急行「いなさ」

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妻 死亡

2023-11-01 10:29:46 | 日記

10月20日 金曜日 11:46 妻が死亡しました。最後は がんとの壮絶な戦いでした。

その日 私は大学病院で抗がん剤点滴の日 インフュージョン・ポンプを首からぶら下げて帰って来て30分後 病院から呼吸が浅くなって来てとの連絡。

その夜11:30 コクン・コクンと何か飲み込むような音がして よく見ると、もう呼吸が止まっていた。

ナースコールを押し、その後 看護師が医師を呼び、心音、頸動脈、瞳孔などを確認し 午後11:46が死亡時刻となった。

深夜だったので 翌日が通夜 翌々日が葬儀。また次の日が三日参りと初七日となった。

 

【弔辞とも言えない 思い出のようなもの】

美輝子 なんで私より先に死んだのさ! 私より8歳も若いのに

共に癌と言う病を得て 君はステージⅡ 私はステージⅣ

誰もが 私が先に死ぬと思ってた。

あなたとの出会いは 会社の朝のミーティングの後 自分の持ち場に戻る時、いつも私の横を歩いていた。

新入社員の君は バラ色のふっくらした頬を 歩くたびにプルン・プルンと上下に揺らせていて 可笑しかった。

足元を見やると 通勤用のサンダルから ストッキングに包まれた足の小指がはみ出ていて 床につきそうで可笑しかった。

外反母趾のせいだったのかな。

いつしか付き合うようになって 出来ちゃった結婚になった。

恒久が生まれて数か月なのに 佐世保に転勤になった。

恵が生まれて数か月しか経ってないのに 佐世保から福岡に転勤になった。車の後部座席で あなたは恒久の相手をし、助手席では木鉢のお祖母ちゃんが 乳飲み子の恵みを抱いて赴任した。

それから 後2~3か月で貴広が生まれるというのに 福岡から島原に転任になった。本当に苦労掛けたね。

結婚して8回も引っ越ししたね。本当に本当に苦労掛けたね。

あなたは21歳で私と結婚しました。つまり ご両親と21年暮らしたわけです。

そして昨年は結婚して42周年でした。私が偉そうに 俺は ご両親の2倍お前を育てたと言うと、

君は、短大を卒業して就職し直ぐに結婚、出産、子育て、「私には青春が無かった」と不満そうに言ったね。

その埋め合わせじゃないけど 毎年夏には家族5人で旅行に行ったりしたよ。

美輝子 生まれ変わっても また一緒になろうね。

      【参列者への謝辞】

ここにいる 私たちの子供・孫、そして 一人っ子だった美輝子が姉の様に慕っていた私の二人の妹、

本日は参列して頂き 本当に有難うございました。


やっと落ち着きました

2023-08-26 07:24:53 | 日記

4月母が100歳で亡くなり 遺品の整理が長くかかった。ゴミ屋敷ほどでもないが 60年分のガラクタ・・例えば 押し入れの上の袋戸棚に 数十年前に使わなくなった電気こたつ3個 私が小学校の時に使っていた蓄熱式の電気あんか はては父が学生時代に使っていた剣道の防具などなど もう呆れてしまう。二人の妹と 整理して処分するのに7月末迄 4か月かかった。

年取っていくと 何を何処に収納したか忘れてしまうし、思い出しても体力の衰えで捨てることが出来なくなり どんどん物が溜まっていくんでしょうね。

私は転勤族だったので 引っ越し荷物が増えないように、買ってから数か月後も使ってるか? と考えて、なるべく物は買わなかった。陶器などもっての外、重くて引っ越しが大変。唯一の例外は Nゲージの模型のキットで、今でも250輌ほど未組み立てのまま 本棚に積み重なっている。

建物の解体業者も忙しいらしく 6月お願いしたのに工事は8月になってしまい、8月11日に更地になり完了した。

法務局への建物の滅失登記は簡単で 自分でもできるらしい。娘さんが司法書士をしてる同期入社のヤツに聞いてみることにする。

8月14日には寺に行って 初盆の供養をしてもらった。その帰りに 地主さんへ8月分の地代と手土産を持って行き、長年の礼を言ってきた。もうめったに この場所に来ることは無いだろう。

 

妻の がんについても 書いておかなければならない。

抗がん剤の副作用で浮腫(水腫、むくみ)がひどく 足やお腹がパンパンに腫れ 上下の瞼も腫れあがった。息苦しさもありパルスオキシメーターで測ると 90を下回っていた。手元にあった登山の時などに使うスプレー缶に入った酸素を吸わせると 落ち着いた。後で知ったことだが 浮腫が肺にも起こっているため酸素の取り込みができなくなってたそうだ。

病院に電話し 症状を告げると、すぐ来てくれとの事。長男が連れて行くと即入院になり 酸素マスクも装着した。背中側から 肺の水を、入院当日左の肺 翌日は右の肺から それぞれ350ml抜いた。レントゲンの画像を見ながら 肋骨の間に大きな注射針を刺して抜いたそうだ。

点滴による利尿剤と 3種類の利尿剤を服薬しながら 2週間ほど入院した。利尿剤の服薬は 退院後の今でも続いているが、むくみは未だ取れない。

退院後の外来で 主治医の診察の時、今後の事について話した。もう抗がん剤治療は止めたので 現在の浮腫の治療が終わると、半年ごとの泌尿器科の尿管ステントの交換を除き 治療は終了する。よって今後は「緩和医療」に移ることになる。出島病院(緩和病院)などを紹介すると言われた。ここの院長と 現在の主治医とは医大の同窓生で話も良く通じるそうだ。私の伯母も胃がんに罹り ここで最期を迎えた。

私がかかっている大学病院の化学療法室の看護師さんから伺ったことだが この出島病院の先生は以前 ながいこと大学病院にいたそうです。

済生会に入院中 介護認定の手続きに入った。入院中に認定員に来てもらった方が医師や看護師の意見を聞くことができて 判定がしやすいようです。判定は「要介護 2」でした。

8月14日付で仮判定から正式に認定となり 介護保険証も届き、介護事業所を 口コミなどを参考にしダイヤモンドスタッフに決めた。ダイヤモンドとあるように 重工記念病院の関係、すなわち三菱の関係会社のようです。

8月23日 ダイヤモンドスタッフのケアマネジャーと 緩和病院の看護師の両名が来られ、私たち夫婦と話し合った。

訪問看護師を入れてもらう事。病院からリハビリの担当者を派遣してもらう事。介護用ベッドをレンタルで入れる事。玄関前にある3段の外階段に手すりを付ける事等々。

ひとつ失敗したのは どこにも相談せずに入浴時の バスチェアー(シャワーチェアー)を買った事。補助金申請をせずに 先に購入すると、金は下りないそうです。モノタロウの通販で 折り畳み式で、妻が座ったり立ったりするのに楽だと言うので 肘掛けが高い物にした。2万ちょっとの高価なものになったが いずれ私が使う事になると考えれば 半額だ。

 

私の遺伝子検査の結果報告なども書きたいが 長くなったので次回に書きます。


鉄道が好きになった訳 6

2022-12-17 10:43:05 | 日記

第6回  撮り鉄は、いつも自転車で

すでに小学校の1年か2年の時には 家の物置に私の子供用に自転車があった。

買ってもらった記憶は無いし、乗って良いと言われた記憶もない。

ブリジストンの 上皿天秤の分銅のようなマークの中に「BS」と書いてあるのが誇らしかった。

父の戦友に 長崎駅前バスセンター裏で自転車屋さんを営む人が居た。声がデカくてあまり好きではなかったが。

たぶんその人にそそのかされてか 売上協力で買ったんだろう。まぁ父の気まぐれかもしれない。

父は仕事人間だったから 自転車に乗る練習も全然してくれなかった。

我が家には平日 お手伝いの小母さんが通ってきた。私たち兄妹は「山口の小母ちゃん」と呼んでいた。

この山口の小母ちゃんが見かねて、息子の勝ちゃんに 私が自転車に乗れるようにしてくれと頼んでくれた。

次の日から近くの長崎西高校のグランドで練習が始まった。勝ちゃんが自転車の荷台を左右から支えて押しながら付いてくれた。

運動神経が鈍い私 それでも4~5日目、ふわっと体が浮く感じで いきなり乗れるようになった。

 

中2になった頃の日曜日 父が今日お前の自転車が来ると、言った。私の好みなど一切相談も無く いきなりである。

昼前 父の戦友の自転車屋さんが軽トラに積んでやってきた。

なんとなんと 友達など誰も持ってないような ドロップ・ハンドルで 後輪にはギアが4段、ハンドルには真っ白な滑り止めのテープが巻いてあった。

それからは毎日のように乗り回していた。こうして 撮り鉄の足が確保された。

同じくらいの年代の 故・中村歯医者さん 共通の友人のT塚さんも、自転車に乗って山越えし「大草駅」あたりまで写真を撮りに行ったそうです。

インターネットもない時代 どこ行きのバスに乗ったらいいか、どこのバス停から乗ったら良いかなど分からない。しかし最大の理由は バス代が無かったのである。頼れるのは自分の足でした。

 

ところで 勝ちゃんは勉強家だったので 長崎水産高校(当時の名称)を卒業し 漁船などに乗っていたようですが、海上保安庁に就職し、船長にまでなった。たしか 巡視船「八重山」だったと思う。

私が五島列島の福江市に転勤になった時 ちょうど福江海上保安署におられた。夏休みに体験乗船があり、その巡視船に乗った時 私と私の息子は特別に操舵室に招き入れられ 機器の説明や機銃の台座があるのを教えてもらったり また高倍率の双眼鏡を覗かせてもらったりした。懐かしい思い出です。

さて、次回は カメラについて書いてみたい。

 

写真は自宅の最寄り駅 浦上駅の南側にある 梁川橋踏切での撮影。

長崎は このほかにも 稲佐橋踏切(アンダーパスになり早くに廃止) 竹岩橋踏切 梁橋踏切など 近くにある橋の名前が付いた踏切名が多いようだ。

背景の建物は三菱製鋼の長崎製鋼所で、長崎新聞社、NCC 長崎文化放送に建て替わった。


来て嬉しい、帰って嬉しい「孫」

2022-08-20 06:47:27 | 日記

8/10から8/15まで 娘の家族5人が帰省してきた。小3と小1 それに1~2歩歩けるようになった0歳児、いずれも男の子。

初日は近くを散歩、昨年から蝉がぐっと少なくなってしまった。小3のハルちゃん いきなりジイジ アブラゼミがカマキリに食べられているよ!

見ると、補足されたアブラゼミがジージーと 力無く鳴いていた。ハルちゃんは感受性が強いので、もう助けようがないよ!と私。

弱肉強食、食物連鎖・・これも勉強。

 

次の日散歩してると「ハルは大きくなっても 医者には成らないかもしれないよ」と、言う。私が「ガン」であることを知っているのだ。

じゃあ 薬を作る研究者になってよと 言うと、「ハルが大きくなってる頃には、全ての病気には 効く薬が見つかってるかもしれないよ」と言う。

病気には何十万人に1人が罹る珍しい病気があるから、全部の病気の薬は未だ作られてないはずだと答えた。

去年来た時 大きくなったら医者か薬を作る研究者になって、ジイジの病気を治して・・と、言ってたのを覚えてたんだね。優しくて賢い子だ。

でも この子の回答は一言「生きてたらね」だった。癌に罹ると長生きできないことを知ってたんだね。ちょっと寂しかった。

昨夜は一緒に寝ましたが 白血球・赤血球・血小板はおろかマクロファージなどを説明してくれた。

私が高校生に習ったことまで知ってた。小3にしては豊富な知識を持っていた。

   子供には いろんな可能性があるんだ。医者に限らず 何か打ち込める職業に就けばいいさ。

 

自宅に帰る時、パパの車に乗るよとママ。するとハルちゃん、逃げる様に2階への階段を上って行った。

追っていくと踊り場を曲がったところに座り込んで シクシク泣いていた。

抱き起して、冬休みに又おいで 雪だるま作ろうねと、言うと 私の腕の中で コックリした。

恐竜のプラモデルを作り、オープンしたばかりの恐竜博物館へ行き、筆の軸を切って豆鉄砲を作ったり 色々遊んだね~。

帰るの 寂しかったんだろうね。可愛いやつだ。


確定申告すみました

2022-03-14 06:48:16 | 日記

昨夜 確定申告(還付申請)が終わりました。

今年は ID・パスワード方式にしたので申告書を持って行く必要はありませんでした。

医療費の還付申請なんですが、家内も癌を患っているので、我が家の昨年1年間の医療費総額は な、なんと 1千8百万円かかってました。

3割負担なので実際に支払ったのは 160万円で(月の支払い限度額は1医療機関あたり44,400円)、高額療養費制度で後から70万円補填されてるので、実際の負担は差額の約90万円です。

がん患者の人で 「金の切れ目が 命の切れ目」と言う人もいるけど、正にそうですね。

製薬会社が 金になる抗がん剤の研究には力を入れるが、患者が少ない希少病の研究に力を入れないのは こんな事も原因らしい。つまり研究開発費を回収できないから。

私はサラリーマンだったので厚生年金を受給し、企業年金も支給されている。自助努力で個人年金も掛けてたので、贅沢さえしなければ 何とかやっていけます。国民年金をもらっている方は月にして 6~7万しか支給されて無い様で 仕事を続けてないと年90万円はつらいでしょうね。

 

画像はもうすぐ完成予定の ED16とED17です。もう車体も下回り動力部分も塗装しました。あとはヘッド・テールの色差しなどの仕上げです。