スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

秋季高校野球関東大会 千葉県勢成績(1972年~1977年)

2020-05-11 08:32:49 | 秋季高校野球関東大会千葉県勢成績
高校野球の秋季関東大会における、千葉県勢の成績を紹介するシリーズの第3弾。
今回は1972年~77年です。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4を表します。

72年は7年ぶりの地元開催。翌年に千葉で行われる「若潮国体」のプレ大会と位置付けられ、
会場も同じく銚子市営球場で執り行われました。
過去の2大会は県勢は初戦敗退でしたが、ホームでもあり、国体に向けても負けられない戦いとなります。

代表は銚子商と木更津中央。県大会決勝では土屋正勝、古屋英夫両エースによる
延長14回の投手戦が展開され、1‐0で銚子商がサヨナラ勝ち。
いやがうえにも地元ファンの期待が高まります。

関東では揃って初戦突破を果たしましたが、
準決勝では銚子商が作新学院の怪物・江川卓に1安打20奪三振と手も足も出ず。
木更津中央は翌春のセンバツ優勝校・横浜に完敗。
幸い、翌年の45回は記念大会のため関東・東京の枠は3。内容のよかった銚子商がセンバツに選ばれます。

73年は翌年夏の甲子園を制する銚子商が、準決勝で関東三羽烏と呼ばれた工藤一彦率いる土浦日大、
決勝でセンバツ優勝投手・永川英植の横浜を下し、2年ぶりの関東V。

74年は習志野がベスト4。前年から関東は3代表が選ばれており、
同じく準決勝で優勝校・東海大相模に1-3で敗れた小山(栃木)ではなく、習志野が翌春のセンバツに選出。
前年夏の甲子園で千葉県勢の銚子商が優勝しており、よりレベルが高い、と判断されたのかもしれません。

75年も2年続けて習志野。同年夏の甲子園を制し、三重県で行われた秋季国体も優勝。
10月30日の国体決勝戦後、三重からとんぼ返りで11月3日の関東大会初戦という慌ただしさでしたが、
勢いをかって関東でも決勝まで勝ち上がり、センバツ切符を手に入れています。

76年は同年夏の甲子園でベスト8に進出した銚子商。
自慢の黒潮打線で決勝進出を果たしています。

77年からは各県から2代表、開催県は3校の15校で行われることに。
初出場の印旛と、関東高校時代以来28年ぶりとなる千葉敬愛が出場。
好投手・菊池聡を擁する印旛がするするっと勝ち上がり、初の甲子園代表となりました。

ここまで、千葉県勢は11年連続でセンバツに出場。
これは同時期では、単独出場枠を得ている北海道、東京、枠の多い近畿勢を除くと最長となります。
ここまでが千葉県高校球界の全盛期といえるでしょう。

秋季高校野球関東大会 千葉県勢成績(1964年~1971年)

2020-05-10 09:02:51 | 秋季高校野球関東大会千葉県勢成績
高校野球の秋季関東大会における、千葉県勢の成績を紹介するシリーズの第3弾。
今回は1964年~71年です。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4を表します。

1950年代後半から60年代前半にかけて、やや低迷していた千葉県勢でしたが、
ここから急速にレベルを上げ、全国的にも強豪として名をとどろかせることとなります。

64年は「お山」こと市銚子が県大会決勝で翌夏の甲子園準優勝・銚子商を破り初出場。
関東では準決勝まで進みますが、翌年のセンバツベスト8・東農大二に惜敗し、甲子園を逃しています。

流れが変わるのが、夏の甲子園で習志野が県勢初となる深紅の優勝旗をつかんだ67年。
銚子商自慢の黒潮打線が爆発し、決勝では翌年のセンバツ優勝校・大宮工に惜敗も準優勝を果たし、
15年ぶりのセンバツへと歩を進めました。

68年は、銚子商が千葉県勢初の秋関優勝を達成。
その年の11月に行われた「明治百年記念明治神宮野球大会」に出場(初戦敗退)しています。

69年は千葉商がベスト4進出。通常なら決勝進出の2校がセンバツに選ばれることになりますが、
準優勝の川口工を押しのけ、千葉商が選出されるという快挙。
甲子園でも8強に進出し、選考が間違っていないことを証明しました。

70年はセンバツベスト8左腕で、この年の県大会でノーヒットノーランをマークするなど好投手とうたわれた
千葉商・永島時郎との延長14回の投手戦を制した、鈴木徳義を擁する木更津中央が関東へ。
決勝ではのちにプロに進む竹内宏明の深谷商に敗れるも、センバツ切符を勝ち取っています。
翌年のセンバツではベスト4に進出するという快進撃を見せました。

71年は好投手・根本隆をエースに持つ銚子商が3年ぶりに関東大会を制覇。
翌年のセンバツでも4強と、結果を残しています。

関東の出場枠が「2」だった時代にあって、千葉県勢はここまで5年連続で出場権を獲得。
単独で枠が用意されている北海道、東京や地元のため出場枠で優遇されていた近畿勢を除くと、
これは異例のことといえます。
いかに当時の千葉県高校球界のレベルが高く、また評価が高かったかが分かりますね。

秋季高校野球関東大会 千葉県勢成績(1956年~1963年)

2020-05-09 08:41:32 | 秋季高校野球関東大会千葉県勢成績
高校野球の秋季関東大会における、千葉県勢の成績を紹介するシリーズの第2弾。
今回は1956年~63年です。

1956年から東京が関東大会から離脱・独立し、7県の代表プラス開催地から2校が出場する体制となります。



千葉県勢は1952年の夏の甲子園で、成田が5年ぶりにベスト4に進出する快挙を見せました。
その後は54年に千葉商、58年、61年に銚子商がそれぞれ1勝しましたが、
55年(成田)、56年(千葉商)、62年(習志野)は初戦敗退。

57年(埼玉との南関東大会)、59年、60年(茨城との東関東大会)は地区大会で敗れ甲子園出場を逃すなど、
パッとしない時期が続いていました。

秋季関東大会についても、56年から62年までは全て初戦敗退。
59年は地元・千葉開催でしたが、両校とも初戦で完敗。
中でも銚子商は慶応のエース・渡辺泰輔の前に4安打20奪三振と完璧に封じ込まれています。

慶応はその後も危なげなく勝ち進み、優勝。翌春のセンバツでもベスト8に進出します。
渡辺は慶大、南海でもエースとして活躍しました。

63年は習志野が千葉県勢の連敗に終止符を打ちましたが、ベスト4で敗退。

センバツにおける関東・東京勢の代表枠は1958年(第30回)~67年(第39回)まで「2」。
この間、1度もセンバツに代表校を送り込むことができませんでした。

秋季高校野球関東大会 千葉県勢成績(1948年~1955年)

2020-05-08 08:39:31 | 秋季高校野球関東大会千葉県勢成績
今回より新シリーズとして、不定期で高校野球の秋季関東大会における、
千葉県勢の成績をご紹介していきます。

春の大会は夏に向けての試運転、という感じですが、
秋季大会はその成績が翌春のセンバツ出場に向けて大きな意味を持ちます。
非常に重要度の高い大会です。

そこで、地区大会が行われるようになった1948年からの成績を振り返ってみましょう。



1948年、全国9地区で高校野球の秋季大会が開催されることになりました。
出場資格があるのは2年生以下。
都道府県大会を勝ち抜いた学校が各地区大会に進出し、優勝を争います。
そこでの成績は、翌春のセンバツ大会の選考に向けた、重要な資料と位置付けられました。

関東は、1都7県から秋季都県大会の優勝校8校が関東大会に進出。
しかし、千葉県勢は最初の3年間、初戦で敗れてしまいます。

1951年、成田が初勝利を挙げてベスト4に進出。
現在なら「センバツ出場確定」となるところですが、
当時の関東勢のセンバツ出場枠は関東1、東京1(1951年のセンバツは関東から宇都宮工、湘南の2校を選出)。
東京代表との兼ね合いになりますが、関東大会で優勝、最低でも準優勝しなければ
センバツには選ばれませんでした。

千葉県勢で初めてセンバツ出場を果たしたのは、1953年の銚子商(当時は「銚子高」)。
前年の秋の関東では2勝を挙げ、決勝では早実に敗れたものの、
早実が東京代表だったこともあり選考されたようです。

銚子商は前年に、のちに大洋で監督を務める迫畑正巳をコーチに招くなど、
野球部の強化に熱心に取り組んでいたようで、その成果が現れた形ですね。
センバツでは2回戦から登場し、初戦で土佐を下してベスト8に進出しています。

ちなみに関東ではその時点で、すでに千葉と茨城を除く1都5県がセンバツに代表校を送り込んでおり、
千葉は6番目とかなり遅れを取ってしまいました。
残る茨城県勢がセンバツに歩を進めたのは、それからさらに19年後の1972年(取手一)です。

その後、1953年、55年と成田が1勝したものの、ベスト4で姿を消しました。
1958年から関東のセンバツ代表枠は「2」に増枠されますが、
春の甲子園とはしばらく縁がない状態が続くことになります。