≪12/26≫
ロッテ・柿沼友哉はシーズン途中に一軍昇格し、種市篤暉投手が先発の時にマスクを被る機会が多かったが、一軍出場はわずか18試合に終わった。
ファームでは外野で出場も
今年2月の春季キャンプは、例年以上に覚悟を持って挑んだ。オープン戦で2試合に出場したが、開幕は二軍スタート。「開幕は悔しいことにファームだったので、やることは変わらずいつ呼ばれてもいいように、一生懸命野球に取り組んだという感じですね」。ファームには開幕直後に降格した松川虎生、大卒4年目の植田将太、育成3年目の谷川唯人など、若い捕手陣がここ数年で増えた。
「基本的にやることは上と下でも変わらないので、自分が上手くなるために、チームの勝ちに自分がどうやって貢献できるかを取り組んできたという感じです」。
若手が増えたことでファームでも、毎試合スタメンでマスクを被るというわけではなかった。一塁でスタメン出場する日や、練習試合では外野でも出場した。捕手以外のポジションで出場することが、柿沼にとって新たな発見にもなった。
「チームの事情もあったので、その中で自分の新たな挑戦として違う視点でキャッチャーを見る。相手バッターを見る、新しい発見ができればいいなという意識で守っていました」。
腐ることなく、一塁や外野のポジションから“捕手”としての勉強を行った。
交流戦明けの6月20日にZOZOマリンスタジアムでの一軍練習に参加すると、リーグ戦再開後初戦となった6月23日に今季初昇格を果たした。
「基本的にやることは上と下でも変わらないので、自分が上手くなるために、チームの勝ちに自分がどうやって貢献できるかを取り組んできたという感じです」。
若手が増えたことでファームでも、毎試合スタメンでマスクを被るというわけではなかった。一塁でスタメン出場する日や、練習試合では外野でも出場した。捕手以外のポジションで出場することが、柿沼にとって新たな発見にもなった。
「チームの事情もあったので、その中で自分の新たな挑戦として違う視点でキャッチャーを見る。相手バッターを見る、新しい発見ができればいいなという意識で守っていました」。
腐ることなく、一塁や外野のポジションから“捕手”としての勉強を行った。
交流戦明けの6月20日にZOZOマリンスタジアムでの一軍練習に参加すると、リーグ戦再開後初戦となった6月23日に今季初昇格を果たした。
柿の種バッテリー
「とりあえず一安心という感じですね。少ないチャンスをモノにしていかないといけないので、もっともっと頑張んないといけないなという感じです」。
一軍の公式戦では20年8月1日の楽天戦以来となった“柿の種バッテリー”は、初回にいきなり2点を失うなど苦しい立ち上がりになったが、「種市自身、本調子じゃなかったと思うんですけど、その中でお互い話しながら修正できるようにというふうにできたので、そこは良かったと思います」(柿沼)と、2回以降はリズムの良い投球で7回を2失点にまとめた。
柿沼は打っても3-2の4回二死走者なしの第2打席、辛島航が1ボールから投じた2球目のストレートをレフト前に弾き返し今季初安打をマーク。この安打をきっかけに続く和田康士朗が四球を選び、岡大海の3ランに繋げた。
「勝てたことで次につながりますし、一番、チームも連敗していてそれもストップできたのも大きいんじゃないかなと思います」。
柿沼は7月1日の楽天戦以降、種市が先発の時にマスクを被った。「種市自身、色々考えて投げられるので、種市の考えを聞きながらお互いにいいものを出せたらなと思っていますけど、引っ張っていくというよりはしっかり考えられるピッチャーなので、そこはお互い考えを出しながらという感じですね」。続く7月9日の日本ハム戦も7回2失点、7月17日の楽天戦は5回2/3で4失点だったが、8月18日の楽天戦まで柿沼が先発マスクを被った時の種市は6勝1敗と白星が先行した。
シーズン最終盤に一軍登録抹消
「よく怪我したり離脱することが多かった。今年はそのぶん、前半ファームが長かったので、それを今取り返すつもりでもっと頑張らないといけなきゃないなと思います」。
昇格してからは一軍帯同し続けていたが、種市が先発する日以外は出番がないのが現状だった。
「種市が先発の時が出番なので、出た時くらいは勝たないという気持ちですね。毎日出ていたら明日取り返そう、また次取り返そうとなりますけど、先発ピッチャーと一緒で出たらまた1週間後、その先ってなってくるので、その試合で勝たないと、という思いはいつもより強いですね」。
これまでベンチスタートの時は試合中、ベンチでスタメン捕手のリードと、自分のリードの擦り合わせを行ってきたが、「その時気づいたこと、自分が組んだらこうした方がいいのかなとか、これ真似した方がいいな、これいけるなとか、それは変わらないですね」と、変わらず行った。
気になるのは試合勘の部分。「難しい部分がありますけど、それは言い訳になってしまう。いつ出るかわからない、むしろ先発週1回、ありがたいことに種市が先発の時は組ませてもらっているので、そこは難しいですけど、それを言い訳にしてはいけない。やっている以上は関係なく出たら一緒です」。
その種市とのバッテリーも、8月18日の楽天戦で白星を最後に、種市を勝利に導くことができなかった。
「種市自身いいピッチングができても最後、追いつかれてというケースもあった。全部が良くなかったわけではないんですけど、種市に勝ちがつけられなかったというのは、自分自身の責任じゃないですけど、そういうのは感じましたね」。
柿沼は10月4日に一軍登録を抹消。その後、一軍の舞台に戻ることができなかった。
「フェニックス中もCSは続いていましたし、出番がまたあればそこで仕事ができるようにと思ってフェニックス中もやっていました。フェニックスもそれを頭に入れながら、もっとレベルアップしないと行けない、バッティングのことも打たないと試合に出続けられないので、そこもいろんな意識は今までにないことを試してみたりとかというのはしました」。
“今までにないことを試した”という部分について具体的に訊いてみると、「試していないというわけではないんですけど、それを徹底して続けて、バッティングも調子があるように、悪くても、悪くなったら人間、すぐ変えたりという気持ちになっちゃうので、そこを変えずに練習だけなのでここからは。練習で波があってもやり続けるのを意識してみようかなと」。
「今まで引っ張りが多かったんですけど、徹底してボールの内側を打って反対方向に強い打球というイメージで打っている。今までもやっていないわけではないけど、それをやっても引っ張り、得意なことばかりやっていた。そっちじゃなくて、苦手、あまりやっていなかったことを徹底してやっています」。
「掴みきれなかった」
掴みきれなかった原因について「バッティングもそうですし、9月以降勝てなかった試合が続いてしまったのが自分の出番を減らしてしまった原因のひとつですね」と振り返った。
来季に向けて「本当に後悔ないようにじゃないですけど、自分がここまでやり切ったと思えるような充実の1年にしたいですね。悔しい1年にしたくないので、今までも悔いのないようにやってきたつもりですけど、よりそういう気持ちが強くなる1年かなと思います」と、今季以上に危機感を持って取り組む1年になる。
取材・文=岩下雄太
(ベースボールキング)
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33歳の新助っ人獲得の報を受けて思い出したあの選手
ダイクストラはアメリカ出身の33歳で、メジャーは未経験だという。ルイジアナ州立大から2013年ドラフト6巡目でホワイトソックスから指名されたが、一度もメジャーに昇格することはなく、マイナーのほか、独立リーグやメキシカンリーグを渡り歩いてきた。
そんな33歳の新助っ人獲得の報を受けて、ふと思い出したのが28年前にロッテに入団したある選手のことである。
さかのぼること1995年、ロッテは新たに就任したボビー・バレンタイン監督の下、1986年から9年続くBクラスからの脱却を目論んでいた。
その年のパ・リーグはイチロー率いるオリックスが7月以降に驚異的なペースで勝ち星を重ねて独走。最終的に12ゲーム差をつけて、11年ぶりのリーグ優勝を飾った。そんなオリックスの陰で、2位に躍進したのがロッテであった。
さかのぼること1995年、ロッテは新たに就任したボビー・バレンタイン監督の下、1986年から9年続くBクラスからの脱却を目論んでいた。
その年のパ・リーグはイチロー率いるオリックスが7月以降に驚異的なペースで勝ち星を重ねて独走。最終的に12ゲーム差をつけて、11年ぶりのリーグ優勝を飾った。そんなオリックスの陰で、2位に躍進したのがロッテであった。
来日は40歳? 年齢に諸説があったフリオ・フランコ
フランコはレンジャーズ時代の1991年にア・リーグ首位打者に輝き、来日する前年にも.319という高い打率を残していた。当時来日した助っ人の中では屈指の現役メジャーリーガーと呼べる存在だった。
球団から当時発表されたフランコのプロフィールでは、1961年生まれの33歳とされていたが、後に1958年生まれに訂正されている。つまり、来日当初はすでに36歳だったというわけだ。
ただ、今も公式上は1958年生まれのままだが、実際は1954年生まれという説もあり、仮にそれが事実なら40歳で来日していたことになる。
年齢の真偽はさておき、開幕から現役メジャーリーガーの名に恥じない活躍で安打を量産したフランコ。バットのグリップを高く上げて、バットの先端を投手方向に向ける独特な構えはスコーピオン打法と呼ばれ、日本人選手以上に献身的な姿勢なども相まってロッテファンの心をつかむと、本塁打こそ10本にとどまったが、最終的にリーグ3位の.306という高打率を残し、チームの快進撃に大きく貢献した。
しかし、シーズン中からバレンタイン監督と広岡達朗GMの間の軋轢が報じられると、シーズン終了後に同監督は解任され、それに伴ってフランコも僅か1年でチームを去ることとなった。
「ボビー旋風」が過ぎ去ったロッテは、翌年から再び低迷。2度目のバレンタイン政権下初年度の2004年まで再び9年連続Bクラスという屈辱を味わった。
一方のフランコだが、1996年にメジャーに出戻ると、3割を超える打率を残すなど存在感を発揮。1998年には再来日を果たし、近藤昭仁監督率いるロッテで、打率.290、18本塁打と再び中心選手として活躍した。
結局、数々の最年長記録を樹立したフランコは、2008年限りで現役を引退。しかし、2014年に米独立リーグでコーチ兼任ながら現役復帰を果たすと、翌2015年にはBCリーグの石川ミリオンスターズに選手兼任監督として入団し、選手としてなんと3割を超える打率をマークした。
今回新たにロッテに加入したダイクストラとフランコはポジションも違えば、来日前の実績も天と地ほどの差がある。直近の4年間で3回もAクラス入りしたチーム状態も、28年前とは大違いだ。立場や役割は異なるが、同じ助っ人外国人として、ダイクストラにはぜひジャパニーズドリームを掴んでほしいところ。33歳の新天地での活躍に期待したい。
文=八木遊(やぎ・ゆう)
【八木遊・プロフィール】
1976年、和歌山県出身。大学卒業後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLの業務などに携わる。野茂英雄と同じ1995年に渡米。ヤンキース全盛期をアメリカで過ごした。日本にファンタジーベースボールを流行らせたいという構想を持ち続けている。
(ベースボールキング)