祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第68回(卒業後3 東洋汽船株式会社入社~)

2011-12-27 10:21:38 | 日記


在職中に、日本人小学校の改築を断行して、日本人会の経営として、A砥先生夫妻を教員に迎えた。このため在留民より寄付金を集め、また華村日本語園創立費募集演芸会を一夜開催して私も出演した。(松田午三郎著 「静子」の中にある写真参照)。かくして学園の改築も竣工したので、花火の打ち上げをして祝賀式を挙行したので、米人も喜んで多数参観してくれた。華村は排日の最中にもその影響は少なかった。


神埼桑港日本人会幹事もワッソビル日会の活躍を喜んでくれ、今後も日本人同胞のために尽力してくれと要望されたが、私は1917年三月一日付けを以って東洋汽船株式会社に東郷正作氏の尽力で入社することになって、サンフランシスコ支店勤務を命ぜられ、俸給百弗(六ヶ月後に正社員となって百二十弗を支給された。幹事の二倍の俸給)を支給されて、いよいよサラリーマンとして出発することが出来た。このため楽しかったワッソンビル、特に松田午三郎氏の親交と松田夫人静子さんの温情は終生忘れることの出来ない思出の一つである。


私は、大正八年、社船天洋丸で、一月四日帰社、金沢市のK本栄作氏の妹恵以と横浜で二月七日結婚して、根岸に一家を構え、横浜営業所に勤務、俸給当時百十五円(大学出は初任給三十~四十円)を得た。横浜在勤三ヶ月にして、Captain Filmerから、是非とも、私のシスコ市の店に帰るよう度々電報で要請あり、やむなく五月一日 日本丸で再渡米して、サンフランシスコ支店に勤務し、フィルモーア港湾船長のassistantとなって、社船並びに邦船の荷役の監督、税関移民局との折衝、出入港の手続き等を行ったので、多忙を極めたが、やりがいのある仕事でよかった。

私が外国勤務中は、恵以は、横浜に一家を構えていたが、私の本俸とボーナスは全部支給してやったので、裕福に暮らすことが出来た。私の母も半年位同居したこともあった。私は在外手当金百四十弗で、バークレーのFisher夫人の家に、社員K瀬谷英彦君(故人)と一緒に下宿して出社していた。

大正十年一月下旬、恵以、社船天洋丸でK瀬谷夫人一枝さんと一緒に渡米した。私の本俸は百四十円に昇給した。サンフランシスコ市のポスト(Post Street)に一家を構えた。同年五月頃横浜正金銀行桑港支店の三島君がニューヨーク支店に転勤することになり、氏のアラメダ市の借家が空くので、私が入ることになった。二階建ての1戸建てで庭も広く、家具つきの家で家賃四十五弗だった。家の近くがサウザン・パシフィック鉄道会社のアラメダ・ターミナルで通勤には便利だった。

同年十月二十六日、平伍サンフランシスコのポスト街村山産院で出生、アラメダの家で成長。

 大正十一年八月本社の命で、社船大洋丸で帰社。横浜営業所文書課勤務となったので、本牧町天徳寺に一家を構えた(当時家賃二十五円)。

同年十一月二十六日平冶出生。

 大正十二年九月一日、関東大震災に合って横浜市全滅、会社も倒壊したが九死に一生を得た。

 一先ず、社船大洋丸で避難民と共に神戸支店に出頭して後、金沢のK本栄作氏の所に妻子を託するため出発した。妻子を金沢に残して再び神戸支店に出社、たまたま浅野良三取締役が来社中であったので、正式に神戸支店勤務となった。

 神戸市石井町の社宅を割り当てられたので、十月上旬金沢から妻子を呼び寄せた。

 大正十三年一月、本社に転勤を命ぜられたので、妻子を金沢市に居住さすことにした。(東京では家がないので)恵以は材木町に居住して、私は東京のK本利作氏の深川の家に寄寓して通勤したが、震災後のことでもあり、丸の内の本社に通うのには大変だった。

 大正十三年三月三十一日付けで、一身上の都合で退社、同年四月一日付けで中外商業学校に就職、大阪市西成区の粉浜(現住吉)に一家を構えて大阪玉江橋の学校に通勤した。平造粉浜で出生。

 大正十四年夏、学校は塚口に移転し、私も伊丹市に家屋を新築して移住し、以来今日に至った。

 昭平以下秀子まで凡て伊丹で出生。

 私は学校の教頭、教務主任、高校主事、中学高校の副校長、校長代理、理事となって、在職二十八年間勤務、この間一年、梅花女子専門学校の講師をして、昭和二十六年六月、中外商業高等学校を尼崎市に移管の件を処理して退職した。
                             

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