嬬恋郷土資料館へ行った。ちょうど、浅間の天明噴火で有名な鎌原観音堂の真上に位置する。浅間北麓ジオパークの建物と向かい合って建っている。資料館の前には、上皇后さまの御歌の碑が建っている。
天明3年の浅間山の火山活動による岩屑流によって、当時の鎌原村はまるごと埋まってしまった。なんでも570名の村人のうち、生き残ったのは93名だったと伝わる。その多くは、この郷土資料館のそばにある鎌原観音堂のような高台に逃れた人々だそうである。観音堂の50段の石段のうち、35段までが岩屑流に埋まったそうである。
昭和54年から、科研費によって、この埋まった旧鎌原村の発掘が行われ、当時の状況が明らかにされつつある。この資料館には、その発掘の出土品が多く展示されており、一見の価値があると思う。科研費も、たまには、世の中の役に立つことがあるらしい。資料館の屋上からは、鎌原村や、もちろん観音堂も、広く見渡せ、なかなか景色がよい。
この資料館の裏手には、鎌原城という古いお城の跡があり、学芸員の方から、そこの道を入ったところですよ、何もありませんけど、と教わったので、訪ねてみることにした。細い道を登ると、吾妻川の少しひらけた段丘の上に出ることができ、今では畑になっている。吾妻川の段丘の要害を利用した守りの堅い城である。その中に、ポツンと鎌原城址の案内板がある。
鎌原氏は、真田氏と同じ滋野一族で、鎌原から三原あたりを本拠としていたらしい。戦国時代の終わりには、武田氏、そして武田滅亡後は真田氏に仕えたようである。戦国後期の真田氏について書かれた記録には、家老あるいは一族衆として鎌原氏の名前があると、ものの本にある。
この城は、元和の一国一城令で廃された。沼田・吾妻領の城は、沼田城だけになったのである。今では、畑と原っぱにしか見えない城跡である。興味がなければ、畑か鉄塔でも見に来たのかと思うかもしれない。その中で、三の丸と二の丸の間には、発掘された堀切が復元され、ああなるほど、昔は城があったのだと思いをはせられるのである。