デンカの宝刀(一男二女の父、元政府系金融機関職員の資格八冠王)

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資格三冠王の証拠

2006年10月08日 | プロフィール

ところで、ブログの名称を

「デンカの宝刀:弁護士・不動産

 鑑定士・大東流合気武道教授

 代理の資格三冠王?」として、

 資格三冠王を名乗る以上

( ” ? “ を付けてはいるが)、

その証拠を見せねばなるまい。

(なんちゃって)

 

1 弁護士

 

 司法試験第二次試験合格

   

 

 最高裁判所司法修習

 (1年6ヵ月)終了

 (前・後期修習6か月、

  実務修習1年)

   

 

2 不動産鑑定士

 

 不動産鑑定士試験

 第二次試験合格

   

 

 社団法人日本不動産鑑定協会

 実務補習(1年)修了

 (実務講義64単位、

  実地演習22件・590時間)

  

 

 不動産鑑定士試験

 第三次試験合格

  

 

3 大東流合気武道

 (大東流合気柔術

  会津伝小野派一刀流剣術を併修

  する総合武道)

 

 大東流総本部長武田宗光宗家

 教授代理印可

  


私のプロフィール

2006年10月07日 | プロフィール

今日は、司法修習を終了して

最初の大安の日。

なので、私のプロフィール

などを記してみたい。

なお、私は、世代としては、

新人類世代のど真ん中である。

 

1 保育園(昭和40年代初め)

 名古屋市中川区の中野保育園

 年中(ねんちゅう)から入園し、

 年長(ねんちょう)を経て卒園

 した。

 

 

2 小学校(昭和40年代初め~

  昭和40年代後半)

 名古屋市立八幡小学校に入学し、

 卒業した。

 5年生、6年生のときには学校の

 部活のサッカー部に所属していた。

 (名古屋の小学校には部活があった

  のだ。)

 

3 中学・高校(昭和40年代後半~

  昭和50年代前半)

 中高一貫校の東海中学に入学し、

 東海高校を卒業した。

 

 当時は、今ほど中学受験戦争が

 激しくなく、中学受験をすると決めた

 のは、6年生の夏休みが終わってからで、

 実際に受験勉強を始めたのは、10月から

 だった。

 上に書いたように、学校の部活で、

 サッカー部に所属しており、また、

 子供会のソフトボール大会の選手だった

 ので、これらの練習や試合を引退する

 までは受験勉強どころではなかった。

 中学受験のための塾通いもせず、

 自由自在という参考書を潰していった。

 模擬試験も晩秋に、ニシキ出版という

 ところの模試を1回受けただけだった。

 (現在ほど中受熱が熱くなかった時代

  とは言え、今思えば、よく受かった

  もんだ。)

 

 東海高校では、2年生から、成績に

 よって、成績上位者をA群、それ以外

 をB群としてクラス分けしていたが、

 私は、ずっと文系A群だった。

 東海中学・高校時代の6年間は、

 剣道部に所属していた。

 

4 予備校(昭和50年代半ば)

 現役大学受験時には、共通一次試験で、

 最も得意な科目であった国語が散々な

 出来であったなど悲惨な結果だったので、

 河合塾千種校京大選抜文系コース

 選抜試験を受けて入塾し浪人となった。

 現役時代、いろんな予備校の模試で

 高スコアをはじき出していたので、

 某予備校に特待で通うという道も

 あったが *、

 当時の河合塾には、牧野、小林など

 著名で変わった講師が多数いたことと、

 浪人した同級生の多くが河合塾に入塾

 するとのことだったため、

 河合塾に通うことにした。

* 現役時代に、いちばん成績が良かった

 全国型の模試は、

 東海高生の中では、東海高校

 総合成績2番で卒業した奴と、

 もう一人と、私の3人だけが

 成績優秀者に載ったものだった。

 この3人のうち、

 東海高校を総合成績2番で卒業した奴は、

 東大理1に現役合格、

 もう一人は、なぜか私大文系専願に

 して早大政経に現役合格(受験用の

 数学や理科が嫌いな変わった奴だった。

 英語に関しては、英語教師が「私より

 素晴らしい英文を書く」と舌を巻く

 ほどの達人だったけど)。

 わたしは ・・・・・・・  

 ちなみに、私は、現役時代、

 駿台・河合塾代ゼミの各模試で

 成績優秀者に名前が載ったことが

 ある。 

 

 河合塾では、京大選抜コースに所属していた

 にもかかわらず、なぜか、東京の国立大学

 を受験して玉砕した。

 

5 大学(昭和50年代後半)

 東京の国立大学受験に玉砕し、

 中央大学法学部法律学科に入学、卒業。

 他にも著名私立大学に合格していたが、

 高校の同じクラスの現役東大合格者たち

 に対抗するには、大学在学中の司法試験

 合格しかないと思い、司法試験受験に

 定評があり、浪人していた年に、

 司法試験最年少合格者(学研連の

 正法会所属の人だった)を出した

 中央大学を選択した。

 〔私と高校3年で同じクラスだった

  同級生は、現役だけで東大5人

  合格し(そのうちの一人は、今、

  東大法学部で民法の教授をしている。

  正確には、法学政治学研究科教授

  か。)、その他、京大・一橋大

  合格者も多くいた。

  浪人した連中がどれほど東大など

  に受かったのかは把握していないが、

  東海時代に、私より成績が悪かった

  奴が、二浪して東大文Ⅰに合格した

  のを聞いたときには、大学受験熱が

  それほど熱くなかった私は、正直

  ようやるわと思ったのを覚えている。 

  まあ、某親戚から、

  「中央だったら、現役のときに

   受けてれば、受かってたんじゃ

   ないの」

  なんて言われ、確かにその通りだった

  かもしれないが、そう言ってしまうと

  早慶でも、上智でも、私大文系なら、

  そのほとんどの学部は、現役のとき

  受けてれば受かってた大学ということ

  になってしまうし。(実際、私より

  成績の悪かった同級生たちが、

  早稲田政経・法や、慶應経済・法・商

  などに現役で合格していた。)〕

 

 大学では、2つのゼミに所属していたが、

 いずれも、入ゼミ希望者が多く、

 入ゼミ試験が超難関なゼミであった。

 

 一つは、大学3年時の川添利幸教授憲法

 ゼミ川添教授は、当時、現役の司法試験

 委員であり、講義の教室は常に満杯で、

 他大学の学生が潜りで受講していたり、

 講義録音テープが高値で売られている先生

 あった。

 その人気を請われて一橋大学でも講義をして

 いた。

 

 もう一つは、大学4年時の下村康正教授

 刑法ゼミ下村教授は、過去に刑事訴訟法

 の司法試験委員をされていたこともあった

 が、

 それ以上に、講義の巧さ・面白さで人気

 抜群の先生であった。 

 ちなみに、私の学年の中央大学の卒業総代・

 首席卒業は、下村ゼミの仲間でした

 

6 司法試験の諦めと就職(昭和50年代後半

  ~昭和60年代)

 当初、司法試験に大学在学中合格する

 つもりで中央大学に入学したものの、

 当時は、勉強したからといって必ず受かると

 いうような甘いものではなく、

 大学2年のはじめ頃に読んだ過去の司法試験

 合格体験記に、確か、東大法学部卒で受験

 回数19回京大法学部卒で受験回数21回

 などという人がいるのを見て、なんじゃ

 こりゃと思い、

 司法試験にのめり込む前に司法試験受験生

 を一度引退した。

 

 ただ、大学当初は司法試験を目指して勉強

 していたので、大学の成績はやたらと良く、

 そのためか、就職活動は、かなりスムーズ

 に運んだ。

 

 就活を大学4年の5月の末ころから初め、結局、

 三井信託銀行(現 中央三井信託銀行)、

 石川島播磨重工(略称 IHI)、商工中金

 などの内々定を蹴って、

 政府系金融機関の国民金融公庫(現 

 国民生活金融公庫)に就職した。

 国民金融公庫に就職した決め手は、

 父親が自営業者であり中小企業金融

 ずっと興味を持っていたこと、

 国民金融公庫には、預金業務や商工中金

 の金融債発行のような業務が存在せず

 与信に特化した金融機関であったこと、

 商工中金以上に公的な性質が強い企業で

 あったこと、

 沖縄を除く全都道府県に複数の支店

 あり(沖縄についても沖縄振興開発金融

 公庫への出向という事実上の沖縄支店

 はあった)、中小企業金融公庫などに

 比べると組織が大きく雰囲気も明るい

 のであったこと(住宅金融公庫中小企業

 金融公庫も、就活でOB訪問をしたが、

 組織が小さいためもあってか、今ひとつ、

 ふたつ仕事場や職員に暗い感じがした)

 等だった。

 

 国民金融公庫時代は、融資業務と債権

 管理業務がメインで、企業の財務分析、

 不動産の担保評価、債権回収の法的手続

 など色々なことを学んだ。

 国民金融公庫に入庫して5年目くらいに

 簿記3級の受験経験がないのに、

 ゴールデンウィーク中のたった3日間

 だけ集中的に勉強したのみで、

 5月に行われた日商簿記2級に合格

 したのは、

 公庫で財務や企業評価の実務をさんざん

 やってきたからだと思う。

 

 なお、私が他の公庫職員に先駆けて行い

 私が一人でやっていたときには、課長や

 先輩から「そんなことをするな」と

 注意されていたこと訪問審査不動産

 の緻密な担保評価法その他いろいろ)が、

 その後、逆に、金融公庫の仕事のやり方

 のスタンダードとなっていった

 

7 資格試験に向け再始動

 (平成一桁の半ば~ )

 国民金融公庫に7年間勤めて退職。

 全国にいくつかの支所を持つ大手の不動産

 鑑定会社である中央不動産鑑定所に入社し、

 ここで名古屋支所次長にまでなった。

 大手の不動産鑑定会社であったので、

 在職中に国策レベルの不動産調査や不動産

 鑑定も数件やった。その中には、新聞朝刊

 の第一面のトップに「不動産鑑定士の鑑定

 によると ・・・・・・・・」と載った案件もあり、

 「この不動産鑑定士って、俺のことだよ~」

 と思いながら記事を読んだのが懐かしい。

 

 鑑定会社に転職してから不動産鑑定士2次

 試験の勉強を始めたが、

 試験直前の早稲田セミナー全国公開模試で、

 全国1位になるなど、結構な余裕を持って

 合格した。

 2次試験合格後、2年間の実務経験と、

 1年間の不動産鑑定協会の実務補習を経て、

 不動産鑑定士3次試験に合格した。

 

 (平成10年代初め~ )

 不動産鑑定士3次試験にも合格し、その後、

 しばらく経って、司法試験2次試験の勉強を

 再開した。

 短答式試験には3回目に合格(1回目は、

 まだ受験勉強を本格的に始める前だった

 ので実質2回目)、論文式試験2回

 合格、口述試験一発合格と比較的順調

 に合格を果たした。

 不動産鑑定士として働きながらの受験で、

 受験本番の前日や当日も仕事をやっていた

 という環境ではあったが、何とかしのいで

 合格した。

 受験勉強中には、短答式答練で最高で

 全国4位になったり、論文式答練全国1位

 になり、答案が優秀答案として採用され

 たりした。

 答練の成績優秀者欄の上位に何度も掲載

 されたので、

 当時、取引先で司法試験受験勉強をして

 いた人や、

 日本不動産研究所名古屋支所の所長など、

 知人に私が司法試験の受験勉強をしている

 ことを知られてしまったということもあった。

 

8 大学以外の学校

 不動産鑑定士2次試験に合格し、実務経験

 を2年積んだ後、日本不動産鑑定協会主催の

 実務補習を受講した。

 実務補習は、受講期間が1年間に渡り、

 実務講義64単位で、これに加えて

 実地演習22件・590時間であった。

 (大学院修士課程の修了要件が30単位以上

  プラス修士論文であることと比較すると

  物凄い内容の研修だったんだなと今に

  して思う。)

 第1期は、中央大学駿河台記念館(東京都

 千代田区神田駿河台)、

 第2期は、NTT麻布セミナーハウス(東京都

 港区麻布)で実施された。

 

 実務補習テキスト(白表紙)

   ↓

 

 

 また、司法試験2次試験合格後、最高

 裁判所司法修習を受講した。

 司法修習は、修習期間が1年6ヵ月で、

 前期修習・後期修習ともに最高裁判所の

 司法研修所で行われた。

 司法修習では、特に民事弁護の成績が

 良く、前期も後期も、民事弁護の起案の

 成績は、良上しか取ったことがない。

 (P.S.

  後日、司法修習終了考試の成績徴求

  したら、民事弁護の成績は、最上の

  でした。)

 

 司法修習テキスト(白表紙)

   ↓

 

  

9 趣味

  今まで数々の武道・武術を経験した。

(1)古流柔術拳法

  幼少の頃から、母方の祖父である

  森野森一郎に教授された。

  特に流派名を聞いたことはない。

(2)剣道

  中学・高校時代は剣道部だった。

(3)ボクシング

  大学の体育実技で、東京五輪に出場

  し、格闘技界・武道界では著名な

  白鳥金丸先生にボクシングの基本を

  教わった。

(4)大森流居合・無双直伝英信流居合

  全日本居合道連盟の河合正師範に

  大森流の全伝を教わった。

(5)柳生新陰流兵法・柳生制剛流抜刀

  尾張柳生正統宗家柳生延春師範に

  教わった。

  新陰流兵法は三学圓之太刀、九箇之

  太刀、試合勢法の相雷刀八勢、中段

  十四勢まで、柳生制剛流抜刀は表まで

  習った。

  熱田神宮龍影閣で毎月1回実施された

  新陰流講道で、柳生先生から直接に

  始終不捨書などの講義を受けた。

  また、柳生兵庫柳生連也が使用した

  木刀のレプリカを拝領したりした。

   

(6)立身流居合・剣術

  正式に入門したわけではなかったが、

  愛知県在住の立身流師範に主に居合を

  教わった。

  比較的短期間であったが、私の武術

  体系の中では大きな位置を占めている。

(7)神道夢想流杖道

  愛知県剣道連盟の杖道部会の役員を

  されている先生に付いて、基本技と

  基本形を教えていただいた。

(8)小野派一刀流剣術

  正統の小野派一刀流ではなく、

  後述する大東流合気武道に併伝されて

  いる会津伝小野派一刀流大東流

  中で学んだ。

(9)大東流合気武道

  大東流合気柔術会津伝小野派一刀流

  剣術を併伝する総合武術。

  前宗家の武田時宗師範の実弟で、かつ

  大東流中興の祖・武田惣角翁の実子で

  ある武田宗光宗家から、

  宗家の代理として教授しても良いという

  資格である教授代理の印可を受けた。

  武田宗光師範は、会津居住の同姓同名の

  方ではなく、

  武田惣角翁から直接指導を受けたことが

  あり、かつ、武田家の中では、

  武田時宗前宗家から大東館大東流師範

  (留辺蘂支部長)として認められた唯一

  の師範で、武田時宗師範や、函館支部長

  だった物史師範と共に北海道で大東館大東流

  を支えていた方である。

  (物史師範は、武田惣角翁の娘婿だった。)

 

   

  大東流合気武道大東館東海支部大東

  合気柔術琢磨会東海支部だったこと

  もある)で道場長をしていた。