祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第25回(サウサリートへ移りローマ家へ)

2011-11-10 09:17:59 | 日記
24.サウサリートへ移りローマ家で働く


 十一月下旬に一年振りにシスコを去ってホットした。今度の家はローマ家(Roma)といって、ローマ夫人は画家で、サンラフェール・ハイスクール(Sanrafail)の図画教師として就職する傍ら、家のアトリエで絵筆をとっていた、相当名の売れた画家であった。未亡人で老婆と息子(John:ハイスクール生)一人の三人暮らしであった。
 家は古いが大きい立派な邸宅で、海岸から聳え立つ丘の上に建っており、アトリエや客間から海を眺める景色は実に美しく、遠く対岸の山々も一望に眺められた。
 付近には住宅もなく、閑静そのものの場所で、空は清澄、空気は新鮮、樹々の緑は濃く、全くの別天地で、シスコのハッスル、バッスル(hustle and bustle:町の騒音)から脱れ出してよかった。
 日中は夫人も子供も通学するので、留守居の老婆を世話して家の炊事の仕事やアトリエの清掃をすれば、後の時間はレジャータイムだった。 
 私はよくGrandma(老婆)の面倒を見たので、老婆は訪れる人に、”Saburo is a very kind and nice boy. ”(三郎は親切で良い子供だ)とほめてくれた。
 日曜日には夫人は終日アトリエに閉じこもって絵を書くので、側で筆のタッチなどを眺めることができた。主として海岸の景色だった。時には画板を提げてスケッチに行くこともあり、私は子供とよく表でキャッチボールなどをしてツレツレを慰めた。
 ジョンは日曜日に教会へ行かないときは私と一緒にハイキングをしたこともあって、付近の名所などを見物した。 
 サウトリートから十五キロ余りのタマルパイ(Mt. Tamalpai)という山に登る途中に、この地方で有名な「巨樹の森」(the giant woods)と呼ばれるシェアーウッズ(Shear woods)の森がある。この巨木の森は加州でも有名で、かのヨセミテ渓谷(Yosemite)の入口に近いマリポサ(Maliposa)にある”a giant tree”(一本の巨大樹:世界一といわれて、幹の中を大きな馬車が通れる)に比して第二の巨樹がある所で、ここには十数本以上も生えていて、幹の太さは二メートル以上もあって驚いた。樹齢三千年以上との説明で、メタセコイヤ種であるとのことだった。巨大老樹には一々名称がついていて、米国大統領や政治家等の名前でマッキンレー、ルーズベルト、ジョージ・ワシントン、フランクリン等で面白かった。入園料は二十五仙で土産物屋も園内にあって観覧者もいた。
 タマルパイ山はシスコ地方で最も有名な登山に好適した山で、当時でも珍しい材木を燃料として運搬する軽便鉄道が、ブーブー火を吹いてガタン、ガタンと山道を登って行くのが観光客に人気があって、私も記念にこの山に登って良い思い出となった。
 あのシスコの雑踏から逃れて、この静かなサウサリートに来たお蔭で心も休まるし、チョットでは見物できないシェアーウッズの森やタマルパイ山の楽しいハイキングができたことは幸せであった。
 そうこうして働いているうちにクリスマスも近づいていたが、田舎町のことであるから、町の様子も、普段と少しも変わりがなく、シスコにいた時のような年末の感じは少しも出なかった。
 ローマ家では十二月二十四日のクリスマス・イブには客を招待して晩餐会を開くというので、前日私は夫人と一緒に町へ買い物に行って、夫人がターキー(turkey:七面鳥)一羽とクランベリー(cranberry:ツルコケモモ、実を砂糖で煮詰めてジャムにして七面鳥につけて食べるソース)やその他の品物を沢山買ったが、恥ずかしい話だが私は七面鳥を見たことがなかったから、クリスマスデイナーの料理は大変なことだと思った。
 当日は午後から夫人と一緒に料理に取り掛かって、七面鳥の腹にスタッフ(stuff:鳥の腹の中に詰め物をすることで、材料は普通パンを水でほぐして、塩や胡椒で味をつけて、中に牡蠣などを入れて作る)を入れる作り方などを教わったが、良い参考になって、その後は自分でもできるようになった。
 またお祝のデザート(dessert:食後に出る菓子)は正式にはプラム・プッデイング(Plum pudding)を出すのでこの作り方も習った。これは十日位前に林檎を細かく切って、バターと豚の油肉のコマ切れや、乾葡萄や、乾梅のコマ切れに、色々のスパイス(spices:香料)を加えて混ぜ合わせ、ビンに入れて置くと発酵するので、菓子を作るときに菓子の材料に入れて焼くので、中々面倒な菓子である。
 七面鳥は三時間もオーヴンで蒸焼き(bake)しなければならず、時々汁をかけて蒸焼きするのだから、大変なことであった。七時ごろ全部できたので、テーブルセットもでき、いよいよ晩餐が始まった。
 その夜の招待客は夫人の勤めている高等学校の女教員二名であった。七面鳥が大皿に盛られて、食卓の上に乗せられて、デイナーのコースが始まる前に、一同神に祈りを捧げた。
“Our father which art in heaven,
Hallowed be thy name,
Thy kingdom come, They will be done in earth,
as it is in heaven.
Give us this day our dairy bread.
and forgive us our debts, as we forgive our debtors,
and lead us not into temptation, but delives
from evil; For thine isthe kingdom, and
the power, and the glory, forever. Amen. 
 天にいます 我らの父よ、
 願わくは、御名を崇められん事を、
 御国の来たらん事を、
 御意(こころ)の天のごとく、地にも行われん事を、
 我等の日用の糧を今日もあたえ給え、
 我らに負債ある者を我らの免したる如く、
 我らの負債をも免じ給え、
 我らを試みに遇せず、悪より救いだし給え、
 アーメン
(駐:米人の信仰の厚い家庭では、夕食の始まる前には必ずこの祈願をするので参考に示しておく)
 私はいつもの時の祝宴よりも、もっと慇懃に給仕の役を果たして、盛会裡に終了した。一同”A Merry X’mas to you.”と主イエス・キリストの生誕を祝福して、楽しいイヴは過ぎた。
 サウサリートではシスコのような除夜の騒ぎもなく、静かな二年目の新年を迎えることができた。年は1906年となり、私は数え年21歳になった。
 このローマ家の世話になって、知らず知らずのうちに三月の春が来たが、またシスコ市に出たくなった。それはサウサリートにいては学業を始めることは不可能であった。家の夫人と息子のジョンはともに六キロを隔てたサンラフェールという町のハイスクールに通っているが、私はこの学校に入学できたとしても、家の都合で老婆の世話を見なければならないから、ローマ家ではだめだのであった。たとえローマ家をやめて、この地の学校に通学したくても、スクールボーイの求人は皆無だから、再び桑港に戻らざるを得なくなったのである。
 夫人は残念がって、せめて夏期休暇のくる六月頃まで居てくれと頼まれたが、私の決意は固く、桑港に出るなら一日も早い方がよいと考えて遂にサウサリートを去ることになった。
 私は今日でも、遥かにあの風光明媚なサウサリートを偲び、温情豊かなりしローマ夫人に感謝の念で一杯である。
 後年私が東洋汽船会社の社員として、サンフランシスコ支店に勤務して家内の恵以を日本から迎えて、シスコ市対岸のアラメダ街のエンシナル・アベニュー(Encinal Avenue, Alameda:  ここにあった家で長男の平伍がベビー時代に育てられた処)に一家を構えた当時のことである。
 ある日会社がひけて家に帰る途中、マーケット街(Market St.)を歩いていくと、フェリー近くのビルの空家で、美術品、特に絵画のオークションを(Auction:競売)をしているのを見付けたので、中に入って競売の様子を見ていた。好きな油絵があれば一枚競り落として、家のパーラー(parlor:客間)に飾り付けたいと考えていたが、適当なものがなかった。しばらくすると、競売人が一枚の画を取り上げた。見ると額入りの六十センチ大の光景画であった。
“Now, a swell landscape in oils. Roma’s picture. Any one. One voice! How much! How much!”(さあさあ素晴らしい油絵だ。風景画だ。ローマの作品だ。誰でも、一声、いくら、いくら)と大声で呼ばわった。
 その瞬間私はハットした。この絵は昔御世話になったローマ夫人の書いた絵であろう。とにかくセッテ見ようとしたとたん五弗と声がかかった。私は十弗、するとまた十五弗、ついには三十五弗と競り上がったが、中々落ちない。私がForty dollars(四十弗:当時日本貨幣八十円、中堅サラリーマンの月給)と値づけしたら、“Forty dollars, More. Any one.”声がないので私に落ちた。アラメダの家の客間の大切な記念品となった。 
 景色はシャスタ.マウンテン(Shasta Mountain:加州の北部にあってシェラ山脈=Sierra Mountain Rangesの高峰4386フィート)らしく、高い山が朝日を受けてパッと輝き、二,三本の松の枝があしらっている絵であった。ローマのサインは私の見覚えのある字だった。
 私の上役の東郷正作氏が、私の家を訪れたときこ絵を見て、これは素晴らしい絵だ。君が帰朝した時、是非わしに譲ってくれと頼まれたが、そのままになって横浜の本牧の家にかけていたが、不幸にして関東大震災の際失ってしまった。今でも残念に思っている。



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