スポーツエトセトラ

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ドラフト外入団選手一覧【ロッテ編】

2020-08-01 08:53:58 | 球団別ドラフト外入団選手
各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介するシリーズの第2弾は、「ロッテ」です。
総勢は37名でした。

シリーズ第1弾→近鉄編




各年度とも上から背番号順(入団当初の番号)で並べています。

東京球場、宮城(現・楽天生命パーク)、川崎と本拠地移転を繰り返す不安定さに加え、
川崎時代は不人気球団として知られ観客動員に苦しむ一方、
成績の方は66年から85年までの20年間でAクラス入り12度と安定。
しばしば優勝争いに加わるなど実力派のチームとして知られていたロッテ。

そのためか、ドラフト外で積極的に逸材を獲得しようという意識も低かったようで、
人数はかなり少なめとなっています。

一軍に昇格した選手もわずか12名にとどまっており、83年まではわずか4名。
当時のロッテの球団経営への熱意の低さが感じられます。

初めて一軍で結果を残したのが81年入団の三宅宗源。
台湾出身の速球派投手として三宅宅三スカウトに見いだされ、
養子縁組を結んで帰化し、プロ入り。82年には先発ローテに加わり4勝をマークしています。

大半の選手が5年以内に引退しているのに対し、
初めて10年以上プロのユニホームを着続けたのが伊藤史生。
高校時代は投手として甲子園に出場。のち外野手に転向し、
プロ5年目には初ホームランをマークして一軍定着寸前まで行きました。

80年代中盤以降になると、チームの成績も低迷気味に。
ドラフト外の選手でも、力があれば積極的に起用するようになります。

89年に入団した島田茂は高校時代は投手で、秦真司(のちヤクルト)とバッテリーを組み甲子園に出場。
秦とともに進んだ法大では野手に転向し、日米大学野球のメンバーに。社会人でも中軸として活躍しています。
一発長打が魅力で、5年目の93年には8本塁打をマークしました。

同期の福沢洋一はロッテのドラフト外ではもっとも成功した選手といえるでしょう。
大学を中退して練習生を経てプロ入り。1年目にはいきなり98試合に出場するなど正捕手争いに参戦。
2年目以降は貴重な控え捕手としてチームを支えました。
引退後はロッテ、横浜、日本ハムなどでコーチを歴任するなど、指導者としても高い評価を受けています。

猪久保吾一は社会人チームを退団後、練習生を経て入団。
2年目の90年には42試合に出場するなど、正捕手候補に名乗りを上げたこともありました。

大順将弘は台湾出身で中日、阪神で通算277本塁打をマークした強打者・大豊泰昭の実弟。
大学時代は4試合連続本塁打を記録したスラッガーも、NPBでは結果を残せず。
母国の台湾プロ野球ではレギュラーとして活躍しました。

次回は西武ライオンズを予定しています。

ドラフト外入団選手一覧【近鉄編】

2020-07-26 08:44:02 | 球団別ドラフト外入団選手
今回より新テーマとして、各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介していきます。

かつて、秋に開催される新人選択(ドラフト)会議で指名漏れした選手については、
会議終了後に自由に獲得することができました(1990年まで)。

現在ではドラフトで指名された選手はほぼプロ入りしますが、1970年代くらいまでは拒否する選手が多かったこと、
また指名できる選手が限定されていたこと(74年から90年までは最高で6名まで)もあり、
ドラフト外での選手獲得は“戦力補強”という点で重要な意味を持っていました。

そこで、ドラフト外指名ができなくなった1991年以降に誕生した楽天を除く12球団(2004年に消滅した近鉄含む)の、
すべてのドラフト外選手を1球団ずつ表にしてまとめてみました。

一軍通算成績は最近、NPB公式サイトの『個人年度別成績』で調査したものですが、
選手についてはかなり以前に調べたものです。

ベースボールマガジンの背番号特集のムックで、各球団の背番号年度別一覧から前年にいなかった選手をピックアップし、
ドラフト関連のムックやトレード関連のムックで、指名選手でないこと、他球団からの移籍選手でないことを確認…
という作業を繰り返していたように記憶しています。

データ作成時にはすでにネット環境でしたが、当時はまだ気の利いたデータまとめサイトみたいなものはありませんでしたね。
球歴はプロ野球人名事典+ネット+過去(80年代以降)の12球団全選手カラー百科名鑑(廣済堂出版)で調べています。

第1回は今はなき近鉄バファローズです。総勢で52名でした。





各年度とも上から背番号順(入団当初の番号)で並べています。

こうして見るとやはり、というか一軍出場にたどり着いた選手が少ないことが分かります。
総勢15名で、ドラフト外入団全体で実に3割弱の選手だけが公式戦の舞台に立てなかったわけです。
67年には入団5名中4名が一軍に出場しており、力があれば上でも積極的に起用しようという意識が感じられますが、
球団からしたら戦力になれば儲けもの、程度の存在だったのでしょう。

68年には、背番号70番台の選手が4名います。
これは、当時の近鉄が現在の球界では一部の球団が採用する『三軍制』を導入したことにより、採用された選手たちです。
中でも近藤義之は川崎市の中学を卒業したばかりでした。
しかし、三軍制は時代を先取りしすぎたのか、あえなく1年でとん挫します。

さて、一軍で活躍した選手もわずかながらに存在します。その筆頭が藤瀬史郎でしょう。
持ち前の俊足を活かし、2年目に“走り屋”として一軍に定着。代走での盗塁数105は長きにわたりNPB記録として残りました。
79年、80年のリーグ連覇にも貢献しています。

佐藤文男は長い下積み生活を経て、プロ5年目にようやく一軍初登板を果たすと、
短期間ながらリリーバーとして積極的に起用されています。
加藤正樹はPL時代に全国制覇を経験し、早大では日本代表に選出されたいわば野球エリート。
プロでは90年に92試合出場と、一軍定着寸前に迫りました。

次回は西武ライオンズを予定しています。