蒙古旅行入門編 其の壱

2006-09-14 07:45:51 | アジア編
◎同志レーニンにも労働を!

■今年はチンギス汗即位800周年祭で、日本国籍を持っていればビザ無しで存分に旅行が楽しめます。ほんの50年前には、うっかり親分兄貴分のソ連の気も知らずに「750年祭」を企画して大目玉を喰ったのも、今では遠い昔のお話です。何と言いましても、国技大相撲の横綱・朝青龍の祖国、大関白鵬が順調に勝ち進めば間も無く東西両横綱の祖国になりますぞ!頑張れニッポン!でも、個人的に旭鷲山が贔屓なので、彼が切り拓いたモンゴル力士の道を続々と可愛い後輩達が歩く姿はまったく不快ではありません。どうも日本の力士は「相撲」を言われたままに取っているようで、「勝負」に出て来る蒙古の力士には歯が立たないような気がします。それはサッカーにも共通するようで、日本人選手は一所懸命に「サッカー」という競技を上手にやろうと努力しているのに対して、欧州や南米の選手は「勝負」と「商売」をやっているように見えるのですが、如何でしょう?

■某国の貧しさや不便さには、無闇矢鱈に腹が立つのに、何故かモンゴルで体験する多少の不便は楽しいもので、猛烈な勢いで復興している様子を実感してしまいます。日本からのODAに対して、きちんと感謝の意を表している事、それに加えて遊牧民特有の旅人を歓迎する精神文化の影響かも知れません。ウランバートル市内を車で走っていても、ガイドさんは細かく「ここは○○という場所です。日本の援助で完成しました」と、同じ場所を何度通過しても忘れずに説明してくれます。面映いやら、律儀さに感心するやら、某国の尊大な態度とは大きく違います。でも、市の中心に有るスフバートル広場に面して建っているピンク色のオペラ劇場が、シベリア抑留の日本兵によって完成した事を記念するプレートなどは無いのだそうです。日本大使館の皆さんは、ちょっと手抜かりではありませんかな?立派な慰霊碑が完成して小泉総理が感動しながら献花したのに、その英霊が苦労して建てたオペラ劇場なのですから、日本からの観光客にも現地の人々にも読める、両国語で歴史を記した立派なプレートを嵌め込みたいと提案しても、モンゴル政府が拒否するはずはないでしょう。

■そのモンゴル語はロシア語と同じ「キリル文字」で書かれています。ウイグル文字を下敷きにした独自のモンゴル文字も有りますが、無数の書籍や記録文書がキリル文字で書かれてしまっているので、一気に文字を切り替えるのは無理なようです。建国の父とされるスフバートルがソ連から導入された印刷機で新聞を発行する植字工出身だというのですから、キリル文字を一掃するのはずっと先の話になるかも知れません。さて、どうしてウランバートルにレーニン像が残っているのか、少しばかりモンゴル現代史をおさらいしておきましょう。

■元朝が建てられた頃には大モンゴル帝国はチンギス汗の息子達によって既に分割されていましたが、元朝が明に追われて北の草原に戻ってからも部族間の対立抗争が続いて清朝の支配を甘んじて受けねばなりませんでした。元の支配領域を受け継いだ明朝と、更にそれを拡大した清朝でしたが、南からは英国、東からは仏国、北からは露国が迫り、米国と独国も割り込み、朝鮮半島からは日本が乗り込みましたから、征服王朝の清はチベットや香港などの領土を諦めるのと同時に、モンゴル高原も手放して民族の故地である満洲を中心に国内の守りを固めようとします。その時、既に内モンゴル地域の遊牧地が入植した漢人によってあちこち掘り返されてすっかり耕地に変えられていたのでした。かつてフビライが大都(北京)を占領した時に農民を追い出して全ての畑を草地にしようとした話が有りますが、漢化が進んだ清朝末期には逆の現象が起きていたのでした。

■清末ともなればモンゴル民族の心に反漢・独立感情が高まって各地で反漢暴動が頻発しました。貴族出身のトクトホは「馬賊」となって漢人襲撃を繰り返し、知識人だったハイシャンは露国や清朝の圧力が弱かった外モンゴル地域と連携して独立を画策して外モンゴル貴族のツェレンチミドと共に外モンゴルの族長に独立を説得したりします。そんな中、1911年に辛亥革命が起こってハイシャンの運動が実り、帝政ロシアからの財政援助が得てハルハ部(外モンゴル)の王侯たちは清からの独立を宣言します。チベット仏教界の最高権威で民族全体のシンボルだった化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世がモンゴル国君主(ハーン)に即位します。これが「ボグド・ハーン政権」と呼ばれる現代モンゴルの基礎となった民族国家です。1913年には、同じように独立を宣言していたチベットと相互承認条約を締結したのでした。

■そのまま内モンゴルを奪還しようとしますが、経済的にも軍事的にも支援を受けていた帝政ロシアが新生中華民国に外交的な配慮をして内蒙古からの撤退を命じます。露国は日本との対決を避けて、外交的に南下政策を進めようとしていたのです。そして、1915年に「キャフタ条約」が締結されて中国の宗主権を残したままで外モンゴルは「自治権」を得ます。内モンゴルは既に日本軍が注目していた軍事的に重要な場所となっていたので、露国はそれを牽制するためにも支配権の変更は望みませんでした。つまり、モンゴルが外と内に分断されたのは、周囲の3カ国の思惑による勝手な線引きだったのでした。

■日露戦争の後、1917年にロシア革命が起こって北から圧力が消えると中華民国は外モンゴルを回復しようとして、1919年に自治を取り消しますが、ロシアの内戦が飛び火した1920年10月になるとウンゲルンに率いられた白軍がモンゴルを拠点に反撃しようと侵入して中国軍を駆逐し、ボグド・ハーン政権を復興させました。このウンゲルンという人物は粗暴な面が目立って人心が離反し、ボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンなどの民族主義者や社会主義者がモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成し、ソビエトの援助を求めて完全な独立を求めます。この時、乗馬で使う鞭に密書を隠してレーニンに赤軍の援助を求めたのだそうで、それに応じた赤軍と極東共和国軍はモンゴルに攻め込んで、7月にはジェプツンタンパ8世を君主とする「モンゴル人民政府」が樹立されます。

■チベット仏教を国教とする神聖社会主義国家となるはずが、1924年にジェプツンタンパ8世が逝去してしまいます。ソ連の影響も有って、第8世の転生者は認めない事とされて政体は一気に「モンゴル人民共和国」(社会主義国)になったという事です。このジェプツンタンパの初代はチベットのラサでパンチェンラマの弟子となり、偉大なる5世ダライラマ直々に、ターラナータのホビルガン(転生者)と認定されて黄色い絹の天蓋と印璽を下賜され、ジェブツンダンバ・ホトクトの称号を賜って帰国しているのです。それが1650年頃の事なのです。最近もダライラマ14世がモンゴルを訪問して大歓迎を受けているのも、こうした深い縁がかるからなのです。更に、このジェプツンタンパ1世は、ザナバザルという俗名でも親しまれておりまして、寺院を建立したり非常に美しい仏像を作った才人でしたので、モンゴル人は誰も彼の業績や伝説をよく知っています。ウランバートル市内にはザナバザル博物館が有り、他の博物館や寺院にも彼が製作したと言われる仏像や仏画が大切に保管されています。

其の弐に続く

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2 コメント

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TB (きし)
2006-09-25 20:27:02
ありがとうございました。

なるほどと…勉強になりました。
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きしさんへ (旅限無)
2006-09-25 23:45:03
いらっしゃいませ。突然のトラック・バック、ご無礼いたしました。拙文が何かの参考になりましたら幸いです。何とか連載を完成させたいと思って鋭意努力中であります。ちょっと気長にお付き合い下さいね。
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