祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第26回(シスコ市へ戻り復活祭を迎えた間の出来事)

2011-11-11 08:09:36 | 日記
25.シスコ市へ戻り復活祭を迎えた間の出来事


 シスコ市へ帰って二,三日したらイースター(Easter:キリストの復活祭)を迎えた。三月の下旬であった。暫くパインの教会にも顔を出さないので、協会のイースター・サービス(Easter Service:復活祭の礼拝式)に参列した。礼拝が終わってから、広田善郎(前述)牧師に面会して、今までのご無沙汰をお詫びして、私が今日まで歩んできた過去二年に亘る色々の生活の話をした。
 牧師は「わしは今まで沢山の若い人を世話して、彼等が神を信じ、人類を愛し、神の道に背かない行いをして、立派にアメリカで成功してくれと日夜祈っているが、事実はこれに反して多くの青年は、自由な天地に甘えて、安易な生活に陥り、悪を求めて、嘗て抱いていた自分の志も放棄して、悪の道を辿るものが大多数である。私は彼等が一日も早く悔い改めて神のお前にひれ伏すことを祈願しているのだ。君はよく自分の素志を一歩一歩実現に近づかせしめている。屈してはならぬ。神は正しき者を救い給うから、今後も誠の道を歩いて成功してくれ。」と私の将来を祝福してくれたので、一層意を強くした。そして保証人を(surety:学校の保証人)を必要とする時はいつでも引受けるからと固く握手して別れた。
 この教訓は常に私の座右の銘として、常に守り続けた。大学在学中の保証人は広田牧師で、師の厚意には感謝の外はない。
 シスコ市の私の塒は常にクラブであった。シスコには数軒の日本人下宿屋があって、失職者やパートタイマーや仕事が嫌でぶらぶら遊んでいる若者連中が雑居していた。こういう所に生活すると、生活も放縦になり易くなるのだが、私はこの点、実に恵まれていた。会員の青年は皆真面目で、勉学に励んでおり、家事労働をする人々も、将来の学資を作る目的の人々であったから、世間の誘惑に導かれるようなことは一度もなかった。
 さて教会から二,三軒おいた所に一軒の日本人住宅があって、この家の地下室にT井辰五郎(東京の浅草出身)という人が、小さな書籍店(book store)を開業していた。本屋といっても、地下室(basement)の四畳半位の部屋の中に一間位の本棚(shelf)を作って、日本の古本を集めて売っていた。スクールボーイなどが、金に困って売った本で、たいして参考になるようなものはなかった。
 T井は昼間は時々店を閉めて、パートタイマーなどの仕事をしてからスクールボーイ連中の集まる時刻に開店をしていた。
 スクールボーイで学校へ行かない連中は行く所がないので暇つぶしによくこの店に来ては、ワイワイ騒いで議論などをして時を過ごしていた。
 私も仕事を止めて遊んでいる時は、つれづれのままにT井の店へ行って、遊ぶことがあるので、T井とは懇意になった。T井はかつてクラブのメンバーだったこともあり、性格も江戸っ子らしいパキパキした所があり、人には好かれる性質だったから、ボーイ連中の集合所のようになっていたのである。
 ある日曜日の午後、私はぶらぶらと店へ行くと、七,八名のボーイ連中が集まって盛んにワイワイ議論している。議論の話題を聞いていると、
「君はアメリカでまだ学問をしたい志望があるかね?」
「僕はやり通したいね。」
「僕はないね。」
「今のようなことでは、もう望みもないだろう?」
「そうだ、仕方がないね。」
「学問をする望みがないならどうするね?」
「僕は金を貯めて商売をして見たいね。」
「僕は田舎へ行って農業をして見たいね。」
「君に百姓の仕事ができるものか。」    「いや、やれる」
「いや、やれん」
、等などと言い合っている。
 学問のみがアメリカでやる仕事ではなく、農業しかり、商業しかりで、「各々の好む道に進んで成功すれば同じでないか」との結論でケリとなった。そして彼等の総てが、大学へ入学したいなどという考えは夢の夢で、砂上の城に過ぎない。金もなく、親身になって学資の面倒を見てくれる人もなくて、自活してまで苦学することは好まないと、皆異口同音にいっていた。
 すると筒井が斎藤君はどうかねと聞くので、「私は今のところは夢の夢だが、きっと実現したいね。苦学はもとより望む所だから、一歩一歩やり通す覚悟でいるのだ。」と 
答えると角田(?)が「よし、僕は学問する気は毛頭ないが、君が立派に大学を卒業するか、僕が商売に成功するか、ここでお互いに誓い合おう。機会があれば十年後にここで合おう。」というので、固い誓いの握手を交わして別れた。
 この誓いは私をして益々発奮させ、彼の成功を祈ると共に、必ず実現さしてみたいと念願した。
 幸い私は誓いの十年目に大学を卒業して、この約束を果たしたが、角田はどうであったか、その後の動静は知るよしもなかった。(この二,三週間後に大地震が起きて、知己、友人も各地に離散してしまった。)
 数日後にT井が晩ヒョッコリ、クラブにやって来た。彼は私に、「店を改善して、本の外に絵葉書や文房具などを売ったら、来る人にも便利であるし、喜ばれるであろう。今の商売では食べて行けないから、すまんが仕入れ金として四十弗貸してくれないか」と頼み込まれた。
 私は人に融通してやるような金はないし、また、あってもどんなことが身に振りかかってくるか解らんから、気の毒だが勘弁してくれと拒絶したが、「君以外には当てがないから、是非貸してくれ。金はできるだけ早く返すから、心配しなくても良い」というから、よろしいと、貸してやった。懐には余すところ約十弗しかなかった。
 アメリカで我々が生活する基調は常に相互扶助(mutual assistance)の精神で、その精神が欠けては外国での生活は成り立たないのである。いつその日のパンにこと欠く場合もあるかもしれんし、互いに助けたり、助けられたりして苦楽を共にするのが、アメリカにおける日本人社会の特色で、この点は日本の社会よりも優れていた。私も金に困ったときは度々友人から助けてもらったし、食にこと欠く時は友人の世話になったこともあった。
 T井はこの金で文房具品を仕入れて以前より店も少しは良くなった。ところが四月十八日にサンフランシスコに突如未曾有の大地震が起こって、莫大の被害を与えた。T井と私は別れ別れとなって、以来十年間も互いに消息不通となってしまった。
 私は地震後数日にしてロス.アンゼルス(Los Angeles)に移住したので、T井のことは全く忘れて金のことも諦めていた。
 1917年(大正六年)の秋頃、私が東洋汽船会社桑港出張所の埠頭事務所で執務していると、突然一人の日本人が入って来た。よく見ると十年前に顔馴染のあったT井辰五郎氏ではないか。私もビックリしたが先方も驚いた様子でタジタジしている。
「いやー、T井君お達者で、なによりだ。震災で別れてからもう十一年にもなるが、私はあの後ロス・アンゼルスに行って暮らしていたが、また、懐かしいシスコに帰って、こうして勤めているのです。」と話しかけたら、彼は「私はあの後方々を転々として、色々な仕事をして暮らしていたが、今はサンマテオ(San Mateo:シスコ市から十五マイル位のところにある町)でクリーニング店を開業して、商売も順調にいっているので、今度日本に帰ろうと思い立って、あなたの会社の船で明日出帆するので、お詫び方々、ご挨拶に来たのだ。」と言って「昔お借りした金です。」と金貨四十弗を差し出した。私は、今は大会社の社員で、もう金には困らない身分になっていたので、帰国のお餞別にしようと、「君、帰国するので色々物入りでしよう。御厚意はありがたいが、取って置き給え。」というと、「あの時のご親切は今でも感謝していて、一日も早くお返ししたいと思っていたのだが、今日になって誠にあいすまないが、どうぞ納めてください」というので、彼の心をくんで、受け取ることにした。
 彼の出帆当日、船内に彼を訪れて、お餞別の印として絹の靴下を送って彼をねぎらい、船のボーイにT井君の特別サービスを頼んだ。



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