「自分らしく」全力疾走のロッテ荻野貴司 新背番号「0」に込めた思い
小学校訪問で書き込んだ文字「子供たちにも『自分らしく』生きてほしい」
「自分らしく」。ちゅうちょなく、そう書き込んだ。1月13日。荻野貴司外野手は千葉市の幸町第三小学校を訪問した。マリーンズは2015年より地域・野球振興の一環として千葉県内各教育委員会と連携し、球団OBや選手を小学校に派遣。ベースボール型授業の特別講師を務めたり、児童と給食を共に食べるなどの触れ合う企画を積極的に展開している。この日は、荻野がその役割を担っていた。校長室に通されると大きな紙に「子供たちに一言、書いていただけませんか?」と要望された。だから、自身が小学校の時から胸に刻んでいる言葉を力強く書き込んだ。
「ボクは小学校の時、背が低くてクラスの中でも小さい方から数えて三番目ぐらいでした。一番小さかった時もあったかもしれない。その中で、『自分らしく』という言葉を胸に日々を過ごしていました。子供たちにも『自分らしく』生きてほしいと思います」
決して野球エリートではなかった。体が小さかった小中学校時代。パワー面では圧倒的に不利で、力の差を感じた。中学校では一時、練習に通わなくなった時期もあった。ただ、「自分らしく」という原点に立ち返った時、どんなに身体的な差があり壁にぶち当たっても「野球が好き」という事実が最後には浮かんできた。体が小さい分、足は誰よりも速かった。だから、さらに自分らしく、それを磨こうと誓った。
俊足が自慢も、ルーキーイヤーから故障続き…
高校は野球名門の私立高校ではなく、一般入試で県立郡山高校に進学をした。県立で私立の強豪校を倒したい。それが荻野にとって一番、「自分らしく」思えた。強い信念の下、高3夏は決勝まで勝ち進んだ。最後の相手は奈良の名門・天理高校。3番・遊撃でスタメン出場をしたが、残念ながら3-8で敗れた。大きな夢は叶える事は出来なかったが、自分らしく過ごせた充実した日々だった。それから「自分らしく」という言葉がより深く刻まれて、座右の銘となった。
大学、社会人を経てマリーンズに1位指名で入団。プロに入った時点でも決して体格的に恵まれているとは言い難かった中、やはり持ち前の俊足を売りに生きると誓った。ルーキーイヤーの2010年3月20日、ビジターで迎えた埼玉西武との開幕戦。荻野は2番・中堅でプロデビューをした。5回の第3打席にセーフティーバントでプロ入り初ヒットを記録。開幕から自慢の俊足を武器に疾走した。その活躍に引っ張られるようにチームは首位を突っ走った。
しかし、毎日の激走に右ひざがパンクした。交流戦途中にリタイア。46試合の出場で打率.326、1本塁打、17打点、25盗塁の成績を残し、1軍の舞台から姿を消した。新人王本命と言われた中での無念の戦線離脱だった。結局その後、3度右ひざの手術を行いリハビリを終え、ようやく1軍に戻っても、怪我に悩まされるシーズンは続いた。2013年には右足を肉離れ。2014年には左肩を脱臼した。2015年には左足を肉離れ。昨年も脇腹を肉離れするなど戦線を離脱した。
背番号は「4」から「0」へ…「怪我『0』を目指したい」
最近で忘れられないのは2013年。自己最多の102試合に出場して打率.275、チーム最多の26盗塁と機動力で大きく貢献した年だ。激しい上位争いを繰り広げる中で迎えた9月30日の日本ハム戦(現ZOZOマリン)だった。延長10回に先頭として四球で出塁すると、その後、一、三塁とチャンスが広がり、福浦和也内野手の左翼への浅い飛球にホームに飛び込んだ。まさに、その足でもぎとったサヨナラ犠飛。しかし、その前の走塁で、足に違和感があった。それでも三塁に到達した荻野は、痛みを訴えることなく、そのまま出場を続けると浅い当たりに果敢に突っ込んで勝利をもぎとっていた。
翌10月1日に行われた診断結果は右大腿(だいたい)二頭筋肉離れ。全治まで3週間以上。チームは仙台でイーグルスとのCSファイナルステージまで勝ち進んだが、自身はテレビ観戦をせざるを得なかった。
「怪我ばかりですね。ただ足は自分の持ち味。全力で走った結果の事に後悔はしない」
この日の荻野も全力だった。子供たちと積極的にたわむれた。鉄棒では逆上がりを披露し、登り棒にも上り、子供たちを喜ばせた。沢山の質問に丁寧に答え、楽しい時間を過ごした。そして、この日は社会人のトヨタ時代から付けていた背番号「4」とのお別れの日でもあった。
「楽しいことも辛いこともありました。この番号には慣れ親しんでいたし、好きだったけど、心機一転やることにしました。やっぱり怪我『0』を目指したい。そして『0』からの再スタートの気持ちで、この番号をいただきました」
小学校訪問を終え、ZOZOマリンスタジアムのロッカーに戻ってきた荻野は少ししんみりとした表情を浮かべた。ただ背番号は変わっても、「自分らしく」のスタイルは変わらない。これからも全力で駆け抜ける。荻野はマリーンズの勝利のために、新たな背番号を背に、また新たなスタートを切った。
マリーンズ球団広報 梶原紀章●文
(パ・リーグ インサイト)
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ジャパニーズドリーム!独立リーグからのプロ入り
「独立出身」に注目
1月の球界に大きな衝撃を与えたニュースと言えば、「マニー・ラミレスの高知入団」だろう。
高知とは、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスのこと。メジャー通算555発を誇るスーパースターが、NPB球団ではなく日本の独立リーグにやってくるということで話題を呼んだ。
近年はNPBに輩出する選手も増加してきており、このオフのドラフトでも8球団から実に10名の「独立リーガー」が指名を受けた。今回は昨年ドラフト指名された独立リーガーの“NPB1年目”を振り返ってみる。昨年指名を受けた選手たちは以下の通り。
【2015年ドラフト・独立出身選手】
▼ ロッテ
育成1位 大木貴将(四国IL/香川オリーブガイナーズ)
⇒ 7月に支配下登録(一軍出場なし)
▼ 西武
10位 松本直晃(四国IL/香川オリーブガイナーズ)
⇒ 2試合に登板して2回2/3を無失点。
▼ オリックス
育成2位 赤松幸輔(四国IL/香川オリーブガイナーズ)
▼ 巨人
育成1位 増田大輝(四国IL/徳島インディゴソックス)
育成2位 小林大誠(BC/武蔵ヒートベアーズ)
育成3位 松沢裕介(四国IL/香川オリーブガイナーズ) ※入団せず
育成4位 田島洸成(BC/武蔵ヒートベアーズ)
育成5位 大竹秀義(BC/武蔵ヒートベアーズ)
育成7位 矢島陽平(BC/武蔵ヒートベアーズ)
育成8位 長谷川潤(BC/石川ミリオンスターズ)
⇒ 開幕直前に支配下登録。3試合の登板で0勝1敗、防御率は8.53
▼ 中日
育成2位 吉田 嵩(四国IL/徳島インディゴソックス)
育成3位 三ツ間卓也(BC/武蔵ヒートベアーズ)
昨年は12名がNPB入りを果たし、支配下指名だった西武の松本と、巨人の育成8位・長谷川潤が一軍デビュー。ロッテの育成1位・大木は支配下登録を勝ち取るも、一軍出場はなかった。
特に巨人の長谷川は、育成8巡目から1年で這い上がるという快挙を達成。初勝利こそならなかったものの、東京ドームで投げる勇姿は独立リーガーたちに大きな希望を与えた。
今ではタイトルホルダーも...
その他にも、「独立リーガー」を語る上で欠かせないのがロッテ・角中勝也の活躍だろう。
四国・高知ファイティングドッグスからロッテに入団した男は、NPB在籍10年目となった昨季にパ・リーグ首位打者と最多安打のタイトルを獲得。今やチームの顔に成長し、今季からはサブローから引き継いだ背番号「3」を背負う。
年俸も6100万円の1億4100万円(推定)まではね上がり、球団の日本人選手の中ではトップの額に(※1月20日現在)。まさに“ジャパニーズドリーム”を掴んだ。
今年は四国やBCだけでなく、近畿地方を拠点に活動する「BASEBALL FIRST LEAGUE(以下BFL)」の兵庫から2名がNPB入りを果たすなど、新たな風も吹き込んでくる。
これからも大出世を目指す「独立リーグ出身」の選手たちに注目だ。
【2016年ドラフト・独立出身選手】
▼ ロッテ
育成1位 安江嘉純(BC/石川ミリオンスターズ)
▼ 楽天
育成3位 向谷拓巳(BFL/兵庫ブルーサンダース)
▼ オリックス
育成4位 坂本一将(BC/石川ミリオンスターズ)
▼ 巨人
育成1位 高井 俊(BC/新潟アルビレックス)
育成3位 山川和大(BFL/兵庫ブルーサンダース)
育成8位 松沢裕介(四国IL/香川オリーブガイナーズ)
▼ DeNA
育成1位 笠井崇正(BC/信濃グランセローズ)
▼ 阪神
6位 福永春吾(四国IL/徳島インディゴソックス)
▼ ヤクルト
育成1位 大村 孟(BC/石川ミリオンスターズ)
▼ 中日
育成1位 木下雄介(四国IL/徳島インディゴソックス)
(ベースボールキング)
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テレビ制作会社に転身 海外サッカー番組に携わる元ロッテ投手
異業種で輝く元プロ野球選手
【山本徹矢(元ロッテ投手)】「もうプロを辞めて3年ですか。この業界にもだいぶ慣れたので、今はすごくいい環境で仕事をやらせてもらってますよ」
プロ野球ファンなら覚えているかもしれない。2013年オフにロッテをクビになり、テレビ制作会社のアシスタントディレクター(AD)に転身した異色の右腕。山本徹矢さんだ。あれから3年。今も裏方業は続けている。
「担当はバラエティーからサッカーになったんですけどね(苦笑)」
08年のドラフトで神戸国際大付高からロッテ入り。11年に一軍で11試合に登板したものの、以後は右肩の故障に悩まされ13年に引退。業界入りはその直後だった。
「たまたま知り合いだった武田一浩さん(元日本ハム、中日など・現野球解説者)が紹介してくださったのがテレビ制作会社のADの仕事で。当時は野球を辞め、まだ何も決まってなかったので。とにかく一度やってみようと。軽い気持ちで仕事を受けたのですが…」
14年2月、ADとして再出発を誓ったが、新たな舞台には厳しい現実が待ち受けていた。
日本テレビ系の人気番組「ナカイの窓」の担当に抜てきされたものの、ADはテレビ制作現場では「下っ端」の雑用係。仕事は膨大で、重い機材の運搬や収録後のテロップ作り、出演者の調整、関係者への取材など多岐にわたる。拘束時間も長く、スタジオ収録日ともなれば、就業は深夜に及ぶこともしばしば。1週間のうち週3~4日はテレビ局に寝泊まりするほど過酷だった。
「ADになるまでパソコンを使ったことがなかったので、その適応も大変で。例えばテロップ作り。普通の人なら1時間で終わる仕事が、僕の場合6時間以上もかかった。当然、上司に怒られるし、いつの間にかあきれられてしまったというか。結局、体力はあるので、やる仕事は重い荷物の運搬や雑用ばかり。最初の6か月は毎日『辞めたい』と思ってました」
環境が変わっても、試練は続く。もともと、スポーツ番組制作が志望だった山本さん。16年4月、念願かなってNHKの番組を扱う制作会社へ移籍したものの、ディレクターを任されたのは「興味も知識もなかった」という「海外サッカー」。再び出直しを余儀なくされた。
それでも、華やかな球界からあえて裏方業に飛び込んだ異端児。あきらめはしなかった。選手やチームを自分なりに小まめに研究。今では畑違いだったサッカー番組にも順応し、連日目の肥えた視聴者に映像を送り続けている。
「仕事は今でも大変です。でも、この仕事を紹介してくれた武田さんの顔もあるし、自分との闘いもある。辞めたら自分に負ける感じがするので」
15年に結婚。夫人との間には1歳の長男がいる。家族を支える使命とともに、厳しい業界でもまれた経験を生かした目標も生まれつつある。
「自分がこの仕事でつらい思いをした分、将来は自分が一人前のADを育てたい。今の業界のやり方ではADはすぐに辞めてしまいますから。テレビ制作現場の環境も改善できればいいですね」
いずれは業界に優秀な人材を派遣する会社を起業したいという山本さん。
苦労人の夢は大きい。
☆やまもと・てつや 1990年、兵庫県生まれ。神戸国際大付高から2008年のドラフト5位でロッテ入団。11年に一軍初昇格し、11試合に登板。13年に現役引退し、テレビ制作会社に就職。14年2月からADとして日本テレビ「ナカイの窓」を担当。16年からはNHK海外サッカー番組のディレクターになり、現在に至る。プロ通算成績は11試合0勝0敗、防御率5.63。右投げ右打ち。
(東スポ)
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