急行「いなさ」

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鉄道が好きになった訳 6

2022-12-17 10:43:05 | 日記

第6回  撮り鉄は、いつも自転車で

すでに小学校の1年か2年の時には 家の物置に私の子供用に自転車があった。

買ってもらった記憶は無いし、乗って良いと言われた記憶もない。

ブリジストンの 上皿天秤の分銅のようなマークの中に「BS」と書いてあるのが誇らしかった。

父の戦友に 長崎駅前バスセンター裏で自転車屋さんを営む人が居た。声がデカくてあまり好きではなかったが。

たぶんその人にそそのかされてか 売上協力で買ったんだろう。まぁ父の気まぐれかもしれない。

父は仕事人間だったから 自転車に乗る練習も全然してくれなかった。

我が家には平日 お手伝いの小母さんが通ってきた。私たち兄妹は「山口の小母ちゃん」と呼んでいた。

この山口の小母ちゃんが見かねて、息子の勝ちゃんに 私が自転車に乗れるようにしてくれと頼んでくれた。

次の日から近くの長崎西高校のグランドで練習が始まった。勝ちゃんが自転車の荷台を左右から支えて押しながら付いてくれた。

運動神経が鈍い私 それでも4~5日目、ふわっと体が浮く感じで いきなり乗れるようになった。

 

中2になった頃の日曜日 父が今日お前の自転車が来ると、言った。私の好みなど一切相談も無く いきなりである。

昼前 父の戦友の自転車屋さんが軽トラに積んでやってきた。

なんとなんと 友達など誰も持ってないような ドロップ・ハンドルで 後輪にはギアが4段、ハンドルには真っ白な滑り止めのテープが巻いてあった。

それからは毎日のように乗り回していた。こうして 撮り鉄の足が確保された。

同じくらいの年代の 故・中村歯医者さん 共通の友人のT塚さんも、自転車に乗って山越えし「大草駅」あたりまで写真を撮りに行ったそうです。

インターネットもない時代 どこ行きのバスに乗ったらいいか、どこのバス停から乗ったら良いかなど分からない。しかし最大の理由は バス代が無かったのである。頼れるのは自分の足でした。

 

ところで 勝ちゃんは勉強家だったので 長崎水産高校(当時の名称)を卒業し 漁船などに乗っていたようですが、海上保安庁に就職し、船長にまでなった。たしか 巡視船「八重山」だったと思う。

私が五島列島の福江市に転勤になった時 ちょうど福江海上保安署におられた。夏休みに体験乗船があり、その巡視船に乗った時 私と私の息子は特別に操舵室に招き入れられ 機器の説明や機銃の台座があるのを教えてもらったり また高倍率の双眼鏡を覗かせてもらったりした。懐かしい思い出です。

さて、次回は カメラについて書いてみたい。

 

写真は自宅の最寄り駅 浦上駅の南側にある 梁川橋踏切での撮影。

長崎は このほかにも 稲佐橋踏切(アンダーパスになり早くに廃止) 竹岩橋踏切 梁橋踏切など 近くにある橋の名前が付いた踏切名が多いようだ。

背景の建物は三菱製鋼の長崎製鋼所で、長崎新聞社、NCC 長崎文化放送に建て替わった。


「ステージⅣ」は末期がんではない

2022-12-04 10:03:02 | すい臓癌治療

山本健人 著 「がんと癌は 違います」 幻冬舎 より出版

この本によると 「他の臓器に転移していたら末期がんだ」 「ステージⅣは末期がんだ」は 全くの誤解だとあった。

この本に書いてあるように 私みたいにステージⅣで 他の臓器に転移していても 長く生きている人が少なからずいる。

抗癌剤で病気をコントロールしつつ、何年もの間 癌と付き合いながら生活している。既に私も生存3年半を超えた。

 

「末期がん」と言う言葉は 医学用語には無く、「終末期」は医学用語として医療現場でよく使われるそうです。

この本から引用すると がんに対してさまざまな治療を行ってきたものの、有効な手立てがなくなり、積極的な治療を終えなければならない段階を「終末期」と呼ぶそうだ。

 

私の場合 現在使っている抗がん剤の効き目が乏しくなっても、未だ使える薬がいくつか残っている。

・・と、言う事は まだ私は「終末期」ではないのだ。喜ばしい事です。

オプジーボ+化学放射線療法も 膵臓癌に対して第Ⅲ相の治験まで進んでいる。治験が上手くいけば 効能追加なので厚労省の認可も早いと思われます。

光免疫療法も頭頚部がんに保険適用され、体の中の深い所は光ファイバーで光を届けることで治療が可能になるようです。

長生きしなくちゃね。長生きすればするほど 更に長生きできるのだ。

 

ところで冒頭の がんと癌の違い。

平仮名の「がん」は、あらゆる悪性腫瘍の総称。

このうち「癌」と呼べるのは 上皮性のがんだけ だそうです。

だから白血球が がん化しても「白血球癌」とは言わず 「白血病」という固有の名前があるし、骨や筋肉は「・・肉腫」と呼ぶそうです。

納得!


鉄道が好きになった訳 5

2022-12-02 20:46:24 | 鉄道模型

第5回 教科書にあった鉄道模型

小学校5年生だったか 「図画・工作」(略して図工)の教科書に おそらくOゲージだと思われるC11の模型が載っていた。

ほれぼれする位 素晴らしかった。

そしてクラスの全員が各自 厚紙などで機関車の模型を作った。もちろん動輪は 牛乳瓶のふたである。

しかし前回書いたNGT君は違っていた。ナイロン・プーリー(滑車)を動輪にしていた。

中心軸の穴の回りに 4-5個の丸い穴が開いていて、D51なんかのボックス動輪に見立ててたのでした。

またしても彼にやられてしまいました。

売ってる店を聞くと 前回書いた なんとか無線だと言うので、今後使う事もないだろうに その真っ青なナイロン・プーリーを私も6個買った。

C11の動輪は6個ですから。

 

そのNGT君が豊富な小遣いを持ってた訳が分かった。

2~300m離れたところに彼の伯母さんが住んでいて、学校から帰った後 近くの魚屋へ猫の餌を買いに行くというアルバイトをしてたのだった。

1日当たり50円だと言う。その時私の小遣いは1日10円。以前の1日5円からは値上げされてはいたが 駄菓子を買ったらおしまい。

ちょっと纏まった金が要る時は 貯めていたお年玉を充ててたのでした。

 

次回へつづく たぶん

 

 

 


鉄道が好きになった訳 4

2022-12-01 11:30:44 | 鉄道模型

第4回 工作に目覚める

小学校4~5年の頃 課外授業があった。正規の教科の他に 体操や音楽などが選択でき、私はすぐ近所に住むNGT君と 工作クラブへ入った。

何を作ろうかと彼と相談すると M42パットンと言う戦車を作ると言う。プラモデルが流行りだした時期だった。そこで私も プラモデルの戦車を作ることにした。お店を聞くと浦上駅の並びにあって歩いて行けた。なんとか無線という名の店だった。

私も シャーマンだったか センチュリオンだったか忘れたが 戦車のプラモを買った。

数週間後 顧問の先生の採点があった。NGT君が電源を入れると戦車は颯爽と走り出した。

次は私だった。先生は採点表を持ちながら 「動くか?」と私に聞いた。

私は「走りません」と、力無く答えた。マブチ・モーターや電池を買うお金は もう無かったのだ。

大人になったら絶対に貧乏にはなりたくないと 心底思った。

 

しかし ひとつ大切なことを教えられた。

私の後に採点を受けたI君。15本くらいの割り箸を組み上げて 素敵なオブジェを作っていた。中には牛乳瓶か何か入っていて 花瓶の様だった。

バランスが取れていて デザイン的にみても素晴らしかった。

ショックだった・・・そうか、お金を掛けなくても アイデア次第では 身近なもので素敵な作品ができるのだと教えられた。

 

後日 I君の家へ遊びに行った。つつじなどの植栽があって 小さな噴水さえある素敵な庭のある家だった。

プラモデルなど簡単に買ってもらえそうなお宅だった。