デンカの宝刀(一男二女の父、元政府系金融機関職員の資格八冠王)

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名古屋 対 東京(78:本流から独立して一派を建てた武道家)

2024年06月18日 | 名古屋 対 東京

名古屋出身と東京都出身で

本流から独立して一派を建てた

著名な武道家がそれぞれ2人ずつ

いた。

すなわち、

神戸金七鹿嶋清孝

  VS 塩田剛三藤平光一

 

神戸金七師範は、明治27年1月、

名古屋市梅園町(現在の名古屋市中区

梅園町)に生まれる。旧姓は、服部

8歳のときに新陰流道統第19世・尾張

柳生家第13代当主柳生厳周師範に入門。

新陰流兵法を学び、若くして高弟

となる。

他に、小野派一刀流剣術風伝流

槍術尾張貫流槍術剣道天神

真楊流柔術など各種の武術を修め、

厳周伝新陰流十一世尾張貫流

第七世継承者を名乗る。

ただし、厳周伝新陰流十一世について

は、本家である柳生会を含め新陰流

の他会派から疑問が呈されているところ

ではある。

名古屋工業大学に学び、愛知県庁

建築課に勤務するも、戦後、春風館

道場を名古屋市守山区に設立。

昭和34年に名古屋市中川区宗円町

道場移転した。

この道場移転に関しては、弟子である

加藤伊三男師範の尽力が大きい。

近年は、加藤伊三男師範の弟子である

赤羽根龍夫・大介師範による各著作

により、春風館の技法が武道界に

広く認知されるようになった。

「柳生新陰流を学ぶ」

  赤羽根龍夫 著(剣道日本)

「武蔵「円明流」を学ぶ」

  赤羽根龍夫・大介 著

 (剣道日本)

 

鹿嶋清孝師範は、明治33年4月、

愛知県春日井郡庄内町(現在の

名古屋市西区の北部)に生まれる。

始祖は、尾張藩にて神道無念流、

長沼流兵法を伝承する家系に育つ。

16歳から愛知武徳会に通い、水戸

から派遣されていた田中厚師範に

師事する。

田中師範亡き後、京都武徳会

講習生として修行。

愛知県熱田中学教諭、享栄商業学校

剣道教士などを務め、昭和11年の

明治神宮体育大会にて剣道一般壮年

専門家試合優勝

昭和13年に道場を建設して、精勇館

を受け継ぎ、新陰流道統第20世・

尾張柳生家第14代当主柳生厳長師範を

招いて居合の教授を受けるようになる。

昭和20年、名古屋駐留米軍司令部

から招かれ、

柳生師範、栗本信三師範と共に米軍

司令部で演武し、「神業である」と

大好評をうけ、その場で、将校2名

が入門した。

柳生厳長師範から柳生流兵法抜刀術

目録相伝を受け、

全日本居合道連盟より範士・九段

全日本剣道連盟より居合道八段範士

を授与される。

柳生厳長師範とは別に独自に

精勇館として新陰流居合の普及に努め、

特に中部地方を中心に新陰流居合

広く普及している。

「目で見て学ぶ 居合道新陰流」

 小山将生 著

(体育とスポーツ出版社)

 

新陰流居合とは、元々は、柳生家に

伝承されていた柳生制剛流抜刀術

あり、本伝の新陰流兵法そのものでは

ない。

(正確に言うと、尾張柳生家の宗家

 補佐役であった長岡房成の長岡家

 に伝わっていた制剛流抜刀術を

 柳生厳長師範が新陰流の理合で

 練り直したものが柳生制剛流抜刀術

 なので、たとえば、1本目の向之刀

 は、新陰流本伝「参学円之太刀」の

 「一刀両段」の理合で行わなければ

 ならない。

 で、この柳生制剛流抜刀術鹿島

 師範は、新陰流居合と名乗って普及

 させた。)

そのためか、新陰流兵法転会の書籍には、

鹿島師範が、制剛流抜刀術新陰流居合

と改名して演武を行ったため、柳生厳長

師範から破門されたとの記載がある。

しかしながら、鹿島師範は、戦前の

柳生厳周追悼演武会で、厳長師範や

神戸師範らと共に演武している高弟

であり、鹿島師範が新陰流居合

名乗って以降も、古武道演武会などで

柳生会精勇館が特にトラブルもなく

出場したり(あちらが出場するなら、

うちは出ないといったトラブルは

ない)、私が柳生会に属していたときも

鹿島師範の破門の話しは聞いたことが

なかったので、

厳長師範が鹿島師範を破門したという

話しは、俄には信じがたい。

「新陰流道業六十年回顧録」

 渡辺忠成 著

(新陰流兵法転会出版部)

 

なお、新陰流兵法(柳生新陰流)

ついては、下記の記事を参照のこと。

どの会派が柳生新陰流の正当か?

 (その1:系統編)」、

どの会派が柳生新陰流の正当か?

 (その2:技倆編)」、

どの会派が柳生新陰流の正当か?

 (その3:法律編)

 

塩田剛三師範は、大正4年1月、東京府

四谷区(現在の東京都新宿区四谷)に

生まれる。拓殖大学卒。

昭和7年、18歳の頃、合気道開祖の

植芝盛平師範に入門。内弟子時代も

含めて約8年間、植芝師範の下で

修行に励んだ。

昭和29年、ライフ・エクステンション

(長寿会)主催の日本総合古武道大会

にて最優秀賞を受賞。

翌年、田中清玄秘書時代に養った財産や

政財界人脈の後押しで養神館合気道

立ち上げ合気道養神会を結成し、道場を

新宿区筑土八幡に設立した。

昭和36年、植芝師範から合気道九段

免状を受ける。

昭和60年、国際武道院から合気道十段

昭和63年に同院から合気道名人位を授与。

平成2年、全日本養神館合気道連盟

国際養神会合気道連盟を設立し、海外

まで養神館合気道の普及を進めていった。

「合気道修行」塩田剛三 著

(竹内書店新社)

 

藤平光一師範は、大正9年1月、東京

生まれ。

慶應義塾大学に入学後、肋膜炎を

発症し、山岡鉄舟の高弟小倉鉄樹師範

などから禅や呼吸法を学び修行した結果

肋膜炎が完治した。

19歳のときに合気道開祖の植芝盛平師範

に入門。

中村天風師範にも師事し、心身統一道

学ぶ。

その後、ハワイを始め、アメリカ各地で

合気道を指導した。

昭和44年、植芝師範が亡くなる3か月前

に、最高段位である十段を許される。

藤平師範の十段授与の件に関して

 あの阿部正師範が、藤平師範に

 「なぜ辞退しなかったのだ」と

 からんで、植芝吉祥丸師範が

 「いいかげんにせんか」と怒った

 話しは有名。)

 

藤平師範は、財団法人合気会

師範部長を務めていたが、

会内の軋轢等により、合気会から独立し、

昭和46年、氣の研究会を創設、

昭和49年に心身統一合氣道会

立ち上げた。

昭和52年には、財団法人氣の研究会となる。

藤平師範に影響を受けた有名人として

王貞治長嶋茂雄広岡達朗などが

いる。

「氣の威力」藤平光一 著

(講談社)

 

 

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