が来ると再び分裂するように歴史は流れて来ました。
■800年前に出現したチンギス汗の大帝国も、その発展過程を地図上に追いますとゴビ砂漠を越えて南下したのは大遠征の最後の段階だった事が分かります。今の首都ウランバートルも、その300キロ西に位置する古都カラコルムもモンゴル高原の北半分に広がる大森林地帯の南端に有り、先行帝国の遼が滅亡した後を受けて権力の空白を埋めるべく始まった諸部族の統一抗争の中で核となったのがモンゴル部族だったのでした。オングート、ケレイト、ナイマンなどの近隣部族を統一して戦闘部隊を編成した時に、テムジンはチンギス汗になったわけですが、チンギス汗の大軍団は迷わず西進を開始しています。つまり、ゴビ砂漠の北端を通って中央アジアに君臨していた西遼を滅ぼしてゴビの北を統一しようとしたのでした。アラル海の東に位置するオトラルというオアシス都市が遠征の最終目的地だったとも言われています。
■チンギス汗の悲願は漠南の地に繁栄していた金王朝の打倒だったのですが、歴史の悪戯で西遼を滅ぼした直後にアフガニスタンとイランを支配していた大国ホラズムとの抗争事件が勃発したために、中東のイスラム圏を席捲し東ヨーロッパまでを踏み荒らす大戦争に繋がって行ったのでした。単なる通り道だったロシアの地は、たまたま草原と森林がモンゴルから連続していたために酷い目に遭ったのでした。そのお返しがソ連時代のモンゴル文化の大破壊となって現れるのは700年も後の事でした。
■目を東に転じますと、モンゴル帝国の東端には金帝国と西夏とが境を接してモンゴルとはちょっとした『三国志』状態になっていました。三国鼎立となれば、お決まりの「2対1」の原理が働きます。選択を間違えたオルドスを征していた西夏は、モンゴルを裏切って金と結んだためにチンギス汗の生涯最後の獲物となって滅ぼされてしまいます。そのまま東に転じて悲願の金打倒に向かう途中、1227年、六盤山で稀代の英雄チンギス汗は逝去したのでした。2代目大汗に即位したオゴタイが父の遺志を継いで万里の長城を破って金帝国を滅ぼします。それからはチンギス汗帝国の分裂時代となって、東アジアの征服を担当していたフビライが南宋を滅ぼして元王朝を建てるという流れです。
■こうして歴史を振り返りますと、モンゴルは沙漠の民ではないのは勿論、純粋な草原の民でもなかった事が分かります。モンゴル族の故地は北の森林地帯だったと言われる通り、彼らには木が必要だったようです。遊牧の国と聞いて、ついついチベットと多くの共通性が有るかと思って訪ねると、その風景には無闇と樹木が目に付きます。滞在したゲル・キャンプでも、達磨ストーブの燃料は立派な薪で焚き付けは白樺の樹皮なのでした。家畜の糞など欠片も出て来ませんでした。キャンプの近くに居る牧民一家を訪ねた時も、乾燥した牛や羊の糞とは出会いませんでした。乾燥した平べったい牛糞もちょっと大きめの正露丸みたいな羊の糞も、燃やすととても良い香りがするのですが……。森林の民だったモンゴルは、広大な草原地帯に進出しても樹木から離れることは無かったのではないでしょうか?
■今年2006年8月22日から28日まで、第14世ダライ・ラマ法王が招待に応じて7回目のモンゴル訪問をしています。
「モンゴルとチベットは神聖なる誓いで結ばれ、つきあいの深い国民であります。私は1979年に初めてモンゴルを訪れて以来、何回も再訪している事を大変嬉しく思います。民主後、モンゴルでは仏教に対して大変化が表れており、文化・教育・宗教を発展させている事にも大いに感謝します。国の発展は国民と深い関わりも持っています。発展の一つの柱は国民の信仰であります。モンゴル人の皆様はチンギス汗の子孫、ユニークな歴史を持つ国民です。チンギス汗時代には馬に乗って武器を携え、世界を征服しました。今こそモンゴル人は勇気や心の力、努力で教育を受けるのが大切です」
■これはウランバートル市内のガンダン寺で法王が行った法話の一節です。含蓄の有る意味深な重要単語が鏤(ちりば)められているダライ・ラマ法王の発言からは、チベットとモンゴルの現状が偲ばれますが、13世紀以降の両国の関係は切っても切れない深いものがあります。チンギス汗が大活躍していた頃、ゴビ砂漠のずっと南に位置していたチベットは世界中が大騒ぎしているのを天空の地から見下ろしていたようですが、いくら標高が高くとも地続きである限り大蒙古軍団の隣で無事に済むはずは有りません。金帝国を滅ぼした後、モンゴル軍は南下して四川方面から南宋を圧迫する別働隊を派遣します。四川は南宋とチベットの境界地帯で、長江沿いに東進すれば南宋攻略戦の拠点となり、西の高原地帯に攻め上ればチベット侵攻が可能な場所です。実際に中国人民解放軍はその経路を通ってラサを襲撃しましたし、毛沢東の大逃走(長征)でも同じ道を北上しています。
モンゴルの燃料は薪(2)
■2代目オゴダイ大汗の次男にグデンという王子が居ます。南宋を西側から圧迫しようと西夏の地を通って蘭州を拠点にして周囲を威圧する重要な任務を帯びていました。大モンゴル帝国の南隣に位置している自分の立場を自覚しなかったチベットは分裂状態で、朝貢も滞りがちとなって明確な帰順の意思を示さないと疑われてしまいます。まだチベット仏教に帰依していなかったモンゴルでしたから、東から攻め上ってラサ近くの二つの大寺院を見せしめに炎上させたのが1239年でした。500人の僧侶と多数の市民が殺害されたそうです。情けないことに、難を避けられた他の寺院は、事前に危険を察知していた檀家の氏族達が行った裏工作を御蔭で生き残りますが、グデン王子はチベット全域を代表する使節との交渉を要求して来ます。
■チベット地域は西遼、西夏、金に続いて滅亡する瀬戸際に追い詰められます。7世紀には大唐帝国を震撼させた吐蕃の面影も無くなっていたチベットに残されていたのは仏教文化だけでしたから、この絶体絶命の危機を回避する大任を果たしたのは一人の老僧でした。その名をサキャ・パンディタと言います。サキャは出身地の大地が灰色がかっている事から付けられた名前で、出身地の名で呼ぶのは最高の敬意の表現です。パンディタはインドの言葉を語源とする大学者を意味していまして、後にモンゴルにもこの慣習が伝わります。
このサキャ・パンディタが62歳の高齢を押して2人の甥を伴って蘭州にやって来ます。グデン王子に拝謁したのは1247年の事でした。
■黄河が泥で黄色く濁る前の上流、その川岸に有る蘭州にサキャ・パンディタが到着して見ると、何とグデン王子は「口減らし」と称して毎日毎日、漢族を黄河に投げ込んで溺死させていたそうです。チベット全権代表のサキャ・パンディタは仏教の慈悲と因果応報の道理を説いて、まずは無益な口減らしを止めさせ、グデン王子を徐々に仏教徒に変えて行く一方で、モンゴル軍団の恐るべき実力を見抜いたサキャ・パンディタはチベット各地の有力氏族に密書を送って「恭順」を説きます。この外交工作が成功してチベットはモンゴルの直接支配を受けずに自治が認められたのでした。寺と檀家の関係が生まれたというわけです。
■サキャ・パンディタは蘭州の地で1251年に70歳で没し、彼に心酔していたグデン王子もそれを追うように同年に死亡します。サキャ・パンディタに後事を託された甥のパクパは、雲南の大理国を征服して北上して来たフビライを迎える事になります。南宋とチベットを抑える要衝であった蘭州に拠点を定めたフビライは、グデン王子が果たせなかった両国の征服を完了する事に役回りを演じ、その業績を誇示して1260年に大汗に即位したのです。この第5代大汗から絶大な信頼を得ることに成功したパクパは、元朝の「帝師」の地位に就きます。フビライも仏弟子となりましたから、本当は師のパクパの下座に着かねばならないのですが、それでは大汗の権威が傷つくので内緒の相談で公式の場だけでは師の上座に着く事を了承して貰ったそうです。
■当時のモンゴルには独自の文字が無かったので、多種多様な宗教書や文学作品を持っている諸民族の上に君臨する場合、命令書や詔勅を被支配民族の文字で書くのは体裁が悪く、権威が保ち難いと考えたフビライは、パクパに公式文字の制定を依頼します。それに応じてチベット文字を基礎として工夫されたのがパクパ文字と呼ばれる縦書き用の文字です。パクパ文字は1269年に公布されて、全ての詔勅はこの文字で書かれる事が定められ、宛先の地域別に現地の言語の訳文を添える法令が出されています。今も、チベット人の中には現行のモンゴル語は、この時に定められたパクパ文字の草書体の一種だと主張する者が居るのですが、残念ながら商取引と契約書類に普及していたウイグル文字を流用したのが現在のモンゴル文字の出自です。
■パクパ文字はその性質上、簡便な行書体や流麗な草書体を生み出せない真四角の文字だったので元朝の消滅と共にモンゴル文化の中から消え去って行きました。現行のモンゴル紙幣にパクパ文字によくした四角い縦書き文字が印刷されているのですが、実はこの文字はウイグル文字から発達したモンゴル語独自の書体なので、パクパ文字の知識ではまったく読めません。でも、字体の雰囲気はパクパ文字に良く似ています。短命に終わったパクパ文字ですが、不思議な縁で今のハングル文字の先祖に当たるのです。元朝の支配を受けていた高麗の王子が大都(北京)に人質として長期間滞在していた間に、その表音システムを学んで祖国に伝えたのです。高麗の後に建国された李氏朝鮮の世宗が1446に公布した『訓民正音』は、チベット語を基にして工夫された縦書きのパクパ文字にサンスクリット語の音声構成理論を加味して朝鮮(韓国)語の音声に適するように体系化された世界で最も科学的な表記体系なのです。サンスクリット語を学んで創作されたチベット文字は横書き専用でしたが、それを参考にしたハングル文字も横書きが美しく、パクパ文字を参考にしたから縦書きも可能なのです。
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