≪2019/3/27≫
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗 〈1〉「みんな負けるところを見に来ている」…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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18連敗―。ドラフトによって戦力が均衡され、実力が伯仲するプロ野球の世界で、ここまで負けることは考えにくい。ロッテが1998年の6月から7月にかけて演じた悲劇は、今もなおプロ野球ワースト記録として残り、語り継がれる。当時の主力投手だった黒木知宏氏、監督だった近藤昭仁氏の証言をもとに、逆境の中で苦しみながらも、戦い続けた男たちのドラマを再現する。
◆7・7オリ戦異例の注目度 「みんな負けるところを見に来ている」
七夕の夜の出来事だった。黒木は当時を振り返る。
「織姫と彦星の1年に1度しかない日―。ロマンチックな日ですけど、僕には違う一日ですね。忘れろって言っても、無理ですよ」
98年7月7日。ロッテは出口の見えないトンネルをさまよっていた。6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から始まった黒星は、プロ野球ワーストタイの16連敗まで膨らんでいた。GS神戸で行われたオリックス戦。負の連鎖を断ち切るために先発したのは、「ジョニー」の名で愛された魂のエース・黒木だった。
「何が何でも連敗を止めると。『腕がもげてもいい』という思いでした」
注目度は高かった。5位と6位の対決ながら、フジ系で全国に緊急生放送される異例の事態に。大報道陣が勝敗を注視していた。
「みんな負けるところを見に来ている。絶対に負けられないって、メラメラきてましたよね。でもグラウンドに出るとき、当時ヘッドコーチだった広野功さんから『ジョニーは幸せだね』と言われたんです。『これで勝ったら、これで負けたら…という大事な試合で投げられる。幸せだよ』って。幸せだ―というのが、僕の中で響いたんです」
鬼気迫る表情でジョニーは右腕を振った。だが、この夜の神戸は高温多湿の悪条件。人知れず、黒木の体には異変が生じていた。
「6回で脱水症状になって…。マウンドに上がってボールを投げると、全身にけいれんを起こしていることは分かっていました。だけど、連敗を何とか止めないといけないし」
これは大型連敗の最大の要因でもあったのだが、当時のロッテはWストッパーの河本育之、成本年秀をけがで欠き、終盤を託せるリリーフが不在だった。だからこそジョニーは首脳陣に異常を告げることなく、奮投するしかなかった。
8回を終え2安打1失点の快投。3―1とリードは2点。勝利の瞬間まで、あとアウト3つに迫っていた。
「ただ、本当は記憶があまりないんです。無我夢中で何も考えず、ひたすら1つのアウトを取る作業しかやっていなかったから」
9回。先頭のイチローを三振に封じた。記憶がおぼろげな中でも、背番号51の表情は脳裏に焼き付く。
「イチローがギロッとにらみ返してきたことを覚えています。普通は日本ワーストタイだったら、哀れな気持ちがあるじゃないですか。ただ、イチローには関係なかった」
走者を許すが、2死までたどりついた。あと一人。誰もが連敗地獄からの脱出を、信じて疑わなかった。(特別取材班)
◇伸びなかった視聴率
ロッテの連敗は10を超えた頃から世間の関心事となり、ロッテ・ファンの落語家・立川談志は本紙の取材に「勝負は勝つヤツがいれば負けるヤツもいる。この際、とことん負けたらいいんじゃない。負けを楽しめと言いたいね」とエールを送っている。一方、フジ系でゴールデンタイムに全国生中継された「七夕の悲劇」は関東地区で視聴率3.3%と、数字的にも惨敗に終わった。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈2〉あと1球―切れろ、切れてくれ…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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▽1998年7月7日(グリーンスタジアム神戸=観衆2万)
ロッテ 002001000000 ―3
オリックス 000100002004X―7
(延長12回)
(ロ)黒木、●藤田、近藤―福沢、清水
(オ)木田、水尾、ウィン、〇鈴木―日高、三輪
【本】キャリオン8号(木田・6回)プリアム11号2ラン(黒木・9回)広永1号満塁(近藤・12回)
※ロッテはプロ野球ワースト記録を更新する17連敗(1分け挟む)
◆7・7プロ野球ワースト17連敗
プロ野球ワーストタイの16連敗が、やっと止まる。ロッテベンチだけじゃない。GS神戸の球場全体が異様な興奮に包まれていた。98年7月7日、オリックス戦。先発した黒木の力投で、勝利まであと1人に追い込んだ。3―1と2点リードの9回2死一塁。プリアムが右打席へと向かう。ジョニーの闘争心は最高潮だった。
「勝てると思いましたね。ファンの思い、チームの思いを受け止めて、最高の投球をしていたので。2ストライクに追い込んだときは、『よし、勝った!』と思いましたよね」
カウントは1ボール2ストライク。女房役の福沢は内角高めにミットを構えた。暗く、長いトンネルを抜けるまで、あと1球―。
「元々、僕の生命線はインコース高めの直球だったので、そこに投げたんですが、ちょっと引っかかったんです。それが低めにいってしまって…」
この日、黒木が投じた139球目。ローボールヒッターのプリアムはわずかな制球ミスを逃さなかった。内角低めの146キロを捉える。強烈な打球が左翼ポール際へと飛んだ。切れろ。切れてくれ―。切実な願いは届かなかった。同点2ラン。ジョニーはマウンドへと膝から崩れ落ちた。内野陣が集まり、声を掛けるが、立ち上がれない。
「人はよく『アタマが真っ白になる』って言うじゃないですか。『いやいや、真っ白になるなんて、ないだろう』と思うかもしれませんが、打たれた瞬間、本当に真っ白になりました。『あ、終わった』と。その後は記憶がなくて。抱えられて降板するところは数日後に映像で見て、『オレはこういうふうになっていたんだ』って。現実に悔しくて涙が出るとか、そういう感情はなかったです」
試合は延長に突入したが、その時点でフランコや初芝を交代させていた。強打者を欠き、守護神不在のチームに勝ち目はなかった。延長12回。3番手の近藤が代打・広永にサヨナラ満塁弾を浴びた。プロ野球ワースト更新の17連敗。悪夢から覚めることはできなかった。
投球中から脱水症状に苦しんでいたジョニーはゲームセット直前、右肩と右肘に強いけいれんを起こしていた。右腕を上げたまま立花コーチらに抱えられ、GS神戸を後にした。そんな痛々しい写真が、翌日の紙面に掲載された。宿舎に戻り、ケアをすませて午前1時半。裕子夫人に電話した。
「かける言葉もないですよね。『負けた』と言って『大変だったね』みたいな感じです。難しいですね。27個目のアウトを取るのは」
悲しくてやりきれない、七夕の夜が終わった。(特別取材班)
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈3〉「守護神・ジョニー」強い気持ち裏目…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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連敗地獄に陥っている間、ロッテの首脳陣は指をくわえて見ていたわけではない。序盤から打つべき手は打ったが、止まらなかったのだ。
4連敗を喫した藤井寺での近鉄戦から一夜明け。6月19日、帰京する新幹線の車中だった。前夜に先発し、6回2失点ながらも敗戦投手となっていた黒木は、マネジャーに声を掛けられた。「監督が呼んでいます」。何の用事だろう? 監督の近藤昭仁の隣に座ると、こんな打診を受けた。「クロ、明日からストッパーでいってくれ」。連敗の要因である守護神の不在をエース格・黒木で補う。秘策だった。
近藤「ストッパーの条件の一つは、球に力があること。黒木しかいなかった。だから『とにかく連敗を止めてくれ。止まったらまた先発に戻すから、頼む』とね」
黒木「『ハイやります』と二つ返事です。チームは危機的な状況。勝利に貢献すべきと感じてました」
出番はすぐに訪れた。翌20日の東京D、日本ハム戦。2―0とリードした8回裏、中1日で黒木は救援した。だが1点差に迫られると、片岡篤史に逆転2点二塁打を浴びた。チームは6連敗。悪夢は続く。21日の同戦は壮絶な打撃戦と化した。10―9とロッテが1点リードの9回裏、1死二塁。終止符を打つべく、ジョニーは連夜の登板を果たした。ところが田中幸雄への直球は、サヨナラ2ランに。2夜連続の失敗。10―11での敗戦で7連敗―。「10点取っても勝てないのか…」。ベンチは絶望感で満たされた。
なぜ「守護神・ジョニー」は機能しなかったのか。
黒木「マウンドに上がった時、力んでしまうんですよね。野手が点を取って、守ってくれた。前に投げた投手には勝ち星がついている。それをオレが壊してはいけないという、強い思いがありすぎて…。打たれた日は、気づいたら朝でした。悔しくて寝てない。僕の性格上、引きずってしまうんです」
気迫全開で白星を重ねてきた「魂のエース」。その持ち味がストッパーとしては、裏目に出てしまった。
二度あることは三度ある。26日、千葉マリンでの西武戦。1―1の延長11回、黒木は1死三塁で救援したが、またも空回りした。2失点し、3度目のリリーフ失敗。チームは10連敗となった。試合後、近藤は先発への再転向をジョニーに指示した。
フロントが抑えの切り札として新助っ人・ウォーレンの獲得を発表したのは、その翌日のことだった。翌99年には30セーブを挙げ、パの最優秀救援投手に輝いた右腕。近藤の言葉がせつない。「1か月前に来とったら、今オレがこうして取材受けることは、なかったよな」(特別取材班)=敬称略=
◇98年のジョニー
悪夢の「ストッパー3連敗」、さらには勝利まであと1球から同点2ランを浴びた「七夕の悲劇」など試練が続いた25歳の黒木だったが、終わってみれば13勝(9敗)で最多勝。5割9分1厘で最高勝率と2冠に輝き、初タイトルを獲得した。防御率3・29はリーグ2位。球団最年少の1億円プレーヤーになった。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈4〉「倒れるまで、やらせて下さい」…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。
14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。
「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」
皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」
連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」―。
例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰一人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」
遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。
実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」
勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=
◇謎の爆発騒ぎも 12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いけが人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈5〉泥沼から生まれたファンとの絆…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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人は何かを失ったとき、何かを手にする。18連敗は球史に残る屈辱だった。それでも敗者である彼らが、暗黒の27日間を通じて勝ち取ったものがある。それは、ファンとの固い絆だ。
98年7月5日、千葉マリン。ロッテはダイエーに3―10で大敗した。16連敗となり、日本記録に並んだ。4併殺に投壊。暴動が起きても不思議ではない。だが、選手出入り口前に集った200人のファンは、違った。声を振り絞って、歌った。
俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ 突っ走れ、勝利のために
歌声と手拍子は1時間、続いた。大合唱は監督である近藤昭仁の耳に入った。暗闇の真っただ中にいた指揮官はその瞬間、目を真っ赤に潤ませた。ありがとう―。
心が折れることなく声援を送るファンの光景は、夜のニュースでも報じられた。エース格だった黒木知宏は翌々日の先発が決まっていたため、試合途中で球場を去り、帰宅していた。テレビ画面越しに応援団の思いが伝わってくる。黒木の頬にもまた、熱い涙が滴り落ちた。
「実はファンに怖さがあったんです。『何も起きなければいい』と。だけどテレビをつけたら、これだけ負けているのに、ファンが一生懸命歌っている。これまで『ファンのために』と言っていたけど、本当にそういう思いだったのか…。自分がゲスい気持ちになってしまったんです。だから7月7日は、何が何でも連敗を止めなきゃならない。腕がもぎれてもいいと思って、マウンドに立ちました」
脱水症状に襲われ、全身けいれんを起こしつつ熱投した「七夕の悲劇」は、その2日後の出来事だった。
18連敗が止まった数日後。球宴休みを利用して、近藤はある人物を食事に誘った。私設応援団「ガルズ」の団長・石井努だった。現役監督がシーズン中、私設応援団と会食することは、極めて異例だ。近藤は振り返る。
「本当はファン全員を招待したかったんだ。どんな時も必死になって応援してくれた。あの声援が、どれほどありがたかったことか」
黒木は「あの時」を球界の後進に語り継いでいくことも自らの使命だという。
「当事者ですから、僕には伝えないといけない義務がある。『財産になります』ではなく、財産にしないといけない。ゲームセットまで、勝負はゲタを履くまでは、分からない―と」
光を求め、もがいた夏。男たちの記憶は、決して色あせることはない。(特別取材班)=敬称略・終わり=
◆小宮山で始まり、小宮山で終わった
ロッテが18連敗を脱したのは7月9日のオリックス戦(神戸)。先発したエース・小宮山悟が14安打されながらも140球を投げ、6失点完投。9―6で打ち勝った。18連敗は6月13日、同じオリックス戦(千葉マリン)での小宮山の敗戦から始まっていた。注目度の高さから試合はTBS系のゴールデンタイムに生放送。連敗脱出は中継終了後、ドラマ「ひとりぼっちの君に」の中でテロップにて報じられた。
(以上 報知)
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「七夕の悲劇」で心折れ睡眠薬/近藤昭仁さん悼む
元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。
◇ ◇ ◇
18連敗で「敗軍の将」とレッテルを貼られたが、根は勝ち気な人だった。3年契約で迎えられたロッテでは、1年目(97年)から最下位。消化試合となった千葉マリンでの試合後会見で、ベテラン記者と怒鳴り合いになった。当時59歳。1度監督室に戻ったが再び現れて、10センチ以上も背の高い同窓の年長者を見上げて第2ラウンドを始めた。あまりのけんまくに、20代の若輩者が多かった各社担当は傍観するだけだった。
そして2年目の98年は、6月から28日間も負け続けた。さすがの昭さんも心が折れ、不眠症で睡眠薬に頼った。「七夕の悲劇」で有名な17連敗では、神戸グリーンスタジアムの長い階段を4重、5重もの取材陣に取り囲まれ、「まぶしい!」と興奮して払いのけた手がテレビクルーを押し倒した。18連敗では最後、「ウワーッ!」と叫んでバスまで走った。翌日、連敗を脱すると「これから20連勝するよ」と勝ち気な顔に戻っていた。期間は日本が初出場したサッカーW杯と重なり、紙面の露出は控えめだったが、記者人生で最も忘れられない出来事だった。
直後に解任報道も出たが、最終戦まで指揮をまっとうした。ホーム最終戦はダブルヘッダー。第2試合のベンチに向かう廊下で、球団幹部に呼び止められて監督室に戻った。偶然見ていたが、解任通告とは気付けなかった。翌日の報道で知り、5000円の花束を持って自宅を訪ねたが不在。解任で花束とは不謹慎な話だが、初のプロ野球担当として鍛えてもらった感謝を伝え、夫人に快く受け取ってもらった数時間後、留守電に「ありがとう!」と昭さんの大声が入っていた。
喜怒哀楽がストレートで、どこか憎めなかった。同通告から5日後の退任会見では、「次は弱いチームじゃなくて、強いチームでね」といつもの勝ち気な弁で、監督再登板に意欲。武士の情けか同コメントを報じないメディアが大半で、ファンの物議も醸したが、花束の効果? か小言はなかった。14年12月に佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)の殿堂入りパーティーでお会いしたのが最後。本人の名誉のために触れるが、18連敗した98年の61勝、得失点差プラス、チーム打率1位とも最下位ではリーグ史上初。後日再会したときに、「最強の最下位」の称号にまんざらでもなさそうだった。優勝した西武とは9・5ゲーム差。18連敗がなかったらもしかして…、とも思う。合掌。【97~98年ロッテ担当=東北総局次長・中島正好】
ロッテ福浦「今の僕はなかった」恩師・近藤さん悼む
ロッテ福浦和也内野手兼2軍打撃コーチ(43)が恩師の死を悼んだ。
横浜ベイスターズの初代監督で、ロッテでも97、98年に指揮を執った近藤昭仁氏が27日、亡くなった。福浦は同監督に目をかけられ、97年に1軍初昇格。「近藤さんが監督じゃなかったら今の僕はなかった」と感謝は尽きない。
この日、ロッテ浦和球場で訃報に対し「本当に残念。それしかない。初めて1軍に上げてくれた監督だし、背番号を9に変えてくれた監督。18連敗とか、苦い思い出もありましたけど、やっぱり寂しいですね。僕はまだ若かったですし、かわいがってもらったって言ったらおかしいけど(試合で)使ってもらってありがたかった。18連敗だって、誰もしたいと思ってやってるわけじゃない。勝てなかった悔しさは今も忘れないし、本当、申し訳ないなという気持ちが大きいです」と、沈痛な面持ちを浮かべた。
(以上 日刊)
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近藤昭仁氏死去 大洋の内野手として活躍 ロッテ監督時に「七夕の悲劇」
プロ野球、大洋(現DeNA)の内野手として活躍し、ロッテ、横浜、巨人などで監督やコーチを務めた野球解説者の近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で亡くなったことが分かった。80歳だった。高松市出身。
近藤氏は1960年に早大から大洋に入団。ルーキーイヤーの5月に二塁手に定着すると、終盤戦には1番打者として活躍し、球団創設以来初となる優勝に貢献した。その後もレギュラー二塁手として活躍し、球宴に2回出場。1973年に選手兼任コーチとなり、同年限りで現役を引退した。
引退後は74年から78年まで大洋、79年から81年までヤクルト、82年から86年まで西武のコーチを、89年から91年まで巨人のヘッドコーチを歴任。93年から3年間は、大洋の後身にあたる横浜、97、98年にはロッテの監督を務めた。また、06年に15年ぶりに巨人のヘッドコーチに就任。翌年には統括ディレクターとしてフロント業務を務め、育成枠登録などを助言した。
ロッテ監督時代の98年には、6月13日のオリックス戦での逆転負けを皮切りに連敗街道へ。7月7日のオリックス戦で先発エースの黒木が力投し、トンネル脱出まであと1死まで迫りながら、同点本塁打を被弾。最後は3番手の近藤がサヨナラ満塁弾を浴びてプロ野球史上初の17連敗。同試合は「七夕の悲劇」として語り継がれた。
通夜は31日午後6時、葬儀・告別式は4月1日正午からいずれも横浜市鶴見区鶴見2-1-1の総持寺・三松閣。喪主は妻の由紀子さん。献花や葬儀についての問い合わせは公益社=(電)03(5491)3070=まで。
ロッテ・福浦 恩師・近藤さんを悼む「18連敗の悔しさ今も…」
ロッテ・福浦が近藤昭仁さんの死去の報に接し「本当に残念です。寂しいですね」と沈痛な表情で口にした。
近藤さんがロッテの指揮を執ったのは97~98年。福浦は当時、伸び盛りの若手で「初めて1軍に上げてくれたのも、背番号を9に替えてくれたのも近藤監督でした。僕はまだ若かったけど、かわいがってもらったというのもおかしいけど、(試合に)使ってくれた」と振り返った。
98年には「七夕の悲劇」とも言われた18連敗があった。「18連敗という苦い思い出もありました。あの悔しさは今でも忘れていない。18連敗したいと思ってやっていなかったけど…。(近藤さんに)申し訳ないという気持ちです」と話した。
(以上 スポニチ)
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プロ野球監督の近藤昭仁さん死去 元横浜、ロッテ
プロ野球の横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。葬儀・告別式は4月1日正午から横浜市鶴見区、総持寺三松閣で。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。
1960年に大洋(現DeNA)に入団。小柄ながら走攻守そろった二塁手として活躍し、新人だった60年は球団初のリーグ優勝と日本一に貢献。日本シリーズでは最優秀選手に選ばれた。引退後は大洋、ヤクルトなどのコーチを務め、93年に横浜の監督に就任して3年間、97年からはロッテの監督を2年務めた。
元横浜、ロッテ監督の近藤昭仁氏死去 80歳 98年にプロ野球記録18連敗
横浜(現DeNA)やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。
高松市出身の近藤氏は高松一高から早大に進み、1960年に大洋に入団。ルーキーイヤーから二塁手として活躍し、同年の日本シリーズMVPに選ばれた。1619試合出場、1183安打。球宴には62年と65年の2度出場した。
選手兼コーチとなった73年に現役引退。広岡達朗監督時代の西武など複数球団のコーチでは優勝請負人としてチームを支えた。93年に大洋の後身となる横浜の監督に就任。93年5位、94年6位、95年4位とAクラスを経験することなく退任すると、97年にはロッテ監督に就任。初年度に最下位となると、2年目の98年は現在もプロ野球記録として残る公式戦18連敗を喫して最下位となり、この年限りで辞任した。
(以上 デイリー)
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗 〈1〉「みんな負けるところを見に来ている」…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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18連敗―。ドラフトによって戦力が均衡され、実力が伯仲するプロ野球の世界で、ここまで負けることは考えにくい。ロッテが1998年の6月から7月にかけて演じた悲劇は、今もなおプロ野球ワースト記録として残り、語り継がれる。当時の主力投手だった黒木知宏氏、監督だった近藤昭仁氏の証言をもとに、逆境の中で苦しみながらも、戦い続けた男たちのドラマを再現する。
◆7・7オリ戦異例の注目度 「みんな負けるところを見に来ている」
七夕の夜の出来事だった。黒木は当時を振り返る。
「織姫と彦星の1年に1度しかない日―。ロマンチックな日ですけど、僕には違う一日ですね。忘れろって言っても、無理ですよ」
98年7月7日。ロッテは出口の見えないトンネルをさまよっていた。6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から始まった黒星は、プロ野球ワーストタイの16連敗まで膨らんでいた。GS神戸で行われたオリックス戦。負の連鎖を断ち切るために先発したのは、「ジョニー」の名で愛された魂のエース・黒木だった。
「何が何でも連敗を止めると。『腕がもげてもいい』という思いでした」
注目度は高かった。5位と6位の対決ながら、フジ系で全国に緊急生放送される異例の事態に。大報道陣が勝敗を注視していた。
「みんな負けるところを見に来ている。絶対に負けられないって、メラメラきてましたよね。でもグラウンドに出るとき、当時ヘッドコーチだった広野功さんから『ジョニーは幸せだね』と言われたんです。『これで勝ったら、これで負けたら…という大事な試合で投げられる。幸せだよ』って。幸せだ―というのが、僕の中で響いたんです」
鬼気迫る表情でジョニーは右腕を振った。だが、この夜の神戸は高温多湿の悪条件。人知れず、黒木の体には異変が生じていた。
「6回で脱水症状になって…。マウンドに上がってボールを投げると、全身にけいれんを起こしていることは分かっていました。だけど、連敗を何とか止めないといけないし」
これは大型連敗の最大の要因でもあったのだが、当時のロッテはWストッパーの河本育之、成本年秀をけがで欠き、終盤を託せるリリーフが不在だった。だからこそジョニーは首脳陣に異常を告げることなく、奮投するしかなかった。
8回を終え2安打1失点の快投。3―1とリードは2点。勝利の瞬間まで、あとアウト3つに迫っていた。
「ただ、本当は記憶があまりないんです。無我夢中で何も考えず、ひたすら1つのアウトを取る作業しかやっていなかったから」
9回。先頭のイチローを三振に封じた。記憶がおぼろげな中でも、背番号51の表情は脳裏に焼き付く。
「イチローがギロッとにらみ返してきたことを覚えています。普通は日本ワーストタイだったら、哀れな気持ちがあるじゃないですか。ただ、イチローには関係なかった」
走者を許すが、2死までたどりついた。あと一人。誰もが連敗地獄からの脱出を、信じて疑わなかった。(特別取材班)
◇伸びなかった視聴率
ロッテの連敗は10を超えた頃から世間の関心事となり、ロッテ・ファンの落語家・立川談志は本紙の取材に「勝負は勝つヤツがいれば負けるヤツもいる。この際、とことん負けたらいいんじゃない。負けを楽しめと言いたいね」とエールを送っている。一方、フジ系でゴールデンタイムに全国生中継された「七夕の悲劇」は関東地区で視聴率3.3%と、数字的にも惨敗に終わった。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈2〉あと1球―切れろ、切れてくれ…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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▽1998年7月7日(グリーンスタジアム神戸=観衆2万)
ロッテ 002001000000 ―3
オリックス 000100002004X―7
(延長12回)
(ロ)黒木、●藤田、近藤―福沢、清水
(オ)木田、水尾、ウィン、〇鈴木―日高、三輪
【本】キャリオン8号(木田・6回)プリアム11号2ラン(黒木・9回)広永1号満塁(近藤・12回)
※ロッテはプロ野球ワースト記録を更新する17連敗(1分け挟む)
◆7・7プロ野球ワースト17連敗
プロ野球ワーストタイの16連敗が、やっと止まる。ロッテベンチだけじゃない。GS神戸の球場全体が異様な興奮に包まれていた。98年7月7日、オリックス戦。先発した黒木の力投で、勝利まであと1人に追い込んだ。3―1と2点リードの9回2死一塁。プリアムが右打席へと向かう。ジョニーの闘争心は最高潮だった。
「勝てると思いましたね。ファンの思い、チームの思いを受け止めて、最高の投球をしていたので。2ストライクに追い込んだときは、『よし、勝った!』と思いましたよね」
カウントは1ボール2ストライク。女房役の福沢は内角高めにミットを構えた。暗く、長いトンネルを抜けるまで、あと1球―。
「元々、僕の生命線はインコース高めの直球だったので、そこに投げたんですが、ちょっと引っかかったんです。それが低めにいってしまって…」
この日、黒木が投じた139球目。ローボールヒッターのプリアムはわずかな制球ミスを逃さなかった。内角低めの146キロを捉える。強烈な打球が左翼ポール際へと飛んだ。切れろ。切れてくれ―。切実な願いは届かなかった。同点2ラン。ジョニーはマウンドへと膝から崩れ落ちた。内野陣が集まり、声を掛けるが、立ち上がれない。
「人はよく『アタマが真っ白になる』って言うじゃないですか。『いやいや、真っ白になるなんて、ないだろう』と思うかもしれませんが、打たれた瞬間、本当に真っ白になりました。『あ、終わった』と。その後は記憶がなくて。抱えられて降板するところは数日後に映像で見て、『オレはこういうふうになっていたんだ』って。現実に悔しくて涙が出るとか、そういう感情はなかったです」
試合は延長に突入したが、その時点でフランコや初芝を交代させていた。強打者を欠き、守護神不在のチームに勝ち目はなかった。延長12回。3番手の近藤が代打・広永にサヨナラ満塁弾を浴びた。プロ野球ワースト更新の17連敗。悪夢から覚めることはできなかった。
投球中から脱水症状に苦しんでいたジョニーはゲームセット直前、右肩と右肘に強いけいれんを起こしていた。右腕を上げたまま立花コーチらに抱えられ、GS神戸を後にした。そんな痛々しい写真が、翌日の紙面に掲載された。宿舎に戻り、ケアをすませて午前1時半。裕子夫人に電話した。
「かける言葉もないですよね。『負けた』と言って『大変だったね』みたいな感じです。難しいですね。27個目のアウトを取るのは」
悲しくてやりきれない、七夕の夜が終わった。(特別取材班)
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈3〉「守護神・ジョニー」強い気持ち裏目…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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連敗地獄に陥っている間、ロッテの首脳陣は指をくわえて見ていたわけではない。序盤から打つべき手は打ったが、止まらなかったのだ。
4連敗を喫した藤井寺での近鉄戦から一夜明け。6月19日、帰京する新幹線の車中だった。前夜に先発し、6回2失点ながらも敗戦投手となっていた黒木は、マネジャーに声を掛けられた。「監督が呼んでいます」。何の用事だろう? 監督の近藤昭仁の隣に座ると、こんな打診を受けた。「クロ、明日からストッパーでいってくれ」。連敗の要因である守護神の不在をエース格・黒木で補う。秘策だった。
近藤「ストッパーの条件の一つは、球に力があること。黒木しかいなかった。だから『とにかく連敗を止めてくれ。止まったらまた先発に戻すから、頼む』とね」
黒木「『ハイやります』と二つ返事です。チームは危機的な状況。勝利に貢献すべきと感じてました」
出番はすぐに訪れた。翌20日の東京D、日本ハム戦。2―0とリードした8回裏、中1日で黒木は救援した。だが1点差に迫られると、片岡篤史に逆転2点二塁打を浴びた。チームは6連敗。悪夢は続く。21日の同戦は壮絶な打撃戦と化した。10―9とロッテが1点リードの9回裏、1死二塁。終止符を打つべく、ジョニーは連夜の登板を果たした。ところが田中幸雄への直球は、サヨナラ2ランに。2夜連続の失敗。10―11での敗戦で7連敗―。「10点取っても勝てないのか…」。ベンチは絶望感で満たされた。
なぜ「守護神・ジョニー」は機能しなかったのか。
黒木「マウンドに上がった時、力んでしまうんですよね。野手が点を取って、守ってくれた。前に投げた投手には勝ち星がついている。それをオレが壊してはいけないという、強い思いがありすぎて…。打たれた日は、気づいたら朝でした。悔しくて寝てない。僕の性格上、引きずってしまうんです」
気迫全開で白星を重ねてきた「魂のエース」。その持ち味がストッパーとしては、裏目に出てしまった。
二度あることは三度ある。26日、千葉マリンでの西武戦。1―1の延長11回、黒木は1死三塁で救援したが、またも空回りした。2失点し、3度目のリリーフ失敗。チームは10連敗となった。試合後、近藤は先発への再転向をジョニーに指示した。
フロントが抑えの切り札として新助っ人・ウォーレンの獲得を発表したのは、その翌日のことだった。翌99年には30セーブを挙げ、パの最優秀救援投手に輝いた右腕。近藤の言葉がせつない。「1か月前に来とったら、今オレがこうして取材受けることは、なかったよな」(特別取材班)=敬称略=
◇98年のジョニー
悪夢の「ストッパー3連敗」、さらには勝利まであと1球から同点2ランを浴びた「七夕の悲劇」など試練が続いた25歳の黒木だったが、終わってみれば13勝(9敗)で最多勝。5割9分1厘で最高勝率と2冠に輝き、初タイトルを獲得した。防御率3・29はリーグ2位。球団最年少の1億円プレーヤーになった。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈4〉「倒れるまで、やらせて下さい」…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。
14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。
「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」
皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」
連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」―。
例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰一人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」
遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。
実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」
勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=
◇謎の爆発騒ぎも 12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いけが人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。
【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈5〉泥沼から生まれたファンとの絆…近藤昭仁さん追悼
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した【あの時】を再掲します。
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人は何かを失ったとき、何かを手にする。18連敗は球史に残る屈辱だった。それでも敗者である彼らが、暗黒の27日間を通じて勝ち取ったものがある。それは、ファンとの固い絆だ。
98年7月5日、千葉マリン。ロッテはダイエーに3―10で大敗した。16連敗となり、日本記録に並んだ。4併殺に投壊。暴動が起きても不思議ではない。だが、選手出入り口前に集った200人のファンは、違った。声を振り絞って、歌った。
俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ 突っ走れ、勝利のために
歌声と手拍子は1時間、続いた。大合唱は監督である近藤昭仁の耳に入った。暗闇の真っただ中にいた指揮官はその瞬間、目を真っ赤に潤ませた。ありがとう―。
心が折れることなく声援を送るファンの光景は、夜のニュースでも報じられた。エース格だった黒木知宏は翌々日の先発が決まっていたため、試合途中で球場を去り、帰宅していた。テレビ画面越しに応援団の思いが伝わってくる。黒木の頬にもまた、熱い涙が滴り落ちた。
「実はファンに怖さがあったんです。『何も起きなければいい』と。だけどテレビをつけたら、これだけ負けているのに、ファンが一生懸命歌っている。これまで『ファンのために』と言っていたけど、本当にそういう思いだったのか…。自分がゲスい気持ちになってしまったんです。だから7月7日は、何が何でも連敗を止めなきゃならない。腕がもぎれてもいいと思って、マウンドに立ちました」
脱水症状に襲われ、全身けいれんを起こしつつ熱投した「七夕の悲劇」は、その2日後の出来事だった。
18連敗が止まった数日後。球宴休みを利用して、近藤はある人物を食事に誘った。私設応援団「ガルズ」の団長・石井努だった。現役監督がシーズン中、私設応援団と会食することは、極めて異例だ。近藤は振り返る。
「本当はファン全員を招待したかったんだ。どんな時も必死になって応援してくれた。あの声援が、どれほどありがたかったことか」
黒木は「あの時」を球界の後進に語り継いでいくことも自らの使命だという。
「当事者ですから、僕には伝えないといけない義務がある。『財産になります』ではなく、財産にしないといけない。ゲームセットまで、勝負はゲタを履くまでは、分からない―と」
光を求め、もがいた夏。男たちの記憶は、決して色あせることはない。(特別取材班)=敬称略・終わり=
◆小宮山で始まり、小宮山で終わった
ロッテが18連敗を脱したのは7月9日のオリックス戦(神戸)。先発したエース・小宮山悟が14安打されながらも140球を投げ、6失点完投。9―6で打ち勝った。18連敗は6月13日、同じオリックス戦(千葉マリン)での小宮山の敗戦から始まっていた。注目度の高さから試合はTBS系のゴールデンタイムに生放送。連敗脱出は中継終了後、ドラマ「ひとりぼっちの君に」の中でテロップにて報じられた。
(以上 報知)
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「七夕の悲劇」で心折れ睡眠薬/近藤昭仁さん悼む
元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。
◇ ◇ ◇
18連敗で「敗軍の将」とレッテルを貼られたが、根は勝ち気な人だった。3年契約で迎えられたロッテでは、1年目(97年)から最下位。消化試合となった千葉マリンでの試合後会見で、ベテラン記者と怒鳴り合いになった。当時59歳。1度監督室に戻ったが再び現れて、10センチ以上も背の高い同窓の年長者を見上げて第2ラウンドを始めた。あまりのけんまくに、20代の若輩者が多かった各社担当は傍観するだけだった。
そして2年目の98年は、6月から28日間も負け続けた。さすがの昭さんも心が折れ、不眠症で睡眠薬に頼った。「七夕の悲劇」で有名な17連敗では、神戸グリーンスタジアムの長い階段を4重、5重もの取材陣に取り囲まれ、「まぶしい!」と興奮して払いのけた手がテレビクルーを押し倒した。18連敗では最後、「ウワーッ!」と叫んでバスまで走った。翌日、連敗を脱すると「これから20連勝するよ」と勝ち気な顔に戻っていた。期間は日本が初出場したサッカーW杯と重なり、紙面の露出は控えめだったが、記者人生で最も忘れられない出来事だった。
直後に解任報道も出たが、最終戦まで指揮をまっとうした。ホーム最終戦はダブルヘッダー。第2試合のベンチに向かう廊下で、球団幹部に呼び止められて監督室に戻った。偶然見ていたが、解任通告とは気付けなかった。翌日の報道で知り、5000円の花束を持って自宅を訪ねたが不在。解任で花束とは不謹慎な話だが、初のプロ野球担当として鍛えてもらった感謝を伝え、夫人に快く受け取ってもらった数時間後、留守電に「ありがとう!」と昭さんの大声が入っていた。
喜怒哀楽がストレートで、どこか憎めなかった。同通告から5日後の退任会見では、「次は弱いチームじゃなくて、強いチームでね」といつもの勝ち気な弁で、監督再登板に意欲。武士の情けか同コメントを報じないメディアが大半で、ファンの物議も醸したが、花束の効果? か小言はなかった。14年12月に佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)の殿堂入りパーティーでお会いしたのが最後。本人の名誉のために触れるが、18連敗した98年の61勝、得失点差プラス、チーム打率1位とも最下位ではリーグ史上初。後日再会したときに、「最強の最下位」の称号にまんざらでもなさそうだった。優勝した西武とは9・5ゲーム差。18連敗がなかったらもしかして…、とも思う。合掌。【97~98年ロッテ担当=東北総局次長・中島正好】
ロッテ福浦「今の僕はなかった」恩師・近藤さん悼む
ロッテ福浦和也内野手兼2軍打撃コーチ(43)が恩師の死を悼んだ。
横浜ベイスターズの初代監督で、ロッテでも97、98年に指揮を執った近藤昭仁氏が27日、亡くなった。福浦は同監督に目をかけられ、97年に1軍初昇格。「近藤さんが監督じゃなかったら今の僕はなかった」と感謝は尽きない。
この日、ロッテ浦和球場で訃報に対し「本当に残念。それしかない。初めて1軍に上げてくれた監督だし、背番号を9に変えてくれた監督。18連敗とか、苦い思い出もありましたけど、やっぱり寂しいですね。僕はまだ若かったですし、かわいがってもらったって言ったらおかしいけど(試合で)使ってもらってありがたかった。18連敗だって、誰もしたいと思ってやってるわけじゃない。勝てなかった悔しさは今も忘れないし、本当、申し訳ないなという気持ちが大きいです」と、沈痛な面持ちを浮かべた。
(以上 日刊)
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近藤昭仁氏死去 大洋の内野手として活躍 ロッテ監督時に「七夕の悲劇」
プロ野球、大洋(現DeNA)の内野手として活躍し、ロッテ、横浜、巨人などで監督やコーチを務めた野球解説者の近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で亡くなったことが分かった。80歳だった。高松市出身。
近藤氏は1960年に早大から大洋に入団。ルーキーイヤーの5月に二塁手に定着すると、終盤戦には1番打者として活躍し、球団創設以来初となる優勝に貢献した。その後もレギュラー二塁手として活躍し、球宴に2回出場。1973年に選手兼任コーチとなり、同年限りで現役を引退した。
引退後は74年から78年まで大洋、79年から81年までヤクルト、82年から86年まで西武のコーチを、89年から91年まで巨人のヘッドコーチを歴任。93年から3年間は、大洋の後身にあたる横浜、97、98年にはロッテの監督を務めた。また、06年に15年ぶりに巨人のヘッドコーチに就任。翌年には統括ディレクターとしてフロント業務を務め、育成枠登録などを助言した。
ロッテ監督時代の98年には、6月13日のオリックス戦での逆転負けを皮切りに連敗街道へ。7月7日のオリックス戦で先発エースの黒木が力投し、トンネル脱出まであと1死まで迫りながら、同点本塁打を被弾。最後は3番手の近藤がサヨナラ満塁弾を浴びてプロ野球史上初の17連敗。同試合は「七夕の悲劇」として語り継がれた。
通夜は31日午後6時、葬儀・告別式は4月1日正午からいずれも横浜市鶴見区鶴見2-1-1の総持寺・三松閣。喪主は妻の由紀子さん。献花や葬儀についての問い合わせは公益社=(電)03(5491)3070=まで。
ロッテ・福浦 恩師・近藤さんを悼む「18連敗の悔しさ今も…」
ロッテ・福浦が近藤昭仁さんの死去の報に接し「本当に残念です。寂しいですね」と沈痛な表情で口にした。
近藤さんがロッテの指揮を執ったのは97~98年。福浦は当時、伸び盛りの若手で「初めて1軍に上げてくれたのも、背番号を9に替えてくれたのも近藤監督でした。僕はまだ若かったけど、かわいがってもらったというのもおかしいけど、(試合に)使ってくれた」と振り返った。
98年には「七夕の悲劇」とも言われた18連敗があった。「18連敗という苦い思い出もありました。あの悔しさは今でも忘れていない。18連敗したいと思ってやっていなかったけど…。(近藤さんに)申し訳ないという気持ちです」と話した。
(以上 スポニチ)
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プロ野球監督の近藤昭仁さん死去 元横浜、ロッテ
プロ野球の横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。葬儀・告別式は4月1日正午から横浜市鶴見区、総持寺三松閣で。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。
1960年に大洋(現DeNA)に入団。小柄ながら走攻守そろった二塁手として活躍し、新人だった60年は球団初のリーグ優勝と日本一に貢献。日本シリーズでは最優秀選手に選ばれた。引退後は大洋、ヤクルトなどのコーチを務め、93年に横浜の監督に就任して3年間、97年からはロッテの監督を2年務めた。
元横浜、ロッテ監督の近藤昭仁氏死去 80歳 98年にプロ野球記録18連敗
横浜(現DeNA)やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。
高松市出身の近藤氏は高松一高から早大に進み、1960年に大洋に入団。ルーキーイヤーから二塁手として活躍し、同年の日本シリーズMVPに選ばれた。1619試合出場、1183安打。球宴には62年と65年の2度出場した。
選手兼コーチとなった73年に現役引退。広岡達朗監督時代の西武など複数球団のコーチでは優勝請負人としてチームを支えた。93年に大洋の後身となる横浜の監督に就任。93年5位、94年6位、95年4位とAクラスを経験することなく退任すると、97年にはロッテ監督に就任。初年度に最下位となると、2年目の98年は現在もプロ野球記録として残る公式戦18連敗を喫して最下位となり、この年限りで辞任した。
(以上 デイリー)
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