MZの手下の日記

なんということもなく、このたび、日記を開設しました。昔の文章のいくつかも、すこし手を入れて移しています。

龍岡城五稜郭

2022-05-01 14:53:36 | 佐久を訪ねる
龍岡城は、稜堡式築城法 によって築かれた城で、星形の形をしている。函館の五稜郭とともに、日本で二つしかない星形要塞である。この城は、もう明治になろうかという1867年に竣工した。江戸時代の終わりに完成した城である。突き出た稜堡からは十字砲火が浴びせられるように設計されている。


築城したのは、最後の田野口藩主の松平乗謨 (のりかた)という殿様で、この人は、幕府の陸軍奉行、若年寄を歴任し、維新後は、大給恒(おぎゅうゆずる)と名乗り、佐野常民とともに、今の赤十字の前身にあたる博愛社の設立に奔走したらしい。田野口藩は城主格ではないので、正式には田野口陣屋である。



明治の初めに、城の一部は破却され、今は堀と土塁の一部、そしてお台所と呼ばれる建物が残るのみである。跡地は小学校の敷地になっている。大手前には五稜郭であいの館という案内施設がある。何年か前に城跡を訪ねたが、高いところから星形の全景を見たいものだと思いながら、時間がなくて城跡を後にした。機会を得て、この5月に再び再訪した。


五稜郭を望む、北側の尾根には展望台から、龍岡城五稜郭の全景を眺めることができ、遠く八ヶ岳まで望むことができる。龍岡城からも、徒歩で登るルートがあるらしいが、今回は北側から車で登った。軽トラが似合う狭い山道であるが、登り切れば駐車場もある。実はこの山も、戦国時代の山城の跡らしい。

この日は天気に恵まれ、龍岡城の全景を写真に収め、満足して温泉へ向かったのである。





佐久のピンコロ地蔵と伴野城跡

2020-03-20 17:00:00 | 佐久を訪ねる
少し前になるが、中込へ行った帰りだったろうか、急に思い立って、佐久岩村田のピンコロ地蔵を訪ねた。最近あちこちにできたピンコロ地蔵の中でも、比較的、はじめのころにできたものだという。成田山薬師寺の門前にある。



岩村田は、江戸時代を通じて、中山道の岩村田宿があり、内藤家一万五千石の陣屋が置かれた土地である。当時はこの地が佐久甲州街道の起点となり、栄えたらしい。近年、新幹線の佐久平駅ができるまで、佐久の中心は、ここ岩村田や中込などの東部にあったようである。



薬師寺の裏手には、伴野城跡の堀と土塁が残っている。伴野城は鎌倉時代から室町時代にかけて、伴野氏の居館があった場所で、戦国時代には城としても一時的に使われたらしい。土塁に囲まれた方形の居館の跡である。今は公園として整備されている。土塁好きの自分としては、少しテンションが上がった。



土塁は、北側と西側、そして東側の一部が残されており、それを取り巻くように堀が全周をめぐっている。堀とはいっても、戦のときに役に立ったろうかと思わせるような細い幅の堀である。なかには、「長野県史跡伴野城跡」と書かれた看板があり、由来が詳しく書かれている。



なんでも、鎌倉時代から室町時代にかけて、伴野氏の居館が置かれた跡で、戦国期の動乱を経て、江戸時代には官庫や陣屋などが置かれたとある。

ものの本によると、伴野氏は、信濃国の守護家であった小笠原氏の諸流で、鎌倉時代の初めには、のちの宗家をしのぐほどの繁栄をしたが、安達泰盛の乱に連座し、威勢が衰えたとのことである。



旧中込学校と鉱物学教科書

2019-07-27 15:00:00 | 佐久を訪ねる
七月のある日、佐久市中込にある旧中込学校を訪ねた。旧中込学校は、明治8年に建てられた、日本で最も古い学校建築だそうである。疑洋風建築と呼ぶそうで、パッと見たところは、ハイカラの洋風建築だが、実際は、日本の建築技法が多く採用されている建築らしい。太鼓楼と呼ばれる塔とベランダが印象的な素敵な校舎である。



この学校を建てる費用は、当時の中込の村々の有志の募金などで賄われたそうである。激動の明治の初めに、村民たちが身銭を切って、子供たちの教育に投資したことに感慨を覚えた。長野県は日本有数の教育県だそうだが、その県民性は、遠い明治の初め、ひょっとするとそれ以前にまで、その由来を遡れるのかもしれない。





学校は、昭和44年に重要文化財に指定され、それを機会に解体修理を行い、復元された。その後も平成7年に、平成の修理などが行われ、校内には、写真の第一教場などが復元されている。二階の教員控所や第二から第四教場などには、往時の教材などが展示されており、なかなか興味深い。



その展示の中に、鉱物学教科書や、博物教科書なども見つけた。鉱物学教科書には、理学士伊藤貞市補訂とある。後の帝大教授である。若いころ、鉱物学を志した自分にとって、恩師に連なる名前が出てきたことに、少し驚くとともに、なんとなく嬉しくなった。しかし、高等小学校などで、こんな難しいことを教えていたのだろうか?もしそうなら、今日の大学生などより、よっぽど賢いのかもしれない。




表に回って、校舎の鬼瓦を見てみると、中込の文字を見つけた。これは解体修理のときに復元されたものらしく、併設された資料館には、往時の本物の瓦、まったく瓜二つのものが展示されていた。オリジナルをもとに復元したのだから、オリジナルと復元された瓦が似ているのは、当たり前なのだが・・・。

昔の学校は、個性的でおしゃれだと思う。それに比べると、最近の学校は箱が並んでいるようで、校舎を見ても、つまらないと思う。ただ一つの問題は、冷房がないので、汗をかきかき、見学したのである。


萌黄色(もえぎいろ)の桜と高峰温泉

2019-05-11 19:05:36 | 佐久を訪ねる
5月のある日、小諸の高峰温泉へ出かけた。高峰高原にあるこの温泉は、2000mの標高にあり、ランプの宿として知られる。信濃追分から浅間サンラインを通り、高津やトンネルの入り口の手前で、チェリーパークラインに入り、車坂峠を越えたところにある。

チェリーパークラインの入り口近くに、桜並木観光道路完成記念碑はあり、その傍らにひっそりと珍しい桜の木が立っている。萌黄色というか、淡緑色の珍しい花をつける桜である。御衣黄(ぎょいこう)という品種である。温泉へ向かう途中、車を止めて見に行った。



ものの本によると、緑色は葉緑素によるもので、咲き始めがもっとも色が強く、花が開くにつれ、薄紅色になるらしい。写真のように、まだ満開ではなく、七分咲きぐらいではあるが、それがかえって、萌黄色の花の美しさと珍しさを際立たせている。



御衣黄とは、貴族の萌黄色の衣服に由来するという。昔は黄桜とも呼ばれていたという説もあるらしい。ただし、黄桜が御衣黄を指すのか、別の樹木の花を指すのかは諸説あって判然としないらしい。タイムマシンで江戸時代に行き、取材をしてみれば、本当のところがわかるかもしれない。



山の上の高峰温泉は、車坂峠を越えたところに位置し、篭ノ登山(かごのと)の登山道の入り口にある温泉宿である。標高2000mにあるランプの宿として知られる。日帰り入浴は10:00から16:00までだった。以前、来た時の記憶では、もう少し透明な湯だったように覚えていたが、白濁したにごり湯だった。硫黄の香りがほのかにする温泉である。



この日は湯ノ丸高峰林道が開く日でもあったので、林道を抜け、湯ノ丸から東御へ抜け、帰ったのである。帰ってからも、体がポカポカして、ひと眠りした。そして目覚めると肩こりが治ったような気がしたのである。



松原湖の枝垂れ桜

2019-05-02 12:00:00 | 佐久を訪ねる
平成から令和へ移る10連休の中ほどに、軽井沢へもどり、のんびりと過ごした。天候が不順で雨が降ったり、晴れたりが、一日ごとに繰り返される休日だったが、思い立って、南佐久郡の海ノ口温泉へ出かけた。海ノ口温泉は八ヶ岳の西麓にある炭酸泉である。古い昭和時代に取り残されたような温泉がポツンとある。 
 


海ノ口まで向かう途中に、松原湖に立ち寄り散策した。中部横断自動車道が八千穂高原I.C.までつながり、軽井沢から比較的アクセスが良くなったと思う。松原湖は仁和3年(887年)の仁和地震によって生じた岩屑流により、千曲川支流の大月川がせき止められてできたとされる。小さなとても美しい湖である。 
 

  
湖畔には、松原諏訪社の上社と下社が、湖を挟んで向かい合っており、湖畔の説明書きによると、松原七不思議のひとつには、諏訪湖のように御神渡りも見られたらしい。



下社の境内には、御柱もあり、ここは信州なのだと感じる。稲荷社や弁天社も祀られており、ぶらぶらと散策をしながら湖畔を一周した。
 

 
少し盛りを過ぎているが、湖畔の枝垂れ桜が美しい。桜に見惚れていると、その上を鳶が青い空に吸い込まれるように周回していた。何ということもないが、新しい時代の幕開けが、のどかな一日から始まったことを、少しうれしく思いながら湖畔を後にしたのである。


温泉はえらく繁盛していた。前に訪ねた時には、時間が止まったような空気で、地元の住民の生活に溶け込んだような温泉だったのだが、この連休中は泊り客で満室らしい。温泉でくつろいだのだが、人が多いせいか以前より炭酸の量が減ったような気がして、少し残念に思ったのである。本当のところはよくわからない。それでも松原湖の枝垂れ桜と八ヶ岳を見て、温泉に浸かり、少しはリフレッシュしたような気になったのである。