祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第67回(卒業後2 殺人事件の通訳)

2011-12-26 11:51:54 | 日記


私が赴任して半月余りたった或る夜、七時半頃、一台の自動車が日会の前に来て、あわただしくドアを開けて事務所に入って来て

”Say, come on, secretary”(おい。幹事さん来てくれ)と、わけも話さずに、私を自動車の中に押し込んだ。この男はワッソンビルのコンステーブル(Constable巡査)で、車中での話では、ネルソンという果樹園に働いているO木という労働者が同僚のN川(?)という男を斧で頭を打って殺害して逃げる所を捕らえているので、通訳として立会ってくれとのことだった。

 現場に行って驚いた。O木はN川を斧で、三箇所、頭を叩き割って殺していた。その場で自白したので、一先ず、郡の未決監獄に連行された。死体検察官(coroner)もその残虐さには驚いていた。数日経ってから、ワッソンビルの法廷でシェリフ(Sheriff郡の司法官)から尋問があって、私はO木側とシェリフ側の通訳をやったが、沢山の日本人も参観した。また証人として、雇主のネルソンも出廷したが、O木は、ネルソンが、N川を信頼して仕事を与えるのに、自分には冷たく当たるので、それを恨んでの仕業であるらしく、三日の間、時々斧を出しては刃を磨いていたと証言した。O木は殺害したその夜、室の戸の入口の所に隠れていて、N川が、戸を開いて入る途端に一撃を加え倒れるところを更に追撃したと。の告白をしたが、彼は広島県人で、もとは船乗りでメキシコから密入国した事実をも告白したならずものだった。

法廷の尋問は約一時間余りで済み、私もほっとした。

翌日は、身よりのないN川の埋葬を日本人会の手で行い、サリナスの墓地にアンダーテーカー(Undertaker葬儀屋)の手で執行した。

その後、重罪犯人であるから、サンノゼ市の法廷で裁判が開かれ、法廷弁護士もついて、また、私が通訳で結局老齢のため懲役十五年に処せられた。

この事件で、ワッソンビルの在留邦人は、私を信頼して未納者もどんどん会費を納付してくれたので日会の会計も黒字に転換した。私はもう自転車を使わないで馬車(bogie)に乗って悠々馬に手綱をあてて、田舎廻りが出来るようになった。

時たまたま、明治神宮外苑の寄附募集の件が、シスコ総領事館より要請があり、私は事件を契機として多数の醵金を集め、五弗以上の賛助会員数五百余名で、加州日本人会のうちでも最も優秀なる成績を挙げた。

また、日本人の農耕者が土地借入れの期限が経過して、農作物の未回収の問題で紛争している事件も、雇主に交渉して円満なる解決を見たので皆に喜ばれた。



注)醵金とは、「拠金」とも書く。ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。




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