MZの手下の日記

なんということもなく、このたび、日記を開設しました。昔の文章のいくつかも、すこし手を入れて移しています。

やんば天明泥流ミュージアム

2021-09-24 15:00:00 | 上州を旅する
八ッ場ダムの湖畔にある「やんば天明泥流ミュージアム」を訪ねた。八ッ場ダムの建設工事に先立ち、ダム湖に沈む吾妻川沿いの地域の発掘調査が、1994年から2019年まで行われた。発掘されたのは、縄文時代から江戸時代までの長い歴史時代の遺物だが、特に1783年の浅間山の天明噴火にともなう天明泥流によって埋もれた江戸時代の村が発掘された。このミュージアムには、その成果が展示されている。今年、開館したばかりの新しい施設である。
 


ミュージアムはそう広くはないが、展示内容は充実している。展示は、天明泥流展示室、天明泥流体験シアター、テーマ展示室からなり、テーマ展示室では、この地域の縄文時代の土器や石器が展示されていた。展示室は写真の撮影も許され、そう広くはないが、ポイントを押さえたわかりやすい展示だと思う。展示室の入った正面には、天明泥流に覆われた江戸時代の村がジオラマで再現されている。学芸員の方の説明によると、今回の発掘の成果に基づいて、忠実に再現されたジオラマで、畑の畝の数まで忠実に再現したとのことである。 


浅間火山の天明噴火の展示に対しては、家人が、その内容について少し協力をしたということもあり、その内容についての論評をするのは避けたいと思う。だが、コンパクトに天明の噴火の経緯を見せつつ、また別には浅間火山の活動史もさりげなく紹介するという展示は、ミュージアムのみなさんの、訪ねた人たちに天明噴火と泥流の記憶をわかりやすく伝えたいという思いが伝わってくるような気がする。 



展示の中には、天明電流堆積物の剥ぎ取り露頭がある。露頭をエポキシ樹脂で固めてはぎ取ったものだが、剥ぎ取りというのはなかなか難しいものらしく、様々な博物館で見かける剥ぎ取られた地層は、現実に露頭で見る地層とはかけ離れたものであることが多い。地層は、大地から引きはがされた瞬間に命を失い、死んでしまうということかもしれない。このミュージアムの剥ぎ取り露頭はできがよく、天明泥流や浅間Aの軽石がそのテキスチャーまでよくわかる状態で保存されている。一見の価値がある。 


テーマ展示室は、八ッ場地域で発掘された、縄文時代の土器、石器を中心に、新しくは平安時代の出土物までが展示されていた。小さい展示室ということがかえって展示物との距離をなくし、より細部まで観察できる効果をもたらしていると思う。



このミュージアムの目玉は、天明泥流体験シアターで、大画面のスクリーンで、江戸時代のこのあたりの村の暮らしと、1783年の噴火、そしてその後の天明電流に、この村が覆われるまでの経緯をリアルに淡々と再現している。この映像は撮影不可ではあるが、施設のWebサイトでダイジェスト版が公開されている。CGはなかなか出来が良いように思う。


ダムが建設されるまで、喧々諤々の議論があったが、できてみると観光スポットにもなり、台風の防災にも役立ち、悪いことばかりでもなさそうである。八ッ場ダムへ訪問された際には、お立ち寄りになることをお勧めする。




嬬恋郷土資料館と鎌原城址

2019-09-14 18:57:20 | 上州を旅する
嬬恋郷土資料館へ行った。ちょうど、浅間の天明噴火で有名な鎌原観音堂の真上に位置する。浅間北麓ジオパークの建物と向かい合って建っている。資料館の前には、上皇后さまの御歌の碑が建っている。


天明3年の浅間山の火山活動による岩屑流によって、当時の鎌原村はまるごと埋まってしまった。なんでも570名の村人のうち、生き残ったのは93名だったと伝わる。その多くは、この郷土資料館のそばにある鎌原観音堂のような高台に逃れた人々だそうである。観音堂の50段の石段のうち、35段までが岩屑流に埋まったそうである。



昭和54年から、科研費によって、この埋まった旧鎌原村の発掘が行われ、当時の状況が明らかにされつつある。この資料館には、その発掘の出土品が多く展示されており、一見の価値があると思う。科研費も、たまには、世の中の役に立つことがあるらしい。資料館の屋上からは、鎌原村や、もちろん観音堂も、広く見渡せ、なかなか景色がよい。



この資料館の裏手には、鎌原城という古いお城の跡があり、学芸員の方から、そこの道を入ったところですよ、何もありませんけど、と教わったので、訪ねてみることにした。細い道を登ると、吾妻川の少しひらけた段丘の上に出ることができ、今では畑になっている。吾妻川の段丘の要害を利用した守りの堅い城である。その中に、ポツンと鎌原城址の案内板がある。



鎌原氏は、真田氏と同じ滋野一族で、鎌原から三原あたりを本拠としていたらしい。戦国時代の終わりには、武田氏、そして武田滅亡後は真田氏に仕えたようである。戦国後期の真田氏について書かれた記録には、家老あるいは一族衆として鎌原氏の名前があると、ものの本にある。


この城は、元和の一国一城令で廃された。沼田・吾妻領の城は、沼田城だけになったのである。今では、畑と原っぱにしか見えない城跡である。興味がなければ、畑か鉄塔でも見に来たのかと思うかもしれない。その中で、三の丸と二の丸の間には、発掘された堀切が復元され、ああなるほど、昔は城があったのだと思いをはせられるのである。



愛妻の丘

2019-07-28 16:00:00 | 上州を旅する
嬬恋というのは、いい響きの地名だと思う。なんでも日本武尊(やまとたけるのみこと)が、亡き妻を偲んだことにちなむという。亡き妻とは、古事記にある弟橘媛(おとたちばなひめ)のことだろうか。もっとも、ろくに古事記などは読んだこともないので、真偽のほどは分からない。さて、その嬬恋村に、キャベツ畑の真ん中で愛を叫ぶ「愛妻の丘」という場所がある。





四阿山(あづまやさん)の東麓にあり、遠くに浅間山、近くにキャベツ畑がある丘である。丘の上には、叫び台と呼ばれる台と、ハグ台と呼ばれる台、そして鐘がある。ここに、二人で訪れて、まず、鐘をつき、次に叫び台の上で愛を叫び、最後にハグ台の上でハグをするのだそうである。



丘からの眺めは、たいへん素晴らしい。浅間山は雲に隠れて見えなかったが、田代湖から糠塚山、村上山、桟敷山、湯ノ丸までが一望に見渡せる。



毎年9月には、ここで、「キャベツ畑の真ん中で愛を叫ぶ」イベントが開かれるそうである。だが、ここに滞在している間、愛を叫ぶ人もハグする人もいなかった。帰ろうとしたとき、バスツアーの一団がついて、これだけたくさんの人がいれば、誰かがするかと思ったが、結局誰もしなかった。自分もそうだが、なかなか人前でできるものではないようである。



とはいえ、素晴らしい眺望を堪能し、キャベツ畑の中を家路についたのである。




八ッ場ダムと川原湯温泉

2019-06-09 16:00:00 | 上州を旅する
川原湯温泉は、800年前に源頼朝が発見したとの言い伝えがある古い温泉である。吾妻川沿いにあるこの温泉は、まもなく八ッ場ダムの完成とともに、湖の底に沈むことになる。梅雨に入ろうかという6月の初め、機会があって訪ねた。



ダムは既にほとんど完成し、温泉街は5年前から、段丘の上へ移転している。ダムの底に沈む集落は既に取り壊されていた。昔の川原湯温泉がどこにあったかを、移転後の段丘の上や、吾妻川にかかる八ッ場大橋から眺めても、今となっては何もわからないように思う。



土産物屋で店番をしている老婦人に聞くと、もう昔の自分の店がどこにあったかを、眺めてみてもよくわからないと言っていた。時代が人の営みや様々な思いを超えて移って行くのを感じる。



その共同浴場の「王湯」は、多くの人でにぎわっていた。真新しい木の湯舟の露天風呂と内風呂は、以前と変わらない温泉を湛えている。いまでも循環ではなく、かけ流しらしい。線質は含硫黄・カルシウム・ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で、内湯は以前のように熱い。外湯は寒い日だったせいか、ぬるめの湯だったが、係の人が少しぬるすぎるといって温度を上げていった。



なんでも、二つあった源泉の一つが高台にあり、それを利用できたので、移転後も以前の泉質とあまり変わらなかったらしいというが、定かではない。次の冬にはダムも完成し、湛水が始まるとのことだ。昔の湯治場の雰囲気を残す温泉街も懐かしいが、緑が映える湖畔の温泉も、また、よいのかもしれないと思いながら家路についたのである。