マクルーハンの最初のまとまった著作『機械の花嫁』が出版されたのは1951年、マクルーハンが40歳の時だった。本の副題は、邦訳では「産業社会のフォークロア」となっているが、英語では"Folklore of Industrial Man"であるから、直訳すれば「産業社会人の民話」である。後の『グーテンベルクの銀河系』の副題"The Making of Typographic Man"や『メディアの理解』の副題"The Extensions of Man"にも見られるように、マクルーハンの関心は最初から人間に向かっていたことがよく分かる。また、価値判断は留保するマクルーハンであるが、「機械の花嫁」というタイトルからは、マクルーハンが機械文明が統一体としての人間性humanityを損なうことへの批判的な態度が読み取れる。
『機械の花嫁』は、40年代のアメリカの雑誌や新聞の広告、コミック、推理小説、西部劇などを批評の対象に乗せ、アメリカ大衆文化、メディア文化を分析しようとの試みであった。広告素材を研究の題材に使うことは著作権問題が起きないので都合が良かったという。日本で広告を批評の対象にした雑誌『広告批評』が創刊されたのは1979年であるから、マクルーハンはその30年前にすでにマスメディアと広告がもたらす文化と人間意識の変容に取り組んでいたわけである。この本は、後の『グーテンベルクの銀河系』と『メディアの理解』が、メディアそのものを分析対象にして「メディア論」と呼ばれるようになったのに対して、批評の対象がメディアのコンテンツの一つである「広告」であったため、いわゆる「メディア論」の本としては扱いづらく、後の二冊に比べて書かれた批評は多くない。出版当時もあまり話題にならず売れなかった。しかし、この本は、マクルーハンがケンブリッジで学んだ文芸批評の手法を大衆文化の批評に適用した、つまり広告写真や文化を言語と見なして批評した最初の本として、またマクーハンの関心がメディア技術そのものに向かう転換点となった本として重要である。
マクルーハンは、Gerald E.Stearnの『花嫁』についての質問に次のように答えている。
「『機械の花嫁』は、テレビによって完全に否定された本の好例である。アメリカの生活おけるあらゆる機械的な前提はテレビ登場以来、取り払われてしまった。アメリカの生活は有機的な文化になった。女性らしさFemininityは、写真の挑発的な魅惑から、何もかもを巻き込んでいく触覚モードに移ってしまった。女性らしさは、かつて視覚的なものの混合であった。今や女性らしさは、ほとんどまったく非視覚的である。私はたまたま偶然に、テレビ登場の直前に、その存続期間の最終段階にきているそれ(視覚的な女性らしさ)を観察したのである」("McLuhan:Hot and Cool")
『花嫁』が出版されたまさにその時、北米はテレビ文化に侵食され始めていた。『花嫁』で論じた機械文明の視覚的な世界はエレクトロニクスの触覚的な世界に取って代わられようとしていた。多くの人は、機械とエレクトロニクスは技術的に連続したものと考え、本質的な違いを意識しなかったが、マクルーハンは、電気のスピード、光のスピードに機械文明によって分断された統一体としての人間性を回復させる可能性を見たのである。「メディア論」揺籃の10年がこうして始まった。
『機械の花嫁』は、40年代のアメリカの雑誌や新聞の広告、コミック、推理小説、西部劇などを批評の対象に乗せ、アメリカ大衆文化、メディア文化を分析しようとの試みであった。広告素材を研究の題材に使うことは著作権問題が起きないので都合が良かったという。日本で広告を批評の対象にした雑誌『広告批評』が創刊されたのは1979年であるから、マクルーハンはその30年前にすでにマスメディアと広告がもたらす文化と人間意識の変容に取り組んでいたわけである。この本は、後の『グーテンベルクの銀河系』と『メディアの理解』が、メディアそのものを分析対象にして「メディア論」と呼ばれるようになったのに対して、批評の対象がメディアのコンテンツの一つである「広告」であったため、いわゆる「メディア論」の本としては扱いづらく、後の二冊に比べて書かれた批評は多くない。出版当時もあまり話題にならず売れなかった。しかし、この本は、マクルーハンがケンブリッジで学んだ文芸批評の手法を大衆文化の批評に適用した、つまり広告写真や文化を言語と見なして批評した最初の本として、またマクーハンの関心がメディア技術そのものに向かう転換点となった本として重要である。
マクルーハンは、Gerald E.Stearnの『花嫁』についての質問に次のように答えている。
「『機械の花嫁』は、テレビによって完全に否定された本の好例である。アメリカの生活おけるあらゆる機械的な前提はテレビ登場以来、取り払われてしまった。アメリカの生活は有機的な文化になった。女性らしさFemininityは、写真の挑発的な魅惑から、何もかもを巻き込んでいく触覚モードに移ってしまった。女性らしさは、かつて視覚的なものの混合であった。今や女性らしさは、ほとんどまったく非視覚的である。私はたまたま偶然に、テレビ登場の直前に、その存続期間の最終段階にきているそれ(視覚的な女性らしさ)を観察したのである」("McLuhan:Hot and Cool")
『花嫁』が出版されたまさにその時、北米はテレビ文化に侵食され始めていた。『花嫁』で論じた機械文明の視覚的な世界はエレクトロニクスの触覚的な世界に取って代わられようとしていた。多くの人は、機械とエレクトロニクスは技術的に連続したものと考え、本質的な違いを意識しなかったが、マクルーハンは、電気のスピード、光のスピードに機械文明によって分断された統一体としての人間性を回復させる可能性を見たのである。「メディア論」揺籃の10年がこうして始まった。