デンカの宝刀(一男二女の父、元政府系金融機関職員の資格八冠王)

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どの会派が柳生新陰流の正当か?(その1:系統編)

2022年12月04日 | 武道・武術

新陰流を称する武道団体が

いくつかある。

 

どこが正統であるかだが、

その大いなる参考になるのが

昭和7年3月27日に、東京の金剛館にて

開催された「柳生厳周追悼演武会」だ。

 

が、その前に、愚にも付かない

議論がされることがあるので、それを

潰す。

 

一つは、正式名称が「新陰流」なのに

「柳生新陰流」と名乗っているのは

正統ではない証拠という議論。

これは、正統な一刀流が世間向けには

「小野派一刀流」と名乗っているのと

全く同じことなので、議論するのも

アホらしい。

正統な会派が世間向けに分かりやすい

ように柳生新陰流と名乗っているだけ

のこと。

っていうか、本当に正統なら、別に

自流の名称を変えることすら自由の

はずで、外野がごちゃごちゃ言うこと

ではない。

 

もう一つは、柳生厳周師範が新陰流

は私の代で終わったと言ったから

正統な新陰流は無いとか、

柳生厳長師範が、新陰流を誰にも

継がせないと言ったから正統な

新陰流は無いとか言っている議論。

そもそも、新陰流を残す気が無い

のなら、自分の子と公の場で演武

などするはずがないが、厳周師範も

厳長師範も自分の子と公の場で

立派に演武をしている。

要するに、各師範がそのようなことを

言ったというのはガセ(当然、証拠も

存在しない)であり、何かの一部を

切り取って実際上の虚偽を述べている

だけ。

たとえば、

厳周師範が息子のことを愚息

 言っていたから、息子である厳長

 師範は愚かな息子だったんだ。」

と言っている人がいれば、誰しもが

バカじゃないかと思うだろうが、

上に示した厳周師範がこう言っていた、

厳長師範がこう言っていたと言うのも

それと同じようこと。

読解力のない、レベルの低い人の議論に

付き合うだけアホらしい。

 

で、先代の追悼演武というものは、

その流派にとって、うちの後継は

こうなっていますよという意思の

表明でもあるので、上記した

「柳生厳周追悼演武会」の演武者

を並べてみる。

 

柳生厳周追悼演武会

主な演武者(演武順)。

昭和7年3月27日、

於 金剛館。

二人並べて書いてあるのは、

左が打太刀、右が仕太刀で

ある。

 

三学
柳生厳長・大津正吉
柳生延春・柳生武子
大橋喜左衛門・伊藤宣昭

九箇
柳生厳長服部(神戸)金七

試合勢法
服部(神戸)金七柳生延春
服部(神戸)金七鹿嶋清孝
近藤幸三・萩尾孝之

居合
吉田重成、大津文子、中西春一、
萩尾孝之、近藤幸三

杖術
柳生厳長・柳生厳春

天狗抄
柳生厳長服部(神戸)金七

燕飛
柳生厳長・中澤保三

などなど

 

転会の祖である渡辺忠敏師範は、

大正6年に新陰流に入門しているが、

昭和7年に東京で行われた、この

「柳生厳周追悼演武会」に呼ばれて

いない。

大和の大坪指方師範も呼ばれていない

ものの、

遠方なので(当時は、新幹線も存在

しない)という理由が考えられなくも

ないが、

東京在住の渡辺忠敏師範が呼ばれて

いないのは腑に落ちない面がある。

 

少なくとも「柳生厳周追悼演武会」

の演武者と演武順序からすると

新陰流は、

柳生厳周柳生厳長柳生延春

と連綿と継受されたことが分かり、

また、神戸金七師範が新陰流において、

相当に重要な師範であったことも分かる。

(上に書いたように、先代の追悼

 演武会というものは、

 先代を追悼するだけでなく、

 今後の流派の継承に関する意思

 を表明するものでもあるため。)

 

「正傳・新陰流」

 柳生厳長 著

(島津書房)

 

 

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